石川忠司『吉田松陰 天皇の原像』を読んで思い出す何か大切なもの

51USZ9+XAtL._SX342_BO1,204,203,200_

 

 いま、東北芸術工科大学の教員宿舎である。今日は研究室に文芸学科の1、2年の学生達が20名ほどやって来て、椅子が足りないので何人かは床に座ったりして、彼らが出そうとしている同人誌の相談にのってあげた。1年生には2時から5時近くまで講義した後なので、ぼくらはいったい何時間いっしょにいたことになるのだろう?

 その後、教員仲間の石川忠司がやって来て、最後はいつものように2人でいろいろ話し、解散した。明日も明後日も一緒である。

 今日はそんな石川忠司の新刊『吉田松陰 天皇の原像』を紹介したい。この本は藝術学舎から吉田松陰についての本を出したいと思い、しかし自分では書けないので石川忠司に頼んで書き下ろしてもらった本だ。

 原稿をもらった時、実に面白いと思った。さすがだな、と。「人民や藩士が直接天皇に忠誠を尽くす行為は許されず」というあたりから説き起こし、かつて「仁」をひっくり返したのと同じ手さばきでこれまでに言われてきた松陰の天皇像をひっくり返し、明治の天皇像の二重性から一気に現代にまで論を通している。石川忠司の仕事の中でも、これはかなりいいものだと思う。ぼくはこの本のいわば担当編集者で、立場的に本を売ることばかり考えていたのだが、改めて松陰の思想の過激さ、危険さに触れ、身の引き締まる思いがした。それから個人的には、三島由紀夫は松陰から一直線だったのかなと思ったのであった。

 明治維新以降、長州すなわち山口県出身の政治家達は(安倍首相もその1人だ)、松陰をさんざん利用してきた。そういう輩から本来の松陰を取り戻したの本書である──と、ぼくは断言したい。

 ところでぼくは本書に「解説」を書いた。

<彼の批評は年齢を経るにつれてむしろ若々しいロジックの煌めきを獲得し、余計な肉を削ぎ落とし、芭蕉的な大きな世界に挑むようになってきている。そのことに、ぼくは密かに驚嘆する。

 本書にぼくは編集者として関わっているわけだが、公平に見て、この決して長くはない吉田松陰論は批評家・石川忠司の現在における到達点を示しているのではないかと思う。しかし、芭蕉的に余計なものを削ぎ落としたロジックの煌めきからは、たとえばNHKの大河ドラマでも扱われた吉田松陰という人の生涯のエピソードがほとんど省略されている。

 そもそも原稿をくれた時、タイトルが付けられていなかった。

「タイトルは?」と怪訝な顔でぼくが問うと、

「あんたに任せる」という返事であった。

 お前はタイトルまで省略するのかよ、とぼくは思ったのであった。

 仕方なくぼくがいくつものタイトル案を考え、石川忠司が選んでくれたのがこの『吉田松陰 天皇の原像』である。

 そういうわけで、吉田松陰に興味を持ち本書を手に取って下さった読者の方々に、松陰の生涯の紹介を「田山花袋」的に補うのがこの原稿におけるぼくの使命だろうと思う次第である。>

 石川忠司とぼくは志を同じくする同志みたいなもので、仲はいいと思うのだがしばしば喧嘩する。いっしょにやった講演会でも喧嘩になり、研究室での議論は日常茶飯事で、実は昨日も電話で怒鳴り合ったばかりだ。なぜそんなにぶつかるのか。それはきっと、二人ともお互いに、もっと遠くへまで行けるはずだと信じているからだろう。

 さて、ぼくが伝えたいことは以下の通りです。

 是非とも石川忠司の『吉田松陰 天皇の原像』をお読みください。あなたは、石川忠司と罵り合った後のぼくのように、きっと何か大切なものを思い出せるはずだ。

※この本は山川研究室でも販売しています。学生諸君、是非とも読んでね。