気付いたら7月になっていた。いや、嘘である。私だって暦ぐらいは読めるのだ。カレンダーだって眺めるのだ。7月になっていること、時間がいつの間にかに過ぎ去っていることから目を背けようとしているだけである。何より毎週、楽しみにしていた『重版出来』と『トットてれび』が終わり、いくつかのアニメも同様に終わっている。そう改変期を迎えているということは、もう7月なのである。7月になると学生も教員も目の前に具現化してきている夏休みという響きに心躍らせ始める。夏休みに読みたい本と書きたい原稿、書かなければならない原稿と盛り沢山である。大変素晴らしい。早く来ないのだろうか。その点、6月は真逆で、1か月もの間、連休がない。夏休みはまだ遠く、手の届かない存在のように思えてしまう。そのためか学生たちもぼちぼち休み始めるようになる。
私自身は五月病にかかったことがないので、体感的に連休明けに休みたくなるということが分からない。そして昨今の学生さんは、私が大学生であった90年代後半から2000年代と比べても非常に真面目に授業に出席をしているように思える。そもそも教員が時間通りに授業に来ること自体、昔には考えられなかった。私が大学生だったとき、大学教員は15分平均で遅刻し、15分程度早めに終わるので、中身は60分ぐらいしかなかったものである。今は時間通りに来て、時間通りに終わるようにしており、それが当然となっている。さておき、5月の連休が明けたところで出席する学生の数は減らない。減り始めるのは6月に入ってからである。
シギサワカヤに『九月病』という作品がある。夏でもない、秋でもない9月という時間に起きる恋愛模様を描いた作品だが、これを読んだとき、毎月、何かしらの病気があってもよいのではないかと思ったものである(作品本編とは関係のない感想)。したがって、6月に休むのは六月病としてしまってもよいかもしれない。季節の変わり目で体調を崩しているのかもしれないし、梅雨に入って気分が優れなくて休んだのかもしれないし、新年度から2か月ぐらいは気合で乗り切っていたが、もうそれが尽きようとしているのかもしれない。そのことに関して、特に咎めようとは思わない。もしかしたら、旅に出ないといけない衝動が起こり、作家として一つの転機をその旅で得られるかもしれない。新人賞の締め切りが重なって、授業に来る時間などなく原稿を書いているのかもしれない。
1年生の必修授業で『日本語表現基礎』というものがあるのだが、先日、他の先生から「いやー、玉井さん、1年生の原稿をばっさばっさと切っているらしいですね」と言われてしまった。正直なところ、wikipediaやニコニコ大百科、pixiv百科事典、naverまとめのコピペで書かれたものを右から左に切っていただけである。せっかく文芸学科に入ったのだ。コピペではなく自分の文章で勝負しようぜ。そしてもう一つ言っておこう。入学したての1年生だから、一つ一つ指摘していただけであって、2年生以上にはあまり強くは言わない。さらには同じく2年生以上には課題を出さなくても、強くは言わない。課題は一つの目安でしかなく、自分自身の目標があり、それに向かうために何をすべきかは自分自身で考える必要がある。もう子供ではないのだ。課題を出さず、かといって何もしていない学生には哀れみの視線を与えている。とやかく言わないことは優しいと捉えるかもしれないが、一番、厳しいのである。したがって課題を出さない学生に厳しく指導している他の先生方は優しいなと思って見ている(一応、書いておくと出してきた課題はきちんと読んでいるし、コメントもしているし、課題提出の催促もしている)。
もう7月に入った。2016年度前期の授業も終わりが見えようとしている。様々な授業で最終課題が提示されるようになるだろう。六月病にかかってしまった皆さんも、特にかかっていない皆さんも、気を抜かずに走り抜けて欲しい。夏はもうすぐ。
そして季節は関係なく読める『文芸ラジオ』2号の宣伝タイムである。まだまだ絶賛発売中であります!
BGM:THE YELLOW MONKEY『楽園』