「小さな虫さえも 道に迷っている」

 地図を読むのは、かなり大変な作業である。とはいえ機械的に自分自身の位置と目的地、その途上にある目印さえ把握していれば、地図など何とでもなるし、普通に生活していれば地図を手に取る機会はそれ以上、発生することはないかもしれない。その点においては地図を読む行為は、それほど大変な作業ではない。しかし、行ったこともない土地の地図を眺め、そこで描かれている地理的状況だけではなく、歴史的背景、さらには経済的な状況、住民たちの生活環境、神社や何やらから社会的な構成を読み解いていくことまで求めていくと「地図を読む」という行為は各段に難解なものになっていく。

 私自身は地図を読み解くことは得手とはしていない。高校生から大学生ぐらいまでは、どう読んでいいのかわからないということは多々あった。特にファンタジー作品に描かれている地図をどう受け止めていいのかが分からず、非常に困惑したことを覚えている(でもファンタジー小説には地図が欲しいというマニア心)。では大学で行われているフィールドワークに参加することで、この焦燥が解消されるのかというと実はそうではなかった。現場に足を運べば、肌で感じ取ることができるではないかという意見はあるかもしれない。それはある意味では正解で、ある意味では不正解なのである。何が足りないのかというと、読み解けるだけの知識と経験が大幅に不足していたために、現地に行ったところで、ただ行っただけで終わってしまったわけである。行くだけであれば、誰だって行けるのだ。

 高桝ナヲキの『ジグソークーソー』(幻冬舎、2016)は地図を読み解くことで様々な物語を描いていく作品である。第1巻の前半では、主人公の杜子ダイチが抱える幼いころの思い出の中にある風景や場所、わずかな言葉をもとに地図を読み解いていく。彼ひとりではなく、塔元チエリという空想地図研究会という部活を作ろうとしているヒロイン(?)との出会いが物語の契機となっていく。彼らの活動は高校生の授業内で行われる「勉強」とされる内容からは大きく逸脱している。その意味もあってか、彼らは教室内で描かれることはほとんどないが、端的にいうと彼らの行動において分断化されたままの高校の授業内容では地図に対応できないのだ。地学であり、歴史であり、時に生物であり、政経でありと様々な科目を横断し、それぞれが適格に情報抽出し、それらを踏まえて地図を読み解いていく必要がある。

ジグソークーソー 空想地図研究会 (1) (バーズコミックス)

 この彼らの活動は、本来は大学において大学生が行うべきものである。いや、本来は人間であれば誰だって行うべきことなのだ。特に文芸学科では、作品や作家のファンという受け身の姿勢から、自らがクリエーターとして発信していく姿勢が求められる。求められるというよりは、それが当然なのである。したがって単なる座って話を聞いているだけの座学の授業は学科必修としては数が少ない。もちろん、文芸学科のみに希求されている話ではなく、文系学科・学部に入学した学生には必要な姿勢といえるかもしれない。しかし多くの大学生は、受け身の姿勢を崩すことなく学生生活を過ごし、何となく授業に出て、何となくレポートを提出し、何となく卒業していく。それを許してしまっている大学教育自体にも問題があることは重々承知しているが、その程度の経験値のみで「文系学科は必要ない」と話されるのは困ったものではある。この問題に関しては吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016)あたりを読んでいただきたい。

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 話がずれそうだ。今年もAO入試が近づいてきた。その前に本校では7月30日(土)・31日(日)と2日間にわたって、オープンキャンパスが開催される。全体的なスケジュールに関してはこちらの大学のサイトをご覧いただきたい。文芸学科も毎年のようにブースを設け、受験生の皆さんからの質問を受け付けている。ブックカフェを設ける予定なので、在校生と話をしてもよいし、静かに本を読んでもいい。川西蘭先生の創作講座も開催され、AO入試模擬体験は私が行う。意欲のある学生、という曖昧な点は評価基準にはしない。明確な目標があり、そこに向かって歩んでいける学生に来てほしい。創作や評論、編集というのはオールラウンダーな能力だけではなく、自律性も求められる。つまり『ジグソークーソー』の主人公たちのように目的に向かうためには画一的で分断化された思考を捨てる必要がある。

 さて実はオープンキャンパスに合わせて文芸ラジオのイベントも計画している。詳細は決まり次第、本ブログにて告知する予定である。ぜひ『文芸ラジオ』をお買い求めの上、お越しいただきたい。

文芸ラジオ 2号 ([テキスト])

遊佐未森「ロカ」

roka