勘違いしてはいけない。我々の時代が舞い戻ってきたのではない。最近、何度もそう言い聞かせている。テレビのCMで「ラブリー」が流れ、吉田羊が「さよならなんて云えないよ」を歌い、挙句の果てにめっちゃ楽しみにしていた『龍の歯医者』のテーマソングが「ぼくらが旅に出る理由」だったとしてもだ。そこにあるのは我々が聞いていたオザケンだろうか。だって吉田羊が何かしながらふんふん歌っているのを聞いて、「これはMJですね」とか言わないだろう。『龍の歯医者』のオープニングを見て、「ポール・サイモンですなあ」とか言わないだろう。あれはフミカスとかの握手会とか行って、ぬたぬたした手を差し出すようなオッサンが言うセリフなんだ。そういう90年代だったはずだ。
しかしオザケンは復活してしまった。この2010年代に配信で曲を売るのではなく、なんだか大きいジャケットに入れられたCDを買わないと聞けないという理不尽さ。変わっていない。パソコンにCDを入れて、曲をiTunesに登録するという行為を数年ぶりに行うことになってしまった。少しドキドキしたよ。でも時間軸が違えば本当はコンポに入れて聞いていたはずだ。あの頃の僕らはそうしていた。そして19年ぶりのシングルはちゃんと19年間の時間の流れを感じさせる歌詞でありながらも、それでもやっぱりオザケンだった。あっという間にヘビロテになってしまった。
物語はこうして受け継がれ、文化として変化していく。最近、オザケンが昔作ったメロディが耳に入るたびに換骨奪胎とはこういうことなのだと思っている。何より小沢健二や小山田圭吾、Spiral Life、カジヒデキ……あの頃、渋谷系とか呼ばれていたミュージシャンがやってきたことだ。オザケンのセカンドアルバム『LIFE』が私の中で異様に輝き続けているのは、それまでのバンドブームまでは、対抗文化のロックとして強烈なメロディと何か体制への反骨心を歌詞に込めていたのに対し、それらを見事に払しょくしてしまったからだ。コミックバンドのようだったユニコーンですら山形県を壮大にdisる「服部」を歌っている。オザケンは外側を見事なポップスに彩りながらも、中身はもはや様々な楽曲を有機的に結合させてぐちゃぐちゃに固めてきた。「どうだお前ら」と言わんばかりに出来上がっている楽曲は外面だけは偏差値の高いポップソングに仕上がり、お行儀よく座っているように見える。でも中身はとんでもなかった。
物語を作ることは非常に難しい。日常的に大学で物語をいかにして読み解くのかの話をしている自分としては当然のことであるが、この文化的な流れはぜひ感じ取ってほしい。皆さんにオザケンになれと言っているのではない。あれは無理だ。やめたほうがいい。数年に一度、文章を書いたり何か別の活動をしているオザケンのニュースがアンテナに引っかかるたびに、「この人は普段どうやってご飯を食べているのだろうか」と思ったのと同時に「そんなことには悩まない家柄だ……」と落ち込むことを繰り返していたら19年も経過してしまった。日々の糧に悩まないなら別に問題はないので、あとは皆さんには超越的な能力があればいいだけ。ボブ・ロスの言うところの「ね、簡単でしょ?」だ。そうでないなら、換骨奪胎しているほうを聞いたほうがいい。信じられないかもしれないが、オザケンがあまりにも刹那的にヒットしてしまったために、オザケンを聞いたりカラオケで歌ったりするだけでダサいという時期もあったりした。今この時期に「ダメよダメダメ」とか言っても、まだ一周していない感じがあるかと思うが、あのような感覚だ。時間経過の見極めと感覚さえうまくいけば、新しい物語を紡いでいくことはできる。そしてそこにはオザケンだけどオザケンではない物語がある。まあ、でも私は「流動体について」を聞くけど。
BGM:Cornelius「太陽は僕の敵」