高校生のときに読んだ浦沢直樹さんの『MONSTER』に「砂糖の味を忘れればいい」というセリフがある。殺しのターゲットである男性がコーヒーに角砂糖を五つ入れるのを殺し屋が見てしまい、「美味しいわけないだろう」と興味を示してしまったがゆえに、ターゲットを殺せなくなってしまったというエピソードである。個人的にはいつも飲んでいるカフェオレは無糖で、研究室で飲むのも同じく砂糖を入れないのだが、授業や会議を頑張らねばと思うときは微糖の缶コーヒーを買っている。微糖と言いながら甘いので、その甘味とカフェインで「頭がよくなる気がする」と『よつばと!』のとーちゃんのようなリアクションをしているのだ。悦に浸っているともいう。せいぜいそのぐらいなので確かに角砂糖を五つ入れるのに対して、疑問を持つのは理解できる。とはいえ缶コーヒーの微糖は角砂糖でいうと、何個分なのかすら知らないので、まあ、五個も尽力すれば飲めるのかもしれない。
そういうことを20年ぶりに乗車した夜行バスの中で考えていた。大学生のときの帰省以来ではあるが、最近のバスはどこまで進化したのかという好奇心からの乗車ではなく、地震で交通機関の利用が制限されてしまったからである。先日の地震により新幹線が不通となってしまったため、選択肢が「山形から夜行バス」、「仙台まで移動し在来線(もしくは夜行バス)」、「新潟までバスで移動し新幹線」の3つになってしまい、近郊から夜行バスに乗車するのを選んだのだ(もっと選択肢はあるだろうとは思うけれども)。どうせ眠れないだろうと思ってはいたが、そうは言うものの目をつむれば気づいたらバスタ新宿にいるのではという淡い期待もしていた。淡すぎた。
結局、スマホのradikoでTBSラジオとニッポン放送をザッピングしながら、kindleで『魔法使いの印刷所』(もちんち・深山靖宙)や『怪物事変』(藍本松)、『ざつ旅』(石坂ケンタ)を読み、疲れたらスマホでテクテクライフをしていた。その意味では20年前より遊べるものが増えているため、以前のように所在なく暗闇の中で考えごとをするのはなくなったのは確かである。しかし相変わらず夜行バスは狭いままであった。『ざつ旅』はコロナ禍の影響下の物語が描かれ、『魔法使いの印刷所』ではコミケを模したマジケが中止となっている。夜行バスのなかでマスクをしたまま読んでいると、口の周辺が覆われているからか漠然とした不安に襲われてしまう。ぐっと目を閉じていてみても眠れるわけでもないので、ふたたび読書に取り組むしかない。『怪物事変』が面白いのは、主人公の価値観がなぜか画一的で、人間的な文化圏を背景にしていない直截的な判断を下し続ける点である。ほかの登場人物は人間社会に入り込んでいるから主人公とは違うと解釈しようにも「本質的に考えると人間社会に溶け込みすぎでは?」という人物もいるので、結局、主人公の特性なのであろう。その彼が自らと他者とを少しずつ区別するようになる契機が、自らが絡んで引き起こした出来事の影響だけではなく、仲間に関わるイベントでも変化を示している。
自己と他者、集団と社会という認識は、この作品の中でジャンプ的なコードに乗せられて描かれている。主要メンバーに焦点を当てたイベントを連続させ、彼らの物語を描き、 新しいステージに立つとレベルアップのためのイベントも引き起こす。そして登場人物が増えてくると全員を同じ場所で描くと混雑するのでキャラクターの出し入れもうまく回している。非常にわかりやすく手順を踏んで物語を目の前に出してくれるため、バスの中で安心して読めるのだ。その主人公の自我の芽生えと変化により、自己と他者の区別というよりは自己と集団化へのフェイズに少しずつ展開している。自己と所属する集団(この作品でいうと仲間)への認識について、「おはようございます」というラジオパーソナリティからの挨拶が右から左に通り過ぎていくほど動かない頭で思いはせていた。その際、頭の中で浮かんでいたのが、前述の『MONSTER』のセリフである。他者の文化的背景が認識できるようになってしまうと、自己のみで完結していた認識の中に他者が入り込んでしまう。その他者性により機械的に干渉することができなくなる。その過程は『MONSTER』ほどでないにせよ、緩やかに『怪物事変』でも描かれており、物語の普遍性と夜行バス内の見知らぬ人々の文化的背景について考え込んでいた。しかしバスタ新宿で降りるのは私を含め数名で、予想以上に多くの人々が終点のディズニーランドまで乗っていくとは思いも及ばなかったのである。