「寛文美人図」の成立について ―特に「褄を取る」図像を中心に

「寛文美人図」の成立について
―特に「褄を取る」図像を中心に

阿部俊継
[美術史・文化財保存修復学科]

はじめに
 「寛文美人図」(図1)とは寛文期(1661 ~ 73)頃に流行したとみられている美人画の一形式である。その形は「着物の前褄を取るもの」、「懐手にしたもの」、「踊りを描いたもの」の三つに大別されるが、この内踊りの所作を描いたもの以外は何を表す仕草なのかはわかっていないのが現状である。本研究では図像としての側面から、具体的にどのようなものを典拠として「寛文美人図」の形が成立したのかを探ることを目的とする。

第一章 研究史
 「寛文美人図」の成立について言及した先行研究は以下の三つの説にまとめられる。
Ⅰ「邸内遊楽図」の群像表現の少数化と背景の省略により成立したとする説
Ⅱ「舞妓図屏風」が一扇ごとに切り離されて成立したとする説
Ⅲ『伊勢物語』の影響により成立したとする説
Ⅰの「寛文美人図」の典拠を「邸内遊楽図」に見出す説では作品を編年的に追っていった結果と、近世初期風俗画の対象が総体から部分の拡大へ移行する傾向にあるという点を理由にしており、両者の関係について具体的な検証は為されていない。Ⅱについては「扇を持った女」という点で主題は共通しているが、舞姿の寛文美人図の姿型には「舞妓図屏風」に描かれている踊りの姿型とは明らかに似ていないものも多く見られる。まずはこれらの説を第二、三章として具体的な作品間の比較によって検証していく。Ⅲについては奥平俊六氏の論文をもとに、第四章で検討していくこととする。

第二章 遊楽図との関係について
 近世初期風俗画のうち、遊楽が対象となった風俗図を「遊楽図」と総称し、虚構の妓楼を描いた「邸内遊楽図」はその多くが寛永期(1624 ~ 45)に描かれている。この「邸内遊楽図」に見える「寛文美人図」と図像的に通じるのは酒宴で舞う女(図2)である。これらの女と「寛文美人図」(図3)は扇を持って舞うという主題は共通している。「邸内遊楽図」の女は鑑賞者に対して身体と顔を正面に向けほぼ直立しているが、それに対し「寛文美人図」の女は下半身と顔が逆を向いており、身体が大きく捻られている。また、「寛文美人図」の女は手足の動きに富んでおり、実際に踊る女を前に描かれたことが窺えるの現実的な舞姿であるが、「邸内遊楽図」の女は動きが極端に少なく、単に舞の場を表現するための観念的な舞姿であるといえる。このような描かれた舞姿の差異から、「邸内遊楽図」の女を一人抜き出したとしても「寛文美人図」は成立できないと思われる。

第三章「舞妓図屏風」との関係について
 「舞妓図屏風」とは丈の低い小振りの六曲屏風の各扇に、一人ずつ舞姿の女を配したもので、制作年代は元和(1615 ~ 1624)から寛永(1624 ~ 1645)にかけてとされている。これら「舞妓図屏風」と舞姿の「寛文美人図」を比較してみると、「舞妓図屏風」(図4)では腰が太く表されるのに対し「寛文美人図」(図3)では腰が締め上げられている。また「寛文美人図」は、身体の関節を多用しS字に身体をくねらせているが、このような関節を用いて描かれるS字の曲線は「舞妓図屏風」の女には見られないものである。さらに折井貴恵氏は「舞妓図屏風」が同一モチーフを連続して描く「尽くし」の趣向によるものではないかという見解を示しており、「寛文美人図」とは制作目的が異なると思われる。このような姿型の差や描かれた目的の違いから「舞妓図屏風」を「寛文美人図」の成立母胎とすることはできないと考えられる。

第四章 『伊勢物語』及び『縁先美人図』との関係について
 『縁先美人図』(東京国立博物館蔵、図5)は「寛文美人図」とされることが多く、女の姿型は「寛文美人図」の「褄を取る」姿型と同一のものである。奥平俊六氏は論文内で『縁先美人図』が『伊勢物語』「河内越」を当世風に描いた「見立河内越図」(図6)と呼ばれる一連の作品から成立したものとしている。さらにこの「見立河内越図」は歌舞伎舞台「河内越」のポーズを絵画化したもので、『縁先美人図』をはじめとする「褄を取る」姿型の「寛文美人図」も舞台上でとられたポーズであるとする。また奥平氏は歌舞台以外に遊女の日常的な挙措も「寛文美人図」の姿型に影響を及ぼしたものと考えている。これについて視点を変えると、「寛文美人図」の姿型は歌舞伎舞台での役者のポーズを発祥とするのではなく、それ以前に遊女の仕草として存在し、それが歌舞伎にも「寛文美人図」成立にも同様に影響を与えたと考えることができる。ここで井原西鶴の『諸艶大鏡』の一節に遊女の姿絵が登場しすることから、『諸艶大鏡』を手掛かりに「寛文美人図」の姿型成立を考えて見たい。

第五章 太夫道中との関係について
 貞享元年(1684)刊、井原西鶴『諸艶大鏡』巻二「大尽北国落」の挿絵(図7)には「褄を取る寛文美人図」と思われる掛幅が描かれ、それが太夫道中を情景を描いたものであることが語られている。ここから「褄を取る寛文美人図」は太夫道中の様子を描いたものであると考えられる。太夫道中は寛永17 年(1640)頃から京都の遊里島原で行われ始めたと思われ、それ以前に描かれた風俗画にはこの姿型が描かれることはなく、太夫道中成立後は遊里の往来場面に頻繁に登場する。これは京都だけではなく、大阪・江戸の遊里を描いた風俗画にも指摘できることである(図8)。では何故「褄を取る」型の「寛文美人図」が最も多いのか、つまりは最も好まれたのかといえば、それはこの姿が誰もが見ることのできる遊女の姿であったからだと考えられる。庶民にとって太夫といった高位の遊女を呼ぶことは叶わず、その道中姿を眺めるに留まる「高嶺の花」的な存在であったと思われる。つまり多くの人々にとって遊女の姿といえば太夫道中の姿と同義だったということであり、そのためこの姿以外には馴染みがなく、妓楼内の様々な仕草よりも、褄を取る太夫道中の型が絵画として最も求められ描かれたのだと考えられる。

おわりに
 本論文では「寛文美人図」の「褄を取る形」の図像成立に太夫道中が影響を与えたことを示し、さらにその受容者に一般庶民を推定することができた。しかしこれは「寛文美人図」の一姿型についてのもので、他の形についてや制作環境などの解決されていない問題もある。それらは「寛文美人図」以後の絵画、浮世絵との共通点の中で解決できるのではないかと思われる。

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東北地方の切子玉の研究 ―日本列島東北部の切子玉の特質

東北地方の切子玉の研究
―日本列島東北部の切子玉の特質

福島明恵
[歴史遺産学科]

 切子玉とは古墳時代後期に全国の墳墓から出土する玉の一種である。水晶製であり、形態は多角錐台(概して六角錐台)を底面で接着した形を呈し、長軸を中心に孔を穿つ(大賀2009)。装飾品として利用されていたのだと思われる。切子玉が盛隆する古墳時代後期になると、前期には全国に散見されていた玉工房の遺構は見られなくなり、綿々と玉作りを継続するのは殆ど出雲のみとなる。畿内にも玉工房は散見されるが古墳時代後期には衰退が始まっており、生産量は出雲に大きく劣る。そのため古墳時代後期の玉作りは出雲の工房の殆ど専業のようなものだったと考えられ、よって全国の大多数の切子玉は出雲から流通してきたものと捉えて相違ない。
 古墳時代後期における玉研究は、生産地が出雲の一元である事から出雲界隈に視点を置いたものになり、生産地周縁に目を向けたものは殆ど無い。今回の研究では従来されてこなかった古墳時代後期における東北地方の独自の玉文化を切子玉から見出すことを目標に掲げた。元々東北地方から出土する玉には東北以南より埋葬時期が遅れることや、一遺構から出土する玉の量が膨大であるといった異色点があることは明らかであった。今回行う東北地方の切子玉を詳しく調査することによって更なる古墳時代後期における東北地方玉文化の特色が見いだせる可能性がある。それが今回証明できれば全国の文化が統一されつつある時代の統一されているように見える文化の中にも地域性が介在していることの証左になる。
 本研究が行う調査方法は大きく2つである。第一は、東北地方各地から出土する切子玉の法量の計測を行う。切子玉の法量には幅がある事が大賀克彦氏の研究(2009)によって明らかになっている。ここから東北の傾向を捉えようと考えたものである。第二は、東北地方各地から出土する切子玉の使用痕の観察を行う。本研究の使用痕観察で求めるものは簡便に述べると使用痕の進行程度であり、要は資料が製作後に受けた損傷の累積程度または強弱である。(以下からは使用痕を便宜的に損傷と称する場合もあるが、本稿で両者に差別は無く全く同一の意味で扱う。損傷が強くなる・累積するほど使用痕が進行しているという意である。)なお、玉の使用痕に関する研究は先行例がなく、本研究では玉の使用痕研究が今後の玉研究の発展に有意義であることを確かめることも目的の一つである。
 また、切子玉を独自に取り扱った研究は殆ど皆無であり、先行研究で挙げることが出来るのは大賀氏(2009)のもののみに留まる。切子玉の研究資料は不足しており、東北地方の資料を調査し独自の文化を探ろうとて比較対象がない。よって、東北地方の資料との比較資料として、生産地である山陰地方(島根県・鳥取県)と東北地方と山陰地方に挟まれた関東地方(群馬県)の資料も収集することにした。
 法量を地域ごとに比較すると、各地域ごとに傾向が異なることがわかった。各地域の傾向を簡潔に述べると山陰地方の資料の最も普遍的な全長は約1.0 ~ 2.0㎝、関東地方の資料は全長が約1.5 ~ 2.5㎝、東北地方の資料は全長は約2.0 ~ 3.0㎝である。断定することは本研究の資料数では不足で憚れるが、結果を巨視的に見て生産地から北上するほど大型指向が強まる傾向が認められるようである。年代ごとに検討しても、結果は変わらず全年代を通して法量の差異は認められる。以上から出雲では切子玉は同時期に大小様々な切子玉を製作しており、その中でも小型品は主に生産地界隈で消費され、大型品は生産地周縁にされていたと推測できる。つまり、切子玉の法量は地域で趣向が異なっていたと考えられる。
 特に東北地方と山陰地方の差は歴然であり、山陰地方で最も普遍的に使用される小型品は東北の需要は殆ど無く、逆に東北地方で最も普遍的な大型品は山陰地方での需要は殆ど無い。また、他地域では僅少である全長3.0㎝以上の特大品も東北地方では少なくなく、このような特大品は主に東北地方に流れていた可能性も考えられる。この点を含め上記した東北地方と他地域の法量の比較においても、東北地方には他地域とは一線を画した強烈な大型指向があったことは明らかである。
 使用痕の進行を地域ごとに比較すると傾向に偏りが見られた。総体的に見て山陰地方と関東地方の資料はほぼ同程度の損傷具合である。一方東北地方の資料は山陰地方・関東地方より強い損傷を受けていることがわかった。更に東北地方内での結果を俯瞰するとおおよそ漸北に損傷は強くなる傾向がある。しかし精査すれば同市内に所在する2 遺跡から出土する資料の損傷の程度が両者では大きく異なる、最北の青森県の遺跡よりも秋田県の資料の方が総体的に損傷が強い等の齟齬が見られた。
 次に年代を絡めて検討した。年代ごとに統計したところ、今回収集した中で最も年代が降る6 世紀後半の資料から最も年代が新しい8 世紀の資料まで年代が新しくなるほど次第に損傷が強くなることが分かった。また、比定される年代が一致するなら3 地域共々の損傷の程度はほぼ同等である。以上から切子玉の使用痕の進行は年代と強く相関していることが明らかとなった。
 東北地方が山陰地方・関東地方よりも強い損傷を受けている要因は切子玉が副葬される墳墓の造営盛衰年代の相違にあることが推測できる。東北地方の墳墓の造営年代は東北以南よりも遅れ、東北以南で墳墓造営が衰退・終焉する時分に東北地方では墳墓造営が盛行する。よって切子玉の副葬さる年代も東北地方は山陰地方・関東地方よりも新しいため、東北地方の資料が総体的に強い損傷を受けていたのである。東北内で漸北し損傷を強く受けていた要因も墳墓造営年代にあると考えられ、東北北部は東北南部よりも古墳の造営年代が新しい。
 また、東北地方の切子玉の埋葬が始まる7 世紀後半以降は東北以南で玉文化は衰退し、出雲の玉作りも終焉、切子玉の製作は既に終了している。よって東北地方から出土する資料は7 世紀後半以前に製作された玉を伝世させ有していたと考えられている。ここから東北地方の資料の損傷が激しい要因は長期間の用によるためと推測できる。東北地方では古くに製作された玉を伝世させながら長い間使用を継続したのである。加えて、東北地方の資料には破損しているものも多数ある。その破損面を観察すると明らかな使用痕を受けていることが分かった。破損が大きいものでは残存率が約1/2 程度しかない資料もある。つまり、東北では玉に紐が通せる状態ならば破損しても破棄せず使用したことも判った。
 東北地方では玉文化(切子玉)の伝播に遅れがある。東北以南では玉文化が衰退し、出雲の玉製作も既に終了した7 世紀後半に東北地方では切子玉の使用例が増加し、以降綿々と8 世紀まで玉文化が継続された。東北地方では7 世紀後半以前の古くに製作された玉を伝世させながら長期間使用し続けたために損傷が著しく激しい。また、破損した玉も構わず使用していたところを見ると生産が終了して切子玉の総数が限られている故の強い執着を感じるようである。加えて、東北地方には切子玉に対して強い大型指向であることが認められる。また、東北地方の異色点として一遺構から出土する玉の量が膨大でることも挙げられ、大型指向である事と加味して考慮すると東北地方は玉を誇示するよう華美に装飾する趣向があったのだと考えられる。以上が本研究で迫ることが出来た東北地方における玉文化の独自性である。
 切子玉は生産地が一元で、全国で出土が見られる玉であるが、東北の人々は己の趣向に合わせて選択・受容していた蓋然性が高いことを証明できたのではないだろうか。
【参考文献】 大賀克彦 2009 「山陰系玉類の基礎研究」『出雲玉作の特質に関する研究』

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空気の底

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多田さやか
[日本画コース]

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よみはざま

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丑三つ時

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Oath ―変形する照明―

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水口敦詞
[プロダクトデザイン学科]

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はみだす暮らし のぞく住人

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梶原千種
[建築・環境デザイン学科]

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シャケの切り身

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栗田有佳
[グラフィックデザイン学科]

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青し時雨

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飯塚花笑
[映像学科]

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鎌倉時代やまと絵の「実景性」

鎌倉時代やまと絵の「実景性」

佐藤容 Yo Sato
[美術史・文化財保存修復学科]

 鎌倉時代美術はこれまで「リアリズム」「写実的」といった言葉でくくられてきた。かつては鎌倉時代やまと絵にも実際の風景「実景」を絵に描く意識の存在が指摘されていた。現地を見た上で絵を描こうとする等、当代絵画にはその背景に実景が関わる例が散見され、それが風景を実際に見て描くという行為の証拠として捉えられていたのである。近年この議論は、「やまと絵に実景は描かれない」という方向に収束しつつある。しかし制作背景に実景が関わりながら、それが絵には全く反映しなかったのか。『新名所絵歌合』(13世紀末)絵巻もまたその成立に実景の絡む作例だが、その特徴は絵に歌の世界が具体化されるという、絵と歌が密接に結びついた風景表現である。この作品を出発点として、本研究では鎌倉時代やまと絵と和歌文化との関連から、その絵画表現に

第1章 『新名所絵歌合』と和歌
 13世紀末『新名所絵歌合』は、伊勢神宮で行われた歌合の歌意を描いた歌合絵である。実際に目にしている地元から選出した伊勢の「新名所」を歌に詠み、絵には大方一致してその風景が描かれているという、絵と歌が密接に関わった作品である。新名所を地元から選び絵(歌)にしたという部分から、これまで本当にその土地を描いた絵であるのかという視点で、実景か否かが議論されてきた。全く実景ではないとは言い切れないが、歌合では伝統的な風景イメージが盛り込まれた当時の常套的な歌を詠んでおり、歌と一致した絵はそのイメージを描いたものと言える。

第2章 和歌と「実景」−和歌に詠まれた風景
 和歌の風景表現は、国文学分野でも非常に興味を持って研究が重ねられているテーマである。12世紀末から始まる中世和歌は風景を印象的に描写した叙景歌が多いとされる。その原因と言われているのが、平安時代9 世紀後半〜10世紀に流行した屏風絵・屏風歌である。目前の絵を歌に詠むという方法は「眺める」という意識を生み、人々は風景を描写するために必要な客観的な見方をするようになったという。13世紀末から14世紀初頭にかけて、力を持っていたのは二条派と京極派であった。特に後者はリアルな風景を詠む事で有名だが、写実的=実際の風景の描写(実景)に直結する訳ではない。この時代に詠まれた歌は、「本歌取り」という方法を用いて伝統的な風景の型=共有されたイメージを詠むことが中心であった。しかし当時の歌人の中では、よい歌を詠むために実際の風景をよく観察することが説かれた。中世和歌では単に決められた型をそのまま詠むのではなく、時には自身の体験・感覚を織り込みながら詠むことで、その伝統的イメージがより具体的に表現されていた。

第3章 自然風景の中で歌を詠む人 
−『西行物語絵巻』と『一遍上人絵伝』−
 鎌倉時代やまと絵には豊かな自然風景が写実的に描かれる。一般的に自然描写の発展は中国絵画の影響のもとで語られることが多いが、絵を見たときそこには当時歌に詠まれた風景に共通する感覚を見出すことが出来る。例えば『一遍上人絵伝』(1299)に多くみられる秋田の絵と、この歌を比較する。
 「いろいろにかど田のいなほふきみだる 風におどろくむらすずめかな」
 
 絵・歌共に、風が鳴子を鳴らし稲穂の中から鳥(雀)が飛び立つ場面が浮かぶ。また空間的な広さも本絵巻の大きな特徴であるが、その空間構成もまた歌と共通する部分がある。陸奥の里(写真5,6)は、手前の近景と奥の遠景という別々の「舞台」によって、空間的広さ・錆びれた雰囲気が表現されている。こうした画面構成は鎌倉絵画には多い。遠くの里・近くの田という景色を組み合わせて一つの空間を作る方法は、和歌にも見られる。
 「梅が香は枕にみちてうぐひすの 声よりあくる窓のしののめ」
 歌は①近景に梅香と枕②中景に梅と鶯③空の月を歌う。この三景は嗅覚・視覚・聴覚により別々に捉えられ、「窓」がこれらを一つの風景としてまとめているという。歌に詠む景色を別々に把握し一つの広い空間として再構成するという和歌の構築方法は絵にも通じるのではないか。鎌倉絵画の視線を引いた広い空間・多様なモチーフによる精緻な表現は和歌の風景イメージにも共通し、そこにはやはり身近な自然を観察するという実体験が反映していると思われる。

第4章 鎌倉時代やまと絵の「実景性」絵・歌のイメージから
 歌に詠まれる風景の中でも伝統イメージが特に強く反映する名所歌。それを描いた名所絵も当然そのイメージに縛られる。伝統的な名所「白河関」の風景イメージの形成過程からは、共有されたイメージに「実景」という要素がどの様に関わっていたのかが伺える。
 「都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」
 これは、「辺境の地」というもとから白河関に付されたイメージに基づきつつ、実際に現地で詠まれたものである。その後、「白河関」歌には秋の景物である紅葉や月が登場することが多くなり、後世の「白河関」歌に大きな影響を与えた。この土地は『一遍上人絵伝』にも描かれている。紅葉した木々が印象的な秋の風景であり、ここにも能因による「白河関」のイメージが反映していると思われる。いかにリアルな風景であっても作られたイメージに過ぎない絵や歌にとって、この白河関のイメージ形成過程は、「実景性」を考える上で大きなヒントとなると思われる。恐らく、実見による記憶(実体験)は、従来の風景イメージを無視するのではなく、そのイメージをより強化するものとして関わっていたのだろう。

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