更新が遅れました…
静岡県は高畠と同じように凝灰岩(伊豆石)の産地として知られている。
そこで昨年度の大谷(栃木県)、金谷(千葉県)に引き続き
まちあるき番外編として8月の17日から19日にかけて静岡県へ行った。
伊豆の石切りは「半農半漁」ならぬ「半石半漁」
石切りを専業としている元締め以外
石屋と漁師は兼業であることがほとんどであったそうだ。
しかし石を切るよりも漁に出た方が稼ぎはいいので漁が始まると…
元締めも人員の確保には苦労していたことだろう。
また、石切り丁場跡も数か所見学した。
中でも印象に残ったのは最終日の洞窟探検である。
外は30℃を越えているというのに洞窟内は少し肌寒い。
壁にはツルの跡など石を掘った痕跡が残っているわけだが、
その痕跡が今まで見たどこの丁場よりも生々しく、今の今まで掘っていたような跡だった。
石切りが終わってから長い時がたってもこんなきれいに残るものなのか、と感動した。
伊豆の石切りは戦前にはもう衰退がはじまっており、東京オリンピックの頃にはほとんどやっている人はいなくなっていたそうだ…
そのため石切り当時のことを知るのはとても難しい。
石切りをしていた本人たちからお話を聞ける高畠の価値を再確認させられた。
夜は海辺で花火大会。
カメラのシャッタースピードを遅くするとこんなことも
調子に乗ってみる
7月27日、高畠まちあるきが行われた。前日の気温は38度で、どうなることかと考えていたが、当日は過ごしやすい天候でまちあるき日和であった。
私たちの班は、初めに高畠町の熊野神社に行き鳥居の説明を受け、熊野神社付近のお家の方にお話を伺った。
高畠町の鳥居は、不必要に壊して新しい鳥居を作ったりはせず、その都度に直し、長く大切に使われているという特徴がある。聞き書き調査では、熊野神社のキツネとタヌキの伝説をお聞きし、更に深く高畠石と住民の方の暮らしとの関係性について知る必要性がある事を再確認した。
また、熊野神社周辺の住民の方から神社の祭事などについてお話を伺った。皆さん温かい方ばかりで、丁寧に分かりやすく教えていただき、スムーズに調査を終える事ができた。熊野神社では、春と秋に、参道に旗を立て農産物豊穣を願う祭りがおこなわれるという事をお聞きし、熊野神社の祭事は、2つの地域が、地域の枠を超えて守られているという事を実感した。
お知らせ
8月23日(土)13:00~16:00高畠町瓜割石庭公園にて、『たかはた石工サミットⅡ』が開催されます。石切り技術・石降ろしの実演があり普段見られない貴重な技術を見る事ができます。高校生のみなさんによる吹奏楽の演奏や地元フォークソングクラブのみなさんの素敵な演奏もあります。
ご家族やご友人をお誘いあわせのうえ、ぜひ足をお運びください。
たかはた石切山祭り 13:00~18:30
第1部 石工サミット(主催:東北芸術工科大学)
石切山コンサート 公演:高畠高校吹奏楽部ほか
第2部 芋煮会(主催:安久津ニ井宿観光振興会)
駐車場あり、小雨決行。
各地から伝統技術をもった石工さんが集まります!
石切山に響く高校生の演奏と地元フォークソングクラブの皆さんの歌声もお楽しみください。
今年も発掘の時期になってきた。士気も高まり、準備も着々と進んでいるところだ。2年生の応用演習も発掘の実際に則した内容になってきている。今回は、その応用演習の一環として、岩手県立大学の菊池強一先生にお越しいただき、クリノメーターを用いた測量や考古学と地形学との関わり等についてご教授頂いた。2年生の講義であるが、発掘に参加する上級生も参加し、お互いに教えあいながらの講義となった。菊池先生には昨年もお越しいただいていており、その時の記事はこちらより閲覧できる。
考古学と地形学というとあまり結びつきがないと思われるかもしれないが、遺跡としてトータルで捉えるときに地形学や堆積学的な情報は極めて重要である。菊池先生は、「石器も堆積物のひとつ」と仰っており、私達は普段、石器や土器を単体で特別な視点から見てしまうが、堆積物の一部と捉えることでまた違った側面が浮かび上がってくる。
発掘という行為は、一度行ってしまえば元に戻すことは出来ない。そのために、図や写真などできちんと記録として残すことが重要となる。特に、考古学に於いては位置情報が重要な意味を持つ。位置情報の記録については、遣り方測量や光波、トータルステーションによって3次元的な遺物の位置情報の獲得が行われてきた。
今回学んだ産状計測は、さらにそこに傾きという位置情報を加える手段である。クリノメーターを用いた測量は、地学の分野ではよく行われており、走向と傾斜を測るものである。この情報が加わることで、当時の地表面であったり、遺跡の立地環境についてさらに検討を深めることができる。
先生は、ただ単に機材の使い方を教えて下さるだけでなく、その機械の原理であったり、なぜその計測が必要なのかを丁寧に説明して下さった。最初は正直どうしていいのかよく分からない講義だったが、時間が経つにつれ、点と線がつながる、理解が深まる講義だった。今回は、台風の影響で室内での演習だったので、今度晴れた日に先輩や後輩と外に出かけて、理解をさらに深めたいと思う。
昨日の解体の終盤に左柱を引き上げると、台石の底にぽっかり穴が開いていた。はて?
今日は朝から沈下した左の台石を引き上げ、基礎を固め、柱を再設置して組立が始まった。江戸期の根固めには川砂利(円礫)が使われていた。
行き交う村の人々が興味深そうにのぞいていく。そして、神社や祭り、鳥居にまつわる話をかわるがわる聞かせてくれる。
あまりにも当たり前の風景だが、こうやって修理する現場をみることでそれぞれの思い出がよみがえる。
今日、右の柱を引き上げると台石の柱穴の底にも小さな穴が開いていた。単純に考えると水抜きなのだが、どうなんだろう?
夕方になってなんとか笠木・島木がのった。
ミニユンボ、カニクレーン、ユニック、チェーンブロック、レーザー付き水平器、・・・土木、建築、測量、石工・・・ひとりの職人が仕事の領域を無視したように手際よく作業をこなしていく。単能化していく現代の技術者をあざ笑うかのようにわずか2日間で解体修理をやってのける。
それだけではない。変形した構造物は組み直すと「くるい」が出やすい。これを石造物の場合、安直に削り直すなどの再加工すれば比較的簡単におさめることができる。
しかし、文化遺産に理解のある「伝統職人」はそんなことはしない。先人の作ったものを、当時の職人の思いとともに残し、伝えるというスピリッツが根付いているように思えた。
学生たちは何を感じただろうか・・・・もくもくと作業する職人が伝えたかったメッセージはなんだったんだろうか。
朝一に出かけ、高畠町にある石鳥居の解体修理作業の様子を記録した。石の会会長が一人で全作業を行う。見事というほかない。
経年変化と震災で変形した石鳥居を8月のお祭の前に直してくれと依頼があった。地元の方も見守るなか、手際良く一つ一つの部材がはずされていく。寛政6年製の石鳥居で210年前のものだ。70歳すぎのおじいさんは、子供の頃鳥居の笠木の上に登って遊んだ話を聞かせてくれた。
以前、会長の父親から機械以前の鳥居の建て方を教えてもらった。現代はカニクレーンやチェーンブロックなど便利なものがある。道具等は変わったが基本的な工程はほとんど変わらない。職人さんの細かな石扱いや細部の見極め・判断は伝統技術そのものだった。
さらに驚いたのは、会長曰く「俺、鳥居解体するのは初めてだ」と。
左の柱が沈下。右が内側に転ぶと同時に、奥に大きく傾いている。
解体前の鳥居
高畠町高安(こうやす)は6年間通った町だ。2002年~2007年まで夏になると毎年1カ月をここで過ごした。高安窯跡の発掘調査。ここで何人もの学生が育っていった。
今度は鳥居の調査でやってきた。鳥居を探していると「あら先生!」Sさんに声をかけられる。赤鬼で学生たちの昼食を作ってくれていたおかあさんだ。懐かしい人たちに会ってしばし昔話。
秋葉神社の鳥居を測っていると、今度はKさんが声をかけてくれた。
Kさん家は窯跡の下にあるお宅で、毎日ここをを歩いて現場に通った。そこには、ロッキーという名の大きなサモエド犬がいて、みんなを和ませてくれた。ちょうど2007年の夏、最後の発掘が終わると同時に13年の命を終えた。
二つの鳥居を測り終えて帰ろうとするとKさんが冷たいお茶とさくらんぼを用意して待っていてくれた。3人の学生たちとお宅に上がらせてもらって昔話に花を咲かせた。
ロッキーの散歩係だったひいじいさんは83歳になった。ちょっと耳は遠くなったが元気だ。週二日デイサービスに通っている。奥さんが毎年やっていた現地説明会の資料を全部持っていてみせてくれた。最後の年はロッキーが表紙を飾っていた。
M先生のこと、犬の宮猫の宮の卒論で通ったS子のこと、いつも通ってくるサルやカモシカ、たぬきのこと。もう犬は飼わないんですかというと、後ろから元気な孫がふたり走ってきた。こっちのほうが忙しいんだと。
故郷に帰ってきたような心地よい時間を過ごさせてもらった。
今日のまちあるき、予想に反して天気に恵まれた。本当に不思議である。なんでこうも晴れるのか?
今回は鳥居の補足調査2班と建造物調査2班に分かれた。建造物では高畠石製の消防ポンプ小屋、石御堂、石番小屋の3か所を実測した。
遠路、宇都宮市役所から職員の方が来られ調査に同行した。大谷石の調査研究をされている方である。
次回は7月27日(日)暑くなりそうな予感。
県立博物館のプライム企画、小学生対象の縄文土器作り講座が開催された。
県博と歴史遺産学科の連携講座で、2週にわたって土器作りと野焼き、石器作りを行う。
山形市内から集まった小学校1年生~6年生まで多彩な顔触れ、保護者も含め25名が土器作りに挑戦した。小学校の子どもたちの集中力は2時間が限界と思い込んでいたが、予想に反して午前中、一切休憩もせずに真剣に作業に取り組んでいた。
予定外だったが、保護者にも全員作っていただいた。それが功を奏したのか。父母の真剣な姿が子供にも伝わったのかもしれない。
先日の中学生もそうだったが、吸熱効果を利用した土器による水貯蔵の話は、小学生もすぐにわかってくれた。「打ち水」の効果を家庭科で習ったそうな。煮炊きに使った土器は水もれしない・・・実験すると疑い深い子供はススの着いた土器の方をわざわざ近くまで寄ってみていた。小学生はのりがいい。こんな子供たちばっかりだと授業楽しいだろうなと・・・・
最後、時間が余って人形なども作ってもらった。子供の発想、造形力には驚かされる。
日本最古の石鳥居
元木の石鳥居の保存が急務になっている。成沢八幡のほうも同じ状況にある。
1,000年を越え、老年期に差し掛かったこの凝灰岩鳥居をどう延命するのか?
鳥居は建造物指定だ。建造物は解体修理しながら保存していくのが古来からの考え方である。解体して部材を強化し、組み立てればそれでよい、ということになるがはたして、それがベストなのだろうか。どんな価値を継承するのか?意見は分かれる。そして議論は続く。
文化財には無形、有形、小さなものから大きなものまでさまざまある。
お城の石垣は大きい方だろう。
有形文化財や史跡にとって一部を解体して修理する外科手術は最後の手段だ。そして、延命のためには、いつかはその時を迎えなければならない。人間に例えられるゆえんである。人と違うのは「尊厳死」はないことになっている。
石垣の場合は大学の文化財保存修復研究センターのなかでやっているような修理と違って、野外で行い使う道具も大きく大雑把な印象がある。しかし、やってることは変わらない。文化財が持つ本来的な価値を失うことがないようオリジナルの材料や技術を吟味し、修理技術を継承することも含め関係者が力を合わせる。修理の理念から材料や工法の検討、細かい議論のプロセスを残しながら作業が進められる。だから時間がかかる。
2011年3月11日からもう3年余りが過ぎた。小峰城本丸南面石垣、その姿がよみがえりつつある。
鷹の目(西)の復旧