【公開講座】縄文の美 —実用性を遥かに超える芸術的表現—
【公開講座】
縄文の美 —実用性を遥かに超える芸術的表現—
日時/ 平成27年1月28日(水)18:00-19:30 (開場17:30)
場所/東北芸術工科大学本館2階207講義室
入場/無料、申し込み不要
主催/東北芸術工科大学東北文化研究センター
問い合わせ/東北芸術工科大学東北文化研究センター(TEL023-627-2168)
【開催にあたり】
“縄文の美”の発見者、その栄誉に輝く画家の岡本太郎が、一九五二年二月発行の『みづゑ』、および一九五六年九月発行の『日本の伝統』において、縄文土器の最も大きな特徴として挙げたのは、「はげしく、するどく、縦横に奔放に躍動し、くりひろげられる」中期土器の隆線紋のモチーフであった。それ以降、中期土器に対する美術的評価が定着することとなった。辻惟雄も『日本美術の歴史』(東京大学出版)の中で、「縄文人の『かざり』への熱中は頂点に達する。粘土を貼り付けて凹凸に富んだ大形の鉢が、土器とも彫刻ともつかぬ力強い空間表現をつくり出す。実用性をはるかに超える芸術的表現のさまざまが生み出された」と記述している。
美術史家が「実用性をはるかに超える芸術的表現」と見なす土器や土偶の中に、時期と地域を限って作られた、ひときわ目に着く造形・装飾をもつ考古遺物がある。日常用具に求められる機能性・効率性・利便性などをあえて否定していて、私は“過剰デザイン”と呼んでいる。過剰デザインは地域集団の自己アピール(アイデンティティ表現)で、社会的メッセージが込められていた。
縄文時代中期中葉(約五〇〇〇年前前後)の関東甲信越地方は、大型の環状集落が形成され、人口増加のピークを迎えていた。隣接する地域集団は競合しつつ彼らの土器(阿玉台式、勝坂式、藤内・井戸尻式、焼町土器、火焔型など)を過剰に装飾して、自らの存在を誇示していた。
気候が冷涼化するに伴い、彼らの繁栄は終焉を迎えた。人口は急減し、華やぎは消えてしまった。同じころ、後・晩期(約四五〇〇~二五〇〇年前)の東北地方北部・北海道南西部の地域集団は、冷涼気侯に対応した新しい生活世界を構築し、中期とは異なる造形・装飾の装置や「第2の道具」でその存在を表出した。
今回は前・中期と後・晩期に大別して、両時期を代表的する土器・土偶などの逸品を取り上げ、それらが製作された社会的な背景について話してみたい。
東北芸術工科大学東北文化研究センター教授
安斎正人