2011.11.14
南相馬に陶器を届ける(キッズアートキャンプ山形のその後)
少し前になりますが、10月24日に福島県南相馬市へ『キッズアートキャンプ山形』で制作した陶器を届けてきました。キャンプ2日目に、東北芸術工科大学の陶芸工房で、参加された南相馬のご家族がつくった粘土の作品。それからしばらく乾燥させて、素焼き→釉薬→本焼きと、じっくり大切に学生たちが仕上げてくれました。
受け渡し場所は、『南相馬こどものつばさ』事務局の西道典さんにお願いし、西さんが宮司を務める男山八幡神社の社務所です。この日はちょうど、関西の支援団体がテントを張っていて、冬物衣類の配布やサムゲタンの炊き出し、出張寄席なんかがおこなわれていました。
畳敷きの社務所で、一つひとつ封を開けていくと、壷や大皿など、親御さんによる力作から、「禁煙」の文字の入ったプレゼント用灰皿(笑)、亀やウサギなど、小さな手を感じさせる土人形など、テーブルに置ききれないほどの作品がたくさん!
しかも、親指ほどの小さな小さな作品にもちゃんと釉薬(色)がついていて、運搬中に割れないように丁寧に梱包されていました、陶芸コースの学生さん、とても細かく、たいへんな作業だったと思います。ほんとにありがとう!(涙)今頃、それぞれのご家庭に渡っていると思います。大事に使ってほしいです。
さて、この日は佐藤先生にお願いして、キャンプ最終日にみんなで描き、鹿島小・鹿島中に持ち帰ってもらった『みなみそうまの旗』と再会してきました。最初に向かったのは、南相馬市立鹿島小学校。佐藤先生の自宅は立ち入り禁止区域の小高区にあり、まだ1度しか帰宅できていないそうです。奥様も小学校教諭。我が子と教え子とともに相馬に残ることを選びました。「空気中の放射線量は、今は福島市や郡山市のほうが高いですね。ウチの場合は、親子がバラバラになるストレスよりも、屋外に出れないストレスのほうを選びました。食事による内部被曝が心配なので、そこは気をつけていますが…」
学校から3km先にある海岸線を指す佐藤先生。3月11日、津波は学校の敷地のヘリまで到達したそうです。海岸線に沿って立ち並んでいた家屋はすべて流され、防砂林もまばらです。この日は雑草が伸び放題だった田圃の草刈りがおこなわれていました。草刈りができないので夏は虫がすごかったとか。
学校のグラウンドは、中央にプール大の巨大な穴を掘り、剥ぎ取った汚染表土を埋め、その上を県外から運び込んだ土で覆ってあるそうです。政府は2時間に限って屋外での体育活動を認めていますが、実際にはまだおこなわれていません。トラック周辺の遊具の除染はまだ終わっていないので、使用禁止。隅には2階建ての仮設校舎が建設中でした。
「身体を動かす機会が少ないもんだから、子どもたちは太ってきましたね。可哀想です」と佐藤先生。校舎の除染はこの夏で終了し、空気中の放射線量はほぼ正常値になりました。それでも校長先生は毎日、学校の敷地内の放射線量を記録し、校長室前のホワイトボードに掲示されていました。心を鎮めて、現実を直視して子どもたちのために頑張っている、という印象。現場の先生方には本当に頭がさがる思いです。
『キッズアートキャンプ山形』の旗は、校舎2階に掲示されていました。鹿島中学校に渡ったもう一枚は体育館に飾っていただいてます。
鹿島中はちょうどクラブ活動の時間で、体育館ではバトミントン部の男子がふざけあい、廊下ではやんちゃな生徒たちが座り込み、美術室では木製パズルをつくっているのかな?電動ジグソーの音が響いていました。日本中、どこにでもある放課後の日常。でも校舎の外にでると、通学バスを待つ、遠い学区の中学生たちが集まっていました。
この日、山形から車で南相馬に入って、国道沿いに津波に流された舟が累々と残されている車窓の光景に違和感を感じました。「あれ? 以前は舟なんか見なかったのにな…」と。実は同乗者との話に集中していて、いつの間にか緊急避難準備区域から一部解除されたばかりの原町区まで進んでいたのです。少し前まで、閉鎖された道路です。避難先から原町に帰ってくる家族が増えて、鹿島小では2学期からクラスも増えたそうです。南相馬には、南相馬なりの「普通の」学校生活が営まれています。
自分の意志で避難する家族、故郷に帰る家族… 答えは様々ですが、どの道も不安なことは間違いありません。もちろん、山形も放射能の不安から無縁ではありえません。福島に留まるご家族とともに『キッズアートキャンプ(南相馬こどものつばさ)』を、山形に移住されたご家族と『福しまピクニック』を、というように、それぞれの人生の選択・立場により沿いながら、支援活動を続けていきたいと考えています。
宮本武典(TRSOプログラムディレクター/美術館大学センター主任学芸員)