東京で過ごしている。2月半ばまでは集中講義、卒展、採点、卒制講評会とこなして、毎日があっという間であったが、それ以降はいつものように生活を東京に移して活動している。もろもろの打ち合わせが入ったり、文芸ラジオの編集に関連するものが入ったりと別に暇になったわけではないのだが、それでも東京で過ごしている日々は暖かく、心地よい。山形にいると息を吐いたり吸ったりするだけで風邪をひいてしまうのだが、東京にいるとそのようなことはなく穏やかな暮らしができる。雑踏を歩き、毎日のように本屋をのぞき、考え事をする。情報の飛び交う中で沈思黙考をする楽しさがそこにはある。別に植草甚一になりたいわけではないが、風邪をひいている頭ではそれができない。
3月に入るとあわただしくなっていく。東京では既に春一番どころか春三番ぐらいまで吹き荒れ、三寒四温で変化する。身につけるコートも少し薄くなり、手袋もマフラーもとうの昔につけなくなった。頭の中では4月からはじまる授業のことを考え始め、原稿のための読書と趣味の読書だけではなく、毎日のなかに授業準備のための読書が加わる。同時並行で読む本が増えていくのだ。あれこれ考える作業が途切れることなく続いていくことは非常に楽しい。
2月の頭は採点作業に終始していたが、そこで1年生のレポートに一つの傾向が出ていることが教員間で話題となった。半分以上のレポートが上から目線で語っているのだ。一人二人であれば、個々人の能力不足で片づけることは可能だが、こうも続くと何かあったのだろうかと勘繰りたくなる。いくつかの要因を挙げるとすると「1:単純に論評するだけの能力が不足している」が真っ先にあがるだろうか。ここにおける能力はいくつかの意味があるだろうが、論評対象を客観的に把握すること、そして自分自身をも客観的に把握することができていないから捻じれた現象が起こっている。一番面白かったのは論評対象と別のものを比較し、これとこれは違いますという結論を書いているのを読んだときである。犬と猫がいるが、いろいろ比較した結果、犬と猫は別のものである。と述べているようなものである。ダメすぎて面白かったのだが、この手のレポートが多数存在したのには閉口した。次に想定されるのは「2:神様になっている」。要は「お客様は神様です理論」である。読者である自分が面白くないのだがら面白くない。読みにくいのだから読みにくい。しか書かないパターンである。そんな神様は必要ない。あと思いつく理由としては「3:自分に自信がない」であろうか。自信のなさの裏返しである。これは当てはまるのかどうかわからない。
などと書いているが、4月からこの1年生は2年生になり、新しい1年生は入学する。3月はその前段階の蠢きを感じ取る期間。そして卒業、新しい道へと歩み出すときである。まあ、そんなフレッシュな気持ちなど自分は一切、持たなかった人間であるし、そもそも卒業式に参加しなかった。どこに行こうが、何をしようが、大きく変化しているようでは先が思いやられる。静かに穏やかにこの3月を過ごそう。さて一連の画像は卒展と期間中に行われた卒制講評会(ゲストは阿部晴政(河出書房新社/元『文藝』編集長)さんと栗原康(アナキスト)さん)、そして池田雄一先生の送別会である。一つ一つ紹介すべきかもしれないが、まとめて貼り付けておく。2017年2月の出来事である。
BGM:パスピエ「永すぎた春」