ようやく音楽を聞くことができるようになってきた。4月以降、いろいろと辛い出来事があり(詳細はこちら。あとこちらもどうぞ)、さらには授業やら何やらと取り組むべきことが続いてしまい、大変であったのは確かである。それでも自分の中ではしっかりとできていると思っていたのに、先日、学生と喋っているとき、自分が4月初旬に行った授業のことをすっかり記憶から抹消してしまっていることに気付いてしまった。そんなにかー。そんなに繊細かー。誰だよー、俺かよーという感じではあるが、指摘されないと思い出せないというのは、もう疲れていたのだと思う。モルダーでなくとも疲れるのだ。
耳から何かを聞くことは続けていたので、携帯プレイヤーで録音したラジオを聞くことは続けていた。時には録音ではなく、ライブで聞いていたりもする。今年度はアニメと時代劇以外でテレビをつけることがどんどんなくなっていき、このままテレビメディアと決別するかとも思っていたぐらいであるが、散漫な思考のままラジオを聞いているので流れ作業のようになってしまったことは否めない。こんな惨状が続くのかとぼんやり思っていたが、全く聞いていなかったJポップを再生できるようになったときに、「ああ、通常に戻った」と思ったものである。カチリとはまって、聞くことができるという感覚はなかなか得られるものではない。何せ、エレカシの新譜が出たので、聞かざるを得ない。エレカシを歩きながら聞くという行為は、簡単に見えて、こうも難しかったのか。新譜、いいですよね。
先日、ゼミでJポップに関して言及した論文(増田聡「誰が誰に語るのか―Jポップの言語行為論・試論」『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』青土社、2006年)を読み、実際に音楽を流して考えてみるということをやってみたのだが、やはり音楽を考えることは難しい。通常では歌詞に特化して考えてしまうが、それは音楽を考える上で一面的でしかない。歌手本人の歌唱、歌手という個人、演奏、アレンジャー、プロデューサー、音楽会社、メディア、作詞家、作曲家……と挙げていくときりがないかもしれないが、音楽を考える上で主体をどこに求めるのか。歌詞だけで語ることのできない面が、あまりにも多様に存在している。ということを確認しただけでゼミは終わったような気がするが、それはそれで重要であったとも思う。たとえば今、これを書きながら聞いているのはアニメ『ローリング☆ガールズ』で主役を演じた声優4名がブルーハーツをカヴァーしたアルバム『ロリガ・ロック・ベスト!』なのだが、これも作詞・作曲と歌唱との連続性はない。何よりアニメの主役4名が描かれるジャケットを見る限り、そこで想起させようとしているのは、彼女らがバンドを組み、演奏し、歌うという物語である(さらに面倒なのはアニメはそのような話ではない)。でも、これは歌詞だけでは見えてこないわけだ。
とりとめもなく書いてきたが、さび付いた何かを無理やり動かそうとして、ようやくブログを書いている。もう7月である。
BGM:THE ROLLING GIRLS「人にやさしく」