集中講義を終え、そのままコミケにサークル参加をしていると体力が持たない。気力で乗り越えると、発熱で寝込んでしまった。寝ているときは、もうこの世の終わりではないかと思いながら、体調が上向きになるのをじっと待つしかない。しかし峠を越えると体は動かないが、何とか読書はできる状況にはなる。そのような感じで一日数冊の本を読む夏休みが、なし崩しに始まってしまった。
読書には、いくつかの技術が必要なのだが、本を読む行為はどれも一緒だろうと思っている人が多くいる。というのは、大学教員になって気づいたことの一つである。プロ野球を見て、ピッチャーの投げ方は一つしかないという人はいないであろう。大相撲を見て、力士が見せる技は一つしかないとは言わないであろう。もちろん遠くから目を細め、焦点を合わないようにして見れば、ピッチャーの投げる球がフォークなのか、スライダーなのかはわからないので、その意味においては同じといえるかもしれない。しかし、まあ、やっていることは全然違うので、巨視的な見方のみをしても意味がないのである。
個人的に行っているのは1:情報のみを抽出する方法、2:パターン認識をしていく方法、3:速読、4:精読(もちろん精読にもグラデーションはある)、ぐらいだと思う。とはいえこれらをいきなりやれ、というわけではない。もちろん私自身と他者とが同じ手法である必然性だって、どこにもない。何より、いきなり最初から、この方法を取っていたわけでもない。主に10代のころに多読をし、それにより多くの情報と経験を得たこと。そして学生のときに精読(主に史料読解のために)をさせられたことにより、多読などほかの読書の精度も相対的にレベルアップしていったこと、などが複合的に重なり合っている。
大学生のときに行っていたのは、小説などのフィクションを読み、集中力が落ちたら、新書や論文などを読むのに切り替え、また集中力が落ちたら、小説に戻るという読書である。これだと一日二冊は読めたりするので、おすすめである。特に大量の時間が存在する大学生にはおすすめ。仕事をはじめたら、これを行うだけの時間を確保することができなくなってしまった。どちらにせよ一つのことに集中し続けることなど、人間にはほぼ無理なので、気が向いたとき気の向くものをやり、それが飽きたら、また別のものを進めればよい。それを休むことなく、やり続ければ、とりあえずの目標にたどり着くか、何かの成果を挙げられることになる。ここでのポイントは無駄なことを合間に挟まないことである。ちなみに最近、この点に関しては森博嗣も書いていて、大いにうなづいたものである(森博嗣『集中力はいらない』SBクリエイティブ、2018)。
最後に付け加えると読書と読解は別なので、ただ読めばいいというわけではない。しかし数多く読まないとはじまらない。ともあれ8月中旬をむかえ、ようやく夏休みとなり、東京の自宅で読書と原稿に取り組んでいる。あと残りのリソースで後期授業の準備もしている。はたから見ると机に延々と向かって仕事ばかりしているように見えるかもしれないが、大変有意義である。
BGM:Perfume「宝石の雨」