文芸学科なので当然のことながら、授業では数多くの小説を取り上げている。時には映像資料も活用したり、漫画を講読したりもしている。要はメディアの差異を加味しながら、物語を検討していくことが多い、ということである。そこには作品に対する私自身の好悪などは全く授業の文脈に存在していないのだが、勘違いしてしまう人が非常に多い。
なぜこのようなことを考えているのかというと、先日、twitterをぼんやりと眺めていたら、「講義で作品を取り上げると教員がその作品のことを好きだと学生に思われるが、そのような主観的な判断をしていない」という某大の教員のつぶやきがタイムラインに流れてきたからである。思わず、「わかる」と頷いたのだが、どうにも授業で何かの作品を取り上げると「好きだから授業で話している」と思ってしまう人が多い。したがって昨年度から一年生向けの授業で取り上げる映像作品は、私自身が好きではない作品を取り上げるようにしている。と書いてしまうと、もう作品名を出して語ることが難しくなってくるのだが、私自身の好みとは別の基準においては評価しているわけだ。
それは物語の構成であったり、キャラクター造形であったり、作品のテーマであったりと様々な評価軸があるのだが、その点をいきなり理解してもらうことは難しいのかもしれない。なぜ「授業で取り上げた」=「好きだ」になるのかが、当初わからなかったのだが、推測するに学生にとって作品を他者に語る機会が、「おすすめの本を紹介する」などに限られるからではないか、と思っている。自分自身が好きか嫌いかのみで物事を判断し、他者へ伝えているのであれば、他の人も同様に行っているのだろうと短絡的に考えてしまうことは起こりうる。しかし、今度は、作品を考える機会がそれしかないという狭い世界が存在しているのか、と考えたりもするが、個々人の知識や教養の濃度とは関係なくコミュニケーションとして取り組みやすい点はあるのかもしれない。私自身としては他者がどの商品を好きなのかは、個人レベルではほとんど興味がないし、知ったところで大きな変化が起こらないので、かなりどうでもいい情報とは考えている。もちろん知らない作品であれば、それはそれで情報を得られたことはありがたいが、そこからどう評価するのかは、まずは自分で触れてみないとわからない。
というわけで、今年度も昨年と同様に「特に好きでも嫌いでもない作品」を取り上げ、考えることを多数行って前期は終了した(数時間前に集中講義も終わった!)。一年生向けの必修授業で映像作品を取り上げると「教員が好きな作品を授業で取り上げている」と勘違いした人のレポートが、いくつか散見されたが、毎年、定例のように書かれる内容なので書いた人は他者との差別化ができていないことを反省したほうがいい。私自身は「今年も書かれた!」と静かにほくそ笑んでいるのだが、それはまた別の文脈である。
BGM:クラムボン「サラウンド」