「絵文字は苦手だった」

 ついに手に取ってしまった。以前より周囲のオタクな感じの人たちは、ほぼ全員読んでいるのではないだろうか、と錯覚してしまうかのごとくヒットしている作品がある。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』が更新されるたびにtwiterが動き出し、つぶやきが加速し、ファンアートが描かれ、二次創作の漫画が描かれていく。ここまでで数時間は最低でも経過している。更新後の数時間は祭りである。その通称ワタモテの単行本をこの3月は読みふけっていた。読み終わったときに虚脱感に襲われてしまい、流れるままにweb更新も読んでしまうようになった。普段は連載を読まないというのに。

 先週の更新は3月21日の午前0時である。読む。当然だ。読むに決まってるだろう。twitterも見るだろ。イラストも、他人の解釈も読みまくりである。しかし、こう見えて、仕事をしている大人なので、ここらへんではたと気づくのである。数時間後には卒業式があるではないか。

 もちろん卒業式には寝不足で参加することになる。頭の中にはワタモテしかないので、卒業生と保護者の皆さんにはワタモテの話をすることになってしまった。

 ワタモテは主人公の女子高生が、オタクであり他人とのコミュニケーションをとることが非常に困難と思い込んでいる。連載当初は、その痛々しさが強調される物語が描かれ、「一日に一回、他人と会話ができるかどうか」というように、彼女自身が目指しているもの、取り組んでいること、しかし実際にできることの乖離が非常に激しく、そこを楽しむ物語だと思う。いや、そこに感情移入し、「お前は俺か」になってしまうのだが、まあ、その楽しみ方は置いておこう。

 これに対して、物語が進むにつれて、主人公の評価が大きくかわっていく。当初はいわゆるスクールカーストの最底辺に位置づけられ、そのことをおそらく主人公も読者もそして教室内の人々も共通認識として抱いていたと思う。彼女自身は常にオタクであり続け、周囲とのコミュニケーションも積極的には行っていかない。これはスクールカーストの底辺ととらえることは当然可能ではあるが、教室内の権力関係から完全に逸脱していると考えることもできる。要は他者に合わせて自分を変容させていくわけではなく、彼女自身は彼女自身としてぶれない存在としてあり続けるのである。そして何が起きるかというと、その生き方に少しずつ惹かれる同級生の女性が増えてきて、主人公は人に囲まれながら生きていくことになる(1巻と14巻の表紙を比較するとわかりやすい)。10巻をこえたあたりになると、世の中の百合クラスタが騒ぐようになり、更新とともに祭り状態になっているのである。

 このような生き方は、今の時代では非常に難しい。教室という狭い人間関係に身を置きながら、他者の視線を認識しつつも、そこからの関係性にはからめとられない。その生き方を選ぶことは、客観的な視線を他者だけではなく自分自身にも向ける必要性が生じる。非常に大変だ。卒業していく学生さんたちは、これまで教室の権力関係の中に居続けたと思う。もしかしたら大学でもそうだったかもしれない。そして4月からはどのようなかたちであれ、大学という場からは出なければならない。もしかしたら仕事に大きな希望を持っているかもしれないし、大きな不安を抱えているかもしれない。でも日本社会の特性というか、地域性や業種・職種に左右されるかもしれないが、職場という空間もまた大小あれどもこれまで経験してきた共同体と連続性を持っている。

 職場で趣味の話はできないかもしれないし、他人に合わせて美味しいスイーツの話をしなければならないかもしれない。上司の飲みの誘いは断ってはいけないかもしれないし、先輩にはビールを注がなければならないかもしれない。サラダは取り分けるし、週末に好きな声優のイベントがあっても休日出勤をしなければならないかもしれない。もちろん、これをすべて気にせず、自分の心が赴くままに行動をしても良い。しかし、そうしたら当然、すべて自らの責任として圧し掛かってくることになる。なので丹羽庭さんの『トクサツガガガ』の主人公のように自らのオタク的側面を職場では見せないまま、会社員として生きていくことも選択肢として存在している。

 何をどう選ぼうとも皆さん自身の責任として返ってくる。一つだけ言っていくと、ワタモテの主人公みたいには、なかなか上手くいかないぞ。というようなことを文芸学科の学位授与式で卒業生と保護者の皆さんに話をした。寝不足のまま即興で喋ったわりには、きちんとまとめられたと思う。

BGM:YUI「CHE.R.RY」