先日、積読状態であったあぬさんの『なんで生きてるかわからない人 和泉澄 25歳』(徳間書店、2018年)を読んでいたのだが、ああ、なるほどと頷いていた。別に主人公の生き方に共感したわけではない。そもそも読書の手法が主人公に感情移入したり、共感したりするだけというのは極めて視野が狭くないか。もちろん、それはそれで構わないし、否定しているわけではない。読み方は多様であるというだけだ。では何に対して首肯しているかというと、以前より創作を志望する学生さんが頻繁に作り出してしまうキャラクターとして「主体性に欠けて、協調性がないが、いざとなったら何とかするやつ」があり、この『なんで生きてるか~』は、その皆さんが作り出していきたい(と思われる)キャラクターが主人公なのだ。
やる気のない人が主人公として小説内の物語世界で活動するのは非常に難しい。要は主人公に物語内での動機がない時点で、行動に移ることはない。つまり何もしない人は、物語が展開することはないし、何かが起きても対応しようともしない。それなのに急に困難を乗り越えられても、物語としての説得力に欠けてしまう。読者としてはつまらないわけで、満足しているのは作者だけになってしまう。
がしかし。『なんで生きてるか~』では、主人公にやる気はない。おいおい、セニョール。これはどういうことだ、と思うかもしれないが、この作品の場合、主人公の動機が極めて明確になっている。つまり動機は常にプラスに作用する必要はなく、マイナス面に振り切っても良い。その意味で、この作品の主人公にまとわりつく社会規範や倫理観が主人公の動機に立ちはだかる壁として存在しており、必ずしも行動に移すことが物語的な意味でプラスに作用するとは限らない。ただマイナスの感情を描くことで物語の起伏を生み出すのは非常に難しく、おいそれとできることではないのは確かだ。
同じような問題意識を持ちながら第七週のゼミで取り上げた作品に、田川とまたさんの『ひとりぼっちで恋をしてみた』(講談社、2019)がある。この作品の主人公は奥手で人見知りという主人公として物語を駆動させていくには、かなり難しいキャラクターである。それは作者自身も悩んだようで、1巻のあとがきに「2話以降の展開に悩んだ」と書いている。1話では、その主人公が少しだけ勇気を出して一歩踏み出した内容であり、読み切りであれば確かに完成度の高い作品である(ちなみに作画も素晴らしく、カメラを固定した映像的な見せ方も面白い)。しかし、それは主人公にとっての大きな一歩であり、周囲の人間、そして読者からするとほんのわずかな一歩でしかない。そこには主人公的な行動として恒常的に描いていくことの難しさが存在する。
そこでこの作品は2話以降、より大きな物語の波に主人公は飲み込まれていく。彼女自身の行動力の延長線上でありながら、さらに大きく開かれた物語展開は初発の段階で読者が抱くであろう道筋を大きく裏切っており、快感ともいうべき作品に仕上がっている。つまり主人公が奥手であることを受け入れて、その行動規範のみで展開していくと一つの限界を迎えてしまう可能性は大きい。それはそれで一つの物語としては機能するかもしれないが、狭い空間の中で描きながらもその狭さを壊していくことが求められる(頭の中に「わたモテ」を思い浮かべながら)。その点では、今後、どのように描いていくのかを楽しみに読もうと思っている。