小説の文章を書くうえでの「指針」

先日、旧知の編集者から、以下のメールをいただいた。

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大変お世話になっています。××××の××です。

門井慶喜さんの山形小説講座のご講評が素晴らしすぎて、
この連休中、7度拝読してしましました。
自分の指針にしたいと思います。
本当にありがとうございます。

すみません、素晴らしすぎて、ご連絡してしまいました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

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門井さんの講座というのは、3月に行われた山形小説家・ライター講座のことである。毎月お迎えする講師にはそれぞれ個性や特徴があるが、門井さんの場合は、徹底的に文章にこだわった講評だった。エンターテインメント作家の講師の場合、文章は書いているうちに巧くなるから文章のことはさておいて・・という講評が多い。文章を褒めるときは具体的に熱く褒めても、問題があるときはさらりと触れる程度で、プロットやキャラクターやテーマなどについて詳しく見ていく。

そういう講師がほとんどなので、門井さんが文章について詳しくやりたいのだが、どうだろう? とおっしゃるので、どうぞどうぞお願いしますとお答えした。文章に関して徹底的に論じる講座があってもいいと思ったからである。

ということで、講座2時間のうち3分の2(1時間半程度)が、受講生提出のテキスト(短篇)の文章についての徹底した講評になった。これがもう読ませる。

一言でいうなら、トートロジーを避けようということである。トートロジーとは、同義語・類語・同語を反復させる修辞技法のこと。頭痛が痛いとか馬から落馬するとかが有名だが、そんな“初級篇”ではなく、中級篇や上級篇のことである。小説の中の説明や描写に則して見ていくと、意外と気づかない同義語反復、類語反復、同語反復等がある。その細かな検証を、門井さんが行ってくれている。
https://pixiv-bungei.net/archives/3883

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では(佐藤陽子さんの)『雲の縫い方』1頁目から。
文章で絶対やってはいけないことは、トートロジー、同義反復です。馬から落馬した、というような初級篇で引っかかるような方はこの講座にはいないと思いますが、では中級篇、上級篇ではどうかというと、残念ながらこの三作品にもあてはまるところがあります。『雲の縫い方』に関しては、1行目から3行目を見てください。「雨が降った、次の日だったと思う。町を囲む山の峰から、湧き出るように雲が立った。ましろの、綿のような」という、この3行にふたつトートロジーがあります。作家というのはトートロジーには敏感なものですが、中級篇でいうと、「ましろの、綿のような」というところです。これはどちらか片方でいい。雲の話ですから、「綿のような」と言うだけで、黄色や黒の雲を想像する読者はいませんから。したがって、僕なら「ましろの」を切ります。おそらく、佐藤さんは薄々これに気がついておられたのではないかと。まだ書き始めで、読者とのコミュニケーションがまだできていないから、ついつい二重に書いてしまったということでしょう。だから「ましろの」と古語にされているのだと思いますが、これは二重にいけません。歴史小説でもないのに、ここで古語を出す必然性はないですし、かといって「真っ白」でも「純白」でも、どっちにしてもいりません。

これが中級篇です。では上級篇ではどうかというと、これはたいへん気づくのが難しい。「町を囲む山の峰から、湧き出るように雲が立った」というところです。「町を囲む山の峰から」という文章は、風景の広がりと限定を同時に出している、さりげないけどいい表現です。ところが、言葉を出す順番を見てみましょう。まず「町」を出して、次に「山」を出したら、読者の視点は下から上に行くでしょう。ということは、続く「湧き出るように」は、いりませんよね。わかりますか? 「町を囲む山の峰」に雲があった、という時点で、読者は勝手に視点を上げてくれますよね。ですから、ここは勇気を持って「湧き出るように」は削除しましょう。削除することだけが解決方法ではありませんが、言葉を出す順番によって読者がどう視点を動かすか、というところまで考えていかないと、風景描写におけるトートロジーはなかなか削りづらいです。

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どうだろう。プロの編集者が何度も読み返すのがわかるのではないか。こういう鮮やか講評がえんえんと続く。文章にうるさい人でも、門井さんの講評には感嘆するかもしれない。

ただ、こういう門井さんの講評のように文章をいちいち考えていくと、全然前に進めない人がいるかもしれない。かつて僕もそうだったのだが、文章にこだわりすぎて、ぜんぜん先へと進めなかった。理想とする文章があり、それに近づこう、自分の文体を確立しようとそればかり考えていて、語るべきストーリーやテーマを見失う。

一方で、文章の善し悪しなどまったく考えないで簡単に書き続ける人たちがいる。文章よりも語りたいストーリーがあり、キャラクターがあるからで、文章にこだわりがない。そのために文章が無味乾燥になるきらいがある。

前者が純文学、後者がエンターテインメント志向という分類は乱暴かもしれないが、どちらも問題があるだろう。いや、問題があるというのは言い過ぎか。どちらも大事ではあるのだ。文章にこだわり、この表現はいいのか悪いのか、それこそ同義反復になっていないのかどうかと考えることは必要であるし、細かいところは後回しにして語りたい欲望に忠実になって勢いを持続させて文章を繰り出していくことも大切である。文章に注意を払いながらも、書きたいことを書き続ける勢いを失わないことである。

編集者のメールにあるように、門井さんの講評は今後の“指針”になるだろう。小説を書く人たちには重要な参考資料になるにちがいない。ただ、細かいことを考えていると文章を書けなくなる恐れがあるので、とりあえずまずは書き続けることを優先して、推敲のときに門井さんの講評を読み返すくらいがいいかもしれない。