『妖草師」「監獄舎の殺人」『落ちぬ椿』と六月中旬以降(授業第八週~第十週)

 六月になると、ぽつぽつと新入生が休みはじめる。これまで五月病とよく言われていたが、意外にも五月ぐらいではまだ新鮮な気持ちは失われておらず、連休により一度リフレッシュして少し生き生きとしているぐらいである。この五月、六月の流れは教員も例外ではなく、というより社会性ある人間として生きている以上は、何かの取り決めにより成立した暦に依拠して社会生活を送っているため、そこからの完全なる逸脱は不可能だといえる。そのため五月までは通常通り進めていた授業ではあるが、六月になると教員は普通の顔して授業をし(その心中はさておき)、学生たちは毎週必ず誰かが休んでいくという構図が見えてくることになる。

 もちろん、休んだ学生全員がサボりだと言いたいわけではない。季節の変わり目をむかえた山形は寒暖差がとにかく激しく、体調を崩しやすくなる。そう書いている私自身もあっさりと風邪をひくので、梅雨寒の時期は非常に厳しい。本当に厳しい。冬も厳しい。真夏だけは暑くなるのは昼下がりの一瞬なので、夕方以降は涼しくなり、天然のクーラーだなと思う。私の感慨は置いておこう。このような状況なので学生の皆さんが体調を崩したにも関わらず無理して来ようとしたら、いつも「いのちをだいじに」の気分で接している……つもりである。しかし、そこにカテゴライズされないであろうと推測される休みが目に付いてくるのが、この六月である。

 数年前に東京理科大の調査が発表されたときに、首肯しながら読んでしまったのだが、その内容は「1年生の最後の成績が、概ね四年間の成績を表してしまうこと。その成績に大きく影響を与えるのが1年生の六月の出席」ということである。

大学成績1年で決まる? 卒業時と一致 東京理科大調査

 感覚的に把握していたことが、きちんとした数値で提示されて気持ちよかったことを覚えているが、とにもかくにもミクロな個別事例での差異はあれども、大まかな傾向としては、この六月が重要ということになる。とはいえ、別に「全員来い。絶対来い。今すぐ来い」と言いたいわけではなく、大学は高校までと違い、来るか来ないか、何を学ぶか学ばないか、そのすべての責任は自分自身にかかってくるので、教員はその手助けをするだけというスタンスである。

 その六月の作品読解では、時代小説を二本取り上げた。一つは武内涼さんの「若冲という男」(『妖草師 人斬り草』徳間文庫、2015年)で、もう一つは伊吹亜門さんの「監獄舎の殺人」(『刀と傘 明治京洛推理帖』東京創元社、2018年)である。さらにゼミでは知野みさきさんの『落ちぬ椿 上絵師 律の似面絵帖』(光文社時代小説文庫、2016年)を取り上げた。それなりに歴史が好きな身としては、定期的に時代小説を取り上げようと毎年苦慮している。学生の評判は「難しい」、「漢字が多い」という直接的な拒否反応もあれば、「予想と違い面白い」という前向きなものもある。まあ、その意味ではいつも通りであろう。今回の狙いは武内作品で時代小説というジャンルにしばられない幅の広さを、伊吹作品ではミステリーとしてのレベルの高さを、そして知野作品では女性の生きる力強さを考えて欲しいと思い、取り上げている。皆さん、どうであったであろうか。そう思いながら、このブログの更新が滞っていたのは、やはり六月だからである。