山本周五郎(1903年~1967年)が亡くなって50年たつので、著作権がなくなり、遺族に印税を払わないで自由に出版できるようになった。山本周五郎といったら新潮文庫であったが、昨年から新潮文庫以外の講談社文庫や角川文庫でも、次々に山本周五郎が文庫化されているのは、そういう事情である。
今年に入っても、山本周五郎の代表作といっていい、『五瓣の椿』が3月に角川文庫、5月に新潮文庫に収録された(新潮文庫の場合は解説が一新された改訂版)。とても気に入っている作品なので多くの人に読んでほしいと思うけれど、困ったことに、角川文庫も新潮文庫も、解説の中で大事なことに一言も触れていない。年季の入った海外ミステリファンにはおなじみのことであるが、山本周五郎は何もないところから『五瓣の椿』を生み出したのではない。元ネタがある。それはコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』(ハヤカワ文庫)である。実際、ハヤカワ文庫版のあとがきでは軽くその事実に触れている。
これは海外ミステリファンの間では常識なのだが、いま検索をかけたら、この両者についての結びつきを詳しく論じているものが見つからないので、拙著『ヒーローたちの荒野』(本の雑誌社、2002年6月)から引用しておこう。「本の雑誌」に連載したものを一冊にまとめたもので、雑誌に書いたのは1990年代半ばかと思う。雑誌掲載時のまま、二回にわけてある。
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「二十年目の再読に評価が逆転した『五瓣の椿』と『黒衣の花嫁』」
約二十年ぶりに山本周五郎の時代小説『五瓣の椿』(新潮文庫)を読み返したら、これが意外と面白かった。それで、あわててコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』(ハヤカワ文庫)を再読したのだけれど、昔の昂奮はよみがえらなかった。どうしてだろう。
かつてはもちろん『黒衣の花嫁』を読んでから『五瓣の椿』を手にしたので、後者のひねりのなさが物足りず、少しストレートすぎるのではないかと思ったのだが、今回は逆の感想をもった。ウールリッチのひねりが気になり、山本周五郎の直截な筆致に心をうたれた。いやむしろ、こんに素晴らしかったのかと感動したほど。
『黒衣の花嫁』のあとがきで一言ふれられているが(新潮文庫の解説には一言もないが)、『五瓣の椿』は『黒衣の花嫁』から着想をえて書かれたものである。暴走運転で花婿を殺された花嫁ジュリーが、同情していた五人の男たちに復讐する・・というのが『黒衣の花嫁』だが、『五瓣の椿』は、若い娘おしの(、、、※ルビです)が、労咳の父親を見殺しにした淫蕩な母親と五人の愛人たちを次々に殺す物語である。名前を変え、男たちに言い寄り、男がその気になったところで動機を告白して殺す。このウールリッチのパターンをそのまま山本は踏襲している。連続殺人に刑事が注目し、結果的にヒロインの犯罪をあばくのも同じ(『五瓣の椿』では与力であるが)。
ただ違うのは(※以下、結末を明らかにします)、『黒衣の花嫁』の花婿の死亡が実は車で轢かれたからではなく、殺し屋が放った銃弾によるものであること、つまりジュリーの復讐はまったく根拠がなく、無垢の者たちを殺したことがわかる。このどんでん返し! ジュリーは、運命のいたずらに翻弄されて、犯した罪の重さを噛みしめるのだ。
いっぽう『五瓣の椿』は、おしのの行為を正当化する。“この世には御定法(ごじょうほう)で罰することのできない罪がある”“人が生きてゆくためには、お互いに守らなければならない掟がある。その掟が守られなければ世の中は成り立ってゆかないだろうし、人間の人間らしさも失われてしまうであろう”と。
現代の読者感覚からすれば、不義が殺人の動機になることへの違和感や、殺される者への同情を覚える人もいるかもしれないが、小説を読んでいると、そんな違和感や同情が差し挟まれる余裕はない。おしのの苛烈な精神性、熱くたぎる殺意にうちのめされてしまうからだ。生娘なのに、男をたぶらかすような真似をして誘い込み、一線を超えずに、最後は男たちの胸に銀の釵(かんざし)を打ち込む。その情念の峻烈さ。山本周五郎はウールリッチ以上に、より強く情念を打ち出しているのだが、もちろんそればかりではない。物語を借りて、もっと挑戦していることがある。(この項目続く)
「『五瓣の椿』はなぜ面白いのか」
コーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』と山本周五郎の『五瓣の椿』。前回詳しく書いたように、後者は前者にインスパイアされて書かれた作品で、物語の構造はほとんど同じである。違うのはウールリッチがどんでん返しを採用しているのに、山本周五郎のほうはストレートに物語を運んだことだ。
当時の時代背景を探るなら、『黒衣の花嫁』が書かれたのが一九四〇年(余談だが、ハヤカワ・ポケット・ミステリから翻訳が出たのが五三年)、『五瓣の椿』は一九五九年。かたや第二次世界大戦に突入した時期の暗いムード、かたや翌年の安全保障条約改正阻止のために国情が騒然としはじめた頃を背景としている。だから、『黒衣の花嫁』のどんでん返し、つまり暴走運転で殺された夫の復讐のために連続殺人を犯したのに、実は死因が轢死ではなく殺し屋による銃殺というラストの衝撃は、ひとりよがりの正義のために無垢の者たちを殺してしまう“戦争”を批判したともとれるだろう。『五瓣の椿』がどんでん返しを採用せずに、ストレートに一人の女性の内面をぶつけたのは、己が信条のために行動を起こすことを是とする空気を反映したものとみることもできる。
もちろん作家論として、ウールリッチが絶望と哀愁を謳い、山本周五郎が世の中の底辺に生きる人々の真摯な思いをすくい上げたことをみれば、それぞれの結末は当然の帰結ともいえる。二人の作家とも“時代”を反映させ(いや反映させる意図はなかったにしろ)、それぞれの文学観で物語の結末をつけた。だからいま問題にすべきは、現代において、何故『黒衣の花嫁』が弱くて、『五瓣の椿』のほうが読者に面白く迫るのかということである。
簡単にいってしまうなら、『五瓣の椿』はまさに“現代のハードボイルド”ということにつきる。“この世には御定法で罰することのできない罪がある”という考えによって、おしのが殺人という私的正義を下すあたり、まさしく近年の(海外ミステリにおける)重要なテーマである自警団的正義の是非と絡んでくるし、何よりも文体そのものが、珍しいくらいに装飾を排して乾いている。非情な行動と台詞を冷徹に記述しながらも、こぼれおちる清冽な抒情。それは山本の代表作『樅の木は残った』にもいえることで(あの雪のなかでの鮮烈な鹿撃ちの場面を思い出せ!)、生島治郎や青木雨彦たちが国産ハードボイルドの先駆的な作品としてあげているほどだ。
しかも注目すべきは、外側から描かれていた『五瓣の椿』が終盤では一転しておしのの内面に入り込み、殺人を犯した女の悲しみや絶望が前面に打ち出され、心の闇がより鮮明になり、暗黒小説の片鱗をのぞかせることである。このハードボイルドからノワールへの移行。『五瓣の椿』が面白いのは、山本がはからずもその小説史を先取りした点にある。
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角川文庫の解説は、私小説家の西村賢太。角川の文芸サイト「カドブン」に解説がまるごと掲載されている。それによると、30年前の「初読時の本作の印象は決して心地良いものではなく、むしろ全篇に対し、軽ろき不興をさえ覚えた」という。「サスペンス仕立ての小説としては、現代の視点では至極ありきたりな筋の運びに感じたし、またそれだけにおしのの復讐心理にも不自然な――一口で云ってしまえば共感を重ねることがなかなかに難しかった」と。そしてこう続けている。
“さほどでもない作”との感想のまま、二度読み返すこともなかったのである。
そして三十年余の星霜を経たわけだが、先の、『山本周五郎長篇小説全集』配本の際に本作を再読してみて、私は過去の自身の大いなる不明を恥じぬわけにはいかなかった。
当然、細部については完全に忘れきっているから、それは殆ど初読に等しい復読である。
今度は若年時に感じた、おしのの心理に対する不自然さは露ほども感じなかった。
結句(けっく)、小説を読む際は単純に、どこまでもその物語の中に没入した方が得なのである。昔に読んだときには解らなかった語り口のうまさと緊密な構成力とが、今度はハッキリと本作にもあらわれていることを知った。
三十年と云う歳月が、こうも同じ作の読後感を変えるものかと驚いた次第である。
(KADOKAWA発の文芸情報サイト・カドブン「復讐は、虚しいか。父のために人を殺めた少女を待ち受ける、哀しくも優しい運命『五瓣の椿』」。角川文庫解説より)
このあとに、僕が引用したところと同じ、“御定法”との絡みについての魅力が書いてある(関心のある方は読まれるといいだろう)。
おそらく山本の冷徹で直截な筆致は、いまの読者の胸に響くかと思う。ただし、大切なのは(大学の授業でも触れたことだが)、山本がハードボイルド・スタイルを貫き、最後に主人公の内面に入り込む方法をとったからでもある。最初から内面を描いていったら単調になるし、読者の胸には響かないでしょう。ぜひ『五瓣の椿』→『黒衣の花嫁』の順で読んでほしいし、できたら、フラソワ・トリュフォーが映画化した『黒衣の花嫁』(1968年)も見てほしいと思う。