11月末になってくると文芸学科では4年生の卒制が佳境を迎える。はずなのだが、年々、学生が卒制を教員に持ってくるのがぎりぎりになってきており、十分な指導を受けられないまま締切直前に提出するようになってきている。これは多くの場合は、就活が多忙になり、その上、就活終了後にも研修やらなにやらと駆り出されているのも一つの要因だと思う。もちろん印象論でしかないし、教員による大局的な指導不足であり、また学生自身の取り組みが遅いためだともいえる。多くの要素が複雑にからみあって一つの現象が形作られている。
とはいえ別に教員が暇になったのかというとそういうわけでもなく、何かしらの作業が発生してしまうために時間は毎日細切れになっている。睡眠も細切れで、深夜ラジオの途中で寝落ちしたりしている。深夜ラジオも聞けない生き方なんて、それでいいのか。その合間合間で、今月から連載がはじまった眉月じゅんさんの「九龍ジェネリックロマンス」を読むため『週刊ヤングジャンプ』を毎週、手に取るようになった。具体的には電子版なので手に取っているのはkindleである。さらにはkindle voyageである(型は古いけど違和感なく使っている)。雑誌を毎週読むのはいつ以来なのかわからないぐらいなのだが、個人的な価値観としては週刊誌一冊を読む習慣はもう完全に消え去っていて、読み方としては「目次」をまず見て、そこでページ数を確認し、眉月さんの作品だけを読み、終わる。を繰り返している。昔はいろいろ目移りしながら読んでいたのだが、それは紙だったからなのか、今は電子版だからなのか、年を取ったからなのか、生活習慣が細切れなのかはわからない。
「九龍ジェネリックロマンス」は一人の女性を描き出すところからスタートする。彼女が起床し、スイカを食べ、タバコを吸い、着替えて、出勤する。ただそれだけのことを様々な構図を駆使しながら数ページにわたって描かれていく。たったこれだけのことを描くのに費やすページ数は、普通に考えると割に合わない(尺に合わない)と考えるはずなのだが、カメラの移動を駆使し、タバコや矢印などの小道具で視線誘導し描かれていく彼女の生活が非常に力強く読者には響いていく。概ね第一話は主人公のキャラクターをいかにして読者に伝えていくのかを苦慮していくのだろうと思うが、それにいきなり取り組むわけではなく漫画としての特性を活かし、一人の女性を描ききった第一話だと思う。
以前、眉月さんに「『恋は雨上がりのように』の第一話はすべてが過不足なく完璧です」と伝えたことがあるのだが(そしてそれは大変失礼なことでもあったのだが)、今回のこの第一話の入り方は想像していなかった。この後に描かれる職場の先輩とのやり取りからスタートしても、別におかしくはない。というよりキャラクターが映えるのは、人間関係だし、何かの出来事への登場人物たちの対応により、読者にはダイレクトに伝わっていくので、そのようにする選択肢もあったはずだ。とはいえこの作品は物語のスピードをゆっくりにし、焦点化の度合いをも動かしながら話を始めている。
その物語の抑揚は一話の後半でも、そして二話以降にもつながっている。基本的な姿勢として物語を描く視線は、九龍に住む主人公から動かさない。彼女の気が付く範囲内で物語は進んでいく。メガネを外し、裸眼でクリアに切り取られる社会は、世の中のニュースであり、流行りの食べ物であり、そして先輩である。二人を中心とした物語の中で、細切れになった社会情報を読者は読み取っていく。どこまでのディストピアなのか、何が起こっているのか、という情報を求めようとしても、見事に手に届かない。
ディストピア作品では、絶望的な状況を主人公がどのようにして切り抜け、生き残っていくのかが描かれる傾向にある。それは全体主義的な国家・政府により生命や生殖、セクシュアリティを管理する傾向に拍車をかけ、ゲームや漫画などのエンターテイメントだけではなく、村田沙耶香さんのように文学作品でも描かれている。特にディストピアとポストアポカリプスをミックスさせた設定で、主人公たちが生き抜いていく「けものフレンズ」のヒットは記憶に新しい。とはいえ「けものフレンズ」は90年代からのセカイ系(と呼ばれるもの)とは一線を画し、必ずしも生き残るために絶望的な状況からの脱却を行っていくわけではない(最終回に向けても、かばんちゃんを助けるためであった)。
その意味では「キミとボク」の物語が、社会性の中に溶け込んでいてもおかしくはない。ディストピアのなか、主人公たちが必死に生き抜く。その生き方はサヴァイヴしなければならないのか。絶望的な状況でなければならないのか。新しい一面を見出してくれるかもしれない。そう思いながら、「九龍ジェネリックロマンス」を読み進めている。