自宅から移動し東京駅に降り立つと、毎回、駅構内の本屋へと向かう。やはり新幹線内で読むことが想定されているのであろう。持ち運びに便利な文庫本が充実している。ここで買うときもあれば何も買わないときもあるが、だいたいは購入したとしても非常に悩んだ末である。なぜなら、いつも文庫本2冊を鞄の中に入れておくようにしており3冊目は必要かどうかを自問自答しなければならない。読書スピードとの兼ね合いもあれば、単純に荷物の重さを考慮しているときもある。そもそも複数冊を持ち運ぶ必要があるのかという問題があるが、それは移動中に一冊を読み終わってしまうと手持無沙汰になってしまうからである。本屋を辞したあと、弁当を買いに行く。山形に行くようになり2年以上経つが、最初のうちは毎回違う弁当を買っていた。しかし、いつしか同じ弁当を買うことになり、1年以上が経過している。カップばらちらし寿司である。本屋から近い。宣伝をする義理はないので、気になった人はググるとよい。そのあとコンビニに移動し、コーヒーとパンを買う。これは食後用。そして新幹線内でのコーヒー購入を控えるためである。あれはおいしくないような気がする。それからコンビニから近い本屋へと向かう。先ほどとは別の本屋である。ここでも先ほどと同じ行動をとる。先ほどの店で購入したものがあっても、そこに本屋があるので入店してしまうだけである。そして山形新幹線に乗り、山形に向かうのである。
(新幹線内での状況。アニメを見ながら、コーヒーを飲んでいるところである)
というのが私の東京駅でのルーティーンである。日常生活の中では脳みそのリソースを余計なものに回したくはないので、できうる限り選択肢を登場させないようにしている。何を着るか、何を食べるか、など、この世には細かく必要以上に選択肢を突き付けられ、選ぶというコストを払うことが多い。脳みそは常に稼働させて何かを考えさせている。研究のことであったり、授業のことであったりと考えなければならないことは多い。そのためのリソースは常に確保しておきたいというのは人間としては当然ではないだろうか。しかし、情報が非日常に占められてしまったときには、こうはいかない。ルーティーンが確保できるというのは一つの幸せである。3.11の東日本大震災の際は、震災後にネットやテレビや新聞などから入ってくる非日常的な情報が自分の身体に対して供給過多になり、途中からは情報をシャットアウトして動物が出てくるだけの番組を見ていたり、論文を書いたりしていた。阪神淡路大震災の際はまだ中学生であったのと、得る情報がわずかに見るテレビか兵庫出身の同級生(出身学園は寮生活している学生が多かったので全国から来ていた)に限られていたのでそれほどでもなかったと記憶している。しかし、昨日、起こった熊本地震では、3時間ばかりしてあまりにも非日常的な情報内容にくらくらしてしまい、テレビを消してラジオを聞いていた。伊集院光の番組を聞くためにradikoプレミアム会員になっているので、どこにいようとも関東地域の番組を聞くことができるのだが、よくわからないアイドルが通常通り(なのだろう。普段聞かないけど)の放送をしているとほっとできる。
というのは長い長い枕詞のようなものであり、本論は以下になる。熊本地震で亡くなった方、罹災された方には心よりお見舞い申し上げます。いち早く、日常的な生活様式に戻れるように祈っています。日常的な要素が今後、多く得られるよう私も微力ながらお手伝いします(募金ぐらいしかできませんが)。
BGM:ASIAN KUNG-FU GENERATION「迷子犬と雨のビート」