『早朝始発の殺風景』と授業第一週

 今年度、うちの大学は4月初頭をガイダンスおよび初年次教育の演習に時間を割いている。そのため授業は4月の第3週目からスタートすることになる。第3週なのに第1週なのだ。で、これは毎年のことながら玉井担当の授業はすべて初回から普通に授業をしている。講義なら喋るし、ゼミであれば具体的に作品を講読している。もちろん授業のスケジュールや目的などシラバスに書いてあることを説明してはいるので、いろいろと投げ捨てているわけではない。なぜこのようなことをしているのかというと、大学生のころの自分は一つでも授業を楽しみたかったので初回の授業がガイダンスという名でお茶を濁されてしまうと、それなりにがっかりしていたからである。

 そして、これが面倒さに拍車をかけてしまうのだが、昨年度と基本的には同じ内容を行わないという自分ルールを設定してしまっている。これは教員として授業を行う側になったとき、毎年同じ内容を話していると飽きてしまうのと、成長する機会を自ら放棄している気分になってしまうからである。そんなわけで4月に入っても雪が降るという驚異の風土を提示してくれた山形という土地で、寒さでふるえて軽く風邪をひいている自分は、過去の自分に対して愚痴を吐きながら授業準備をいそしんでいたのだ。

DSC_0517

 それでも授業が始まるとともに、緩やかに暖かくなり、桜も咲き誇り、新年度の空気を感じとれるようになってきた。そんな新年度の初回の授業(玉井が担当する全授業の最初)は「作品読解」という新入生向けの授業である。そこでは青崎有吾さんの「三月四日、午後二時半の密室」(『早朝始発の殺風景』所収)を取り上げた。

 新入生は、ほんの数週間前までは高校生であり、新しい環境に身を置いていることで、無意識的にも気を張っている状態にあると思う。それがいいか悪いかではなく、世の中そのようなものである。玉井だってそうだった。新しい場所で学び、新しい人と机を並べ、人によっては新しく一人暮らしも始まる。その中で悩んでいくことも多いだろう。特に高校までのような教室内の関係性では成立しない大学のシステムに戸惑うかもしれない。大学は何をやってもいいんだよ、と言うことは簡単だけど、それは拠り所を失った気分になったときの不安や空虚感を自力で回復していかなければならないことも意味する。どうすればいいのかわからなくて、ぐるぐると悩んでしまうかもしれない。

 そのような学生が青崎さんの「三月四日、午後二時半の密室」を読んで、教室外で他者と出会うこと、そして既存の教室内の関係性に依拠しながら発揮されるキャラクター性を脱ぎ捨てることの意義を考えて欲しい。そんなお節介な気分も込めて、この作品をセレクトして初回に持ってきた。もちろんこのようなことを受講生は考えてもいいし、まったく考えなくてもいい。おっさんは本当に面倒なことを言う存在である。ただし、そのような玉井の考えは別にして青崎さんの『早朝始発の殺風景』は名作であることは確かだ。