活動報告

【イベントログ】三浦雅士「東北文学は可能か」(東北文化研究センター10周年記念シンポジウム)

東北文学は可能か

講師/三浦雅士(文芸評論家)

東北文学は可能か。この問いに私は「可能だ」と答えたいと思います。

まず、太宰治を手がかりにお話します。太宰の第一創作集『晩年』に、「死のうと思っていた」という言葉で始まる短編「葉」があります。なぜ死のうと思っていたのか。太宰が共産党から転向しなければならなかったとか、これまでさまざまに論じられてきました。でも、どれも腑に落ちなかった。最近になって、ああ、そうだったのかと思うことがありましたので、そのことをお話します。

『晩年』には「魚服記」という短編も入っています。この「魚服記」の中になぜ、「死のうと思ったのか」を探る手がかりがある。「魚服記」は、炭焼の男が山の中の滝の前に茶店を作り、自分の娘に店番をさせる。植物採集に来た学生が滝に落ちてあっけなく死んでしまうのを、娘が目撃する。冬になり、親父は町で炭を売った金で酒を飲んで真夜中に帰ってきた。娘を犯そうとすると、飛び出していった娘は滝壺に身を投げて死んでしまう。そういう話です。

これはおそらく柳田国男に触発されて書かれたものでしょう。柳田国男が明治四三(一九〇九)年に出版した『遠野物語』は、芥川龍之介や泉鏡花など、当時の作家たちに非常に強い影響を与えている。柳田は民話を採集していた時期があり、炭焼のことも記しています。太宰は直接、柳田との関係には言及していませんが影響を受けているはずです。

「魚服記」の中で、娘が父親に「おめえ、なにしに生きでるば」と訊ねます。「判らねじゃ」と答える親父に娘は「くたばった方あ、いいんだに」という。父親は手をあげかけたが我慢して「そだべな、そだべな」といい加減な返事をする。そのときの娘の心情を太宰は「馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、「阿呆、阿呆」と呶鳴った。」と書いている。

娘は十五歳だと太宰ははっきり書いています。そして二十歳ばかりの学生の死を目撃する。それから間もなくこの会話があるわけです。その後、娘は父親に襲われそうになって身投げするわけです。

「何のために生きているんだ」「判らない」「だったら死んだ方がいいじゃないか」「そうだな、そうだな」。この会話のなかに太宰が死にたいと思ったポイントが隠されています。

「馬鹿くさくて馬鹿くさくて」というのは津軽弁です。これは標準語の「阿呆らしい」とか「馬鹿みたい」というのとはちょっと意味が違うのです。一所懸命仕事をして、けれどもそれがまったく無意味だという、そういう時に出てくる言葉です。

この「馬鹿くせ」という方言について、やはり津軽出身の作家である長部日出雄さんがよく引き合いに出す話があります。津軽に仕事熱心な百姓がいて春に何日もかけて苗を植えた。人心地付いて晩酌しながら、苦労して田植えしたって、どうせ夏は寒いに決まっている、寒くなかったとしても台風が来るに決まっている。そう考えるうちにだんだん腹が立ってきて、その晩のうちに田に引き返して植えた苗をぜんぶ引き抜いてしまう。どうせ寒い夏が来て、嵐が来て、俺が懸命にやったことはぜんぶ無駄になってしまう。「馬鹿くせくて馬鹿くせくて」こんなことやってられない。津軽弁の「馬鹿くせ」というのは、そういう「不条理」な気持を示す強烈な言葉なのです。それ以外には使われないほどです。

「魚服記」のいちばん大きいポイントは、「馬鹿くせくて馬鹿くせくて」というこの言葉に潜んでいる。年頃になった娘は学生を見て「世の中にはあんな格好いい男もいるんだ」と思ったに違いない。ところが滝壷に滑り落ちて死んでしまう。どうでもいいような父親は生きている。娘は自分はどうなのか考える。そして「馬鹿くせくて馬鹿くせくて」と思った。つまり生きていることは「不条理」だと考えた。娘は太宰なのです。だから「葉」の冒頭、『晩年』の冒頭に「死のうと思っていた」と書いた。

でも、太宰が日本の不条理文学の先駆者だとは誰も考えていない。「死にたい病」にかかった甘ったれた作家だと思われている。実はそうじゃない。人間の不条理について真正面から考えた作家なのです。

東北が生んだ巨人たち

柳田国男も、不条理の問題を深く考えさせる文学者です。『山の人生』にしてもそうだし、そのほか、採集した民話の中に、人間はどんな絶望的な状況にあっても生きて行かざるをえない、そういう人間の条件がつぶさに描かれています。

柳田に大きな影響を与えた人物に国学者の平田篤胤がいます。篤胤は神道家として幽霊のことを研究している。幽霊は人間の不条理性の象徴です。柳田は官僚でしたが、内心では幽霊にとても惹かれていたのです。幽霊とは何なのか、人間は死んだ後、どうなるのか、そういうことを考えて、篤胤なんかを読んでいるんです。

平田篤胤は、秋田藩士の子として生まれましたけど、ものすごく貧乏な家の末子でした。そこから逃げ出すようにして江戸にいって、とにかく本を読みまくった、すごくまじめな勉強家です。篤胤は『新鬼神論』を書いて新井白石の『鬼神論』を批判する。白石は合理主義の塊のような人ですから、鬼や神、幽霊についてもやっぱり合理的に書いてある。『鬼神論』は鬼や神がテーマだから、学問的には相手にされないけど、篤胤はすごくこだわった。最近、若い研究家たちが、白石や篤胤の鬼神論をとても斬新な視点で論じていて、僕はとても感心しています。面白い。

白石や篤胤が幽霊について書いたのは、実は仏教をなんとかしたかったからだというのです。江戸時代の宗教には儒教、仏教、神道の三つがあるわけですが、この中で仏教というのは役場というか役所のようなものだったのです。お寺は出生届や死亡届を掌握している戸籍係みたいなものだった。葬式仏教というように、同時にあの世のことも管理していたわけです。白石は儒教の立場からそれを批判した。篤胤は神道の立場からさらにそれを批判した。日本にはもともと神の道があったのに、仏教が幅をきかせているのはおかしいというわけです。

篤胤は太平洋戦争中、国粋主義の旗印になりました。戦時中の昭和一八年が生誕百年でもあったのです。篤胤の本が随分出されて多くの若者が読んでいる。三島由紀夫も影響を受けた一人です。

篤胤だけではないのですが、昔から日本の知識人は日本の古代と中国の古代はそっくりだと主張してきました。夏や殷や周に日本の神話時代、記紀歌謡の時代を当て嵌める知識人が少なくなかった。

だけど、孔子は怪力乱神つまり鬼や神を語らなかったということで有名なのです。儒者のなかにも日本と中国の古代は通じ合っているとする人はたくさんいたけれど、さすがに孔子だけは合理主義者として扱われていた。ところが篤胤は、中国の古典をよく読めば、孔子が鬼や神のことに随分触れていることが分かると主張したのです。そもそも儒教で言う礼とは神とか鬼を祀るもので、孔子はそれがいちばん重要だといっているではないか。祀られるべきその鬼や神の世界が的確に書かれているのが記紀歌謡であって、中国では忘れられたその真理が神国日本には有難くもそのまま残っているのだ。篤胤は宣長の延長上でさらに過激になっているわけです。

じつはこの議論を間接的に証明した人がいるのです。漢文学者の白川静です。殷の時代、王が亀の甲羅や牛の肩甲骨を焼いてそのひび割れ具合で占いをしたものに記された文字を甲骨文と言いますが、白川静はその研究から、じつに独創的な漢字起源論を称えました。その過程で、中国最古の古典『詩経』と『万葉集』が酷似していることから、古代中国と古代日本の根本的な類似を指摘しているのです。彼も、孔子は儒者ならぬ呪者だったと言っている。

この白川静に決定的な影響を与えたのが東洋学者の内藤湖南です。湖南は十和田湖の南、鹿角の出身です。いま世界的に行われている中国史の基本的な時代区分、中国は宋の時代に近世を迎えたという説は、最初に湖南が称えたものです。中国の学者もこれを採用している。

朝日新聞に勤めていた湖南を京都大学の教授に招聘したのが京都大学文学部を作った狩野亨吉です。江戸中期の思想家、安藤昌益を発掘したのも狩野です。安藤昌益は現在の秋田県大館市出身で、八戸で医者をしていた人ですが、著書『自然真営道』の中で、身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきだと主張している。江戸時代にすでに共産主義そっくりなことを言っている。この安藤昌益を発見したのが狩野なのです。篤胤も湖南も狩野も昌益も、みんな東北出身で、中央の間尺に合わない画期的な理論を呈示した人物です。

なぜか、東北からは世界に直結するグローバルな逸材が輩出するんですね。版画家の棟方志功もそうです。日本に本格的なバレエを根づかせた小牧正英もそうです。彼は岩手県出身ですが、バレエを習いにハルピンまで行き、戦時中は上海のロシアバレエ団に加わった。終戦後、日本で小牧バレエ団を立ち上げます。秋田出身の舞踏家・土方巽、青森出身の寺山修司。それから江戸末期から明治時代にかけて活躍した思想家の高山樗牛。型破りな人物が次々に生まれている。これはなぜなのか。

方位としての東北性

東北といえばすぐに日本の東北地方を考えますが、東北は方位を示す言葉です。日本だけじゃなく、ヨーロッパにも中国にも、どこにでも東北は存在するんです。 

共産主義が崩壊した直後の一九九〇年、パリを出発点にしてヨーロッパを北上したことがあります。その時はっきりわかったのですが、いわゆる東欧というのはヨーロッパの東北なんですね。東欧文学というのはつまりヨーロッパの東北文学なんです。カフカもクンデラもヨーロッパの東北文学作家なんです。安部公房は満州に行った。日本からみたら満州は西北だけど、中国の中では東北に位置する。方位としての東北は世界中にあって独特な意味を持つ。

西洋文学において最初の東北文学はドイツ文学でした。ゲーテやシラーは東北文学だった。この東北文学を紹介したのがフランスのスタール夫人です。この衝撃が凄かったのは、シェイクスピアまでもがシラーやゲーテという東北を介して西洋の中央に躍り出てきたからです。シェイクスピアの迫力を世界文学として最初に発見したのはヨーロッパの東北人、ゲーテやシラーだった。ドイツ文学が西洋文学の中心になると、今度はさらに新しい東北文学が西洋文学に殴り込みをかける。もちろんロシア文学です。ロシアはドイツのさらに東北なんです。プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ。ロシアの文学者が次々に西洋で注目されていく。西洋文学の歴史は東北発見の歴史なんです。

文学だけじゃなく、美術も音楽もそうです。チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、バルトーク、コダーイ、ショスタコービッチ、ロシアや東欧の旋律が雪崩を打って入ってきます。

なぜ、人は東北という方位を強烈に感じるのだろうか。これを考えるだけでも、東北文学は可能だと思います。

縄文と言葉

最後に縄文について一言。

フランスの哲学者、デリダは著書『グラマトロジーについて』でアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』を参照文献として掲げています。邦訳もありますが、たいへん興味深い本です。なかでも面白いのは、文様はすべて暗誦された言語を示唆しているのだという指摘です。なぜなら、そこにはリズムがあるからです。土器や石器には文字はなくても模様がある。この模様こそ人間が反復して音声を出していた証拠だというのです。模様は言葉を記憶するためのものであり、記憶そのものだ。いずれ研究が進めば、そうした模様から言語を導き出すことが可能になるでしょう。

縄文土器の素晴らしさはその文様にあるわけですが、それは端的に彼らの言葉のリズムにほかならない。彼らの朗誦の声にほかならない。そう考えると、縄文土器こそが東北文学の濫觴だということになるではありませんか。ですから、もしも「東北文学は可能か」と問うなら、まず縄文の文様、縄文の言葉から考えていただきたい。

普遍的に考えるということは全体を満遍なく考えることではない。逆に、ある一点を鋭く深く掘り下げていくことなのです。深く掘り下げた一点から世界が開けるとき、人は普遍的な次元に出会うのです。

東北文学を考えるということも同じです。東北という一点を深く掘り下げてゆくと、西洋文学の発展の仕組みまでが分かってくる。音楽や美術はもちろんのこと、さらに始原的な舞踊のことまで分かってくる。ものを考えるとは、そういうふうに「鋭く深く」がある一点で「広く大きく」へと転じる点に出会うことだと思います。赤坂憲雄さんが創始した「東北学」の可能性は無限だと思います。心から期待しています。

                            2009年11月23日 於・東北芸術工科大学

三浦雅士〈みうら・まさし
1946年、青森県弘前市生まれ。文芸評論家。1969年、青土社創立とともに入社し、『ユリイカ』創刊に参画。『ユリイカ』『現代思想』の編集長を歴任。『メランコリーの水脈』でサントリー学芸賞、『身体の零度』で読売文学賞、『青春の終焉』で伊藤整賞などを受賞。1991年より新書館編集主幹、月刊「ダンスマガジン」を創刊する。近著に『出生の秘密』『漱石――母に愛されなかった息子』など。