活動報告

【公開講座】マグロ漁とクジラ・イルカ猟

二〇一一年一月一八日、「マグロ漁とクジラ・イルカ猟」と題した当センターの公開講座が開催された。講師は、立教大学教授で、北方の海獣狩猟民についての考古学研究が専門の山浦清氏および、当センター研究員で、日本近世(江戸時代)の漁村史が専門の中村只吾の二名であった。

本講座のチラシに記された、当センター教授安斎正人の挨拶文によれば、開催の趣旨は以下のとおりである。およそ一万一千年前、氷河時代の終焉にともない「縄紋海進」が起こった。海面上昇により列島各地に内湾が形成されると、縄紋人は海での生業に乗り出し、多くの貝塚を残した。そこからは、内湾に生息する魚以外に、マグロなどの回遊魚の骨、イルカの骨も出土している。さらには尖頭器やクジラ類の海獣骨も出ており、七千年前頃にクジラ猟が行われていたと推測されている。縄紋人の海獣猟、大型魚漁の伝統は、一万年の時を経て現在に続いているのである。現在、クジラ・イルカの捕獲の是非に関する国際的な論争、摩擦問題が生じている。マグロに関しても、その乱獲・絶滅が問題視されている。これらの問題を直視するためには、私たちの足元、それらの猟漁の伝統を知っておかねばならない。

当日は、最初に中村が「江戸時代のマグロ漁と人びとの暮らし」と題して、駿河湾の近世漁村を対象に、幕府役人が見た江戸時代のマグロ漁の村の様子、マグロ漁をめぐる村や地域の社会関係という観点から、若干の解説を行った。

続いて山浦氏が、「日本と世界の捕鯨の歴史」と題して、広く日本列島と欧米における前近代の捕鯨史および近代の捕鯨史について、豊富な事例とともに解説を行った。

本講座では、日本列島および世界において、過去、どのようにクジラ・イルカやマグロといった大型海洋生物と向き合ってきたのか、その一端が示されたわけである。その歴史はとても長く、深いものであった。それら大型海洋生物との付き合い方は、彼らに影響を与えるとともに、人間社会の仕組みや秩序をも規定してきた。

前近代までは、主に沿岸部での、人力に大きく頼った方法での小規模なクジラ・イルカ猟およびマグロ漁であった。しかし、近現代に至ってその様相は大きく変貌する。船や道具の機械化や大規模化、それらに伴う沖合・遠洋への進出という形で、技術・生産力は飛躍的に発展してゆく。それは乱獲へと結びつき、結果、クジラの枯渇を招いてしまった。そして近年では、そのような枯渇状況に、各国の文化的背景の違いという問題も重なって、猟の是非自体が問われている。マグロ漁についても、規制の動向がみられるようになっている。従来、日本の需用の大きさが目立っていたところに、近年では世界的な需用の高まりなどが重なり、乱獲へと至ってしまったためである。

右のような問題が生じてしまったのはなぜであろうか。もしかしたらその一端は、局所的合理性と包括的合理性の問題として説明が可能かもしれない。近現代の技術・生産力の発展は、確かに人間を経済的に豊かにしたであろう。ただし、それはあくまでも、どれだけ多く効率的に獲るか、という人間本位の合理性・効率性ばかりを追求したものである。そのような局所的な合理性に対して、包括的合理性とでも呼びうるものも存在する。例えば、日本のかつてのクジラ猟の村のなかには、クジラ供養といって、猟で犠牲となったクジラについて、位牌を設けるなどして手厚く供養する慣行が存在したところもあった。これは、クジラを単なる捕獲対象としての獲物や資源としてではなく、自分たちの生の一部を構成する重要な存在として、その死や死後にまで責任を持とうとする思考を示したものといえる。ここには、いかに多く、効率的に獲るかという局所的な合理性とは異なる合理性が存在しているといえる。かつては局所的な合理性を追求し、クジラを大量に捕獲していた、現在の反捕鯨国がいうような残酷なものではないのである。そこには、クジラを自分たちの地域の構成メンバーとして包含した思考が存在しているのである。

それに、里山は人間が手をかけなければかえって荒れてしまうのと同様、クジラについても適度な捕獲が生態系のバランス維持には有効という見方も最近では出ている。生産調整などという言葉にしてしまうと味気ないが、この考えの背景にも、人間以外の諸存在の存続をも包括的に視野に入れたバランス感覚がみてとれよう。
近現代のなにもかもが悪いというのではない。しかし、局所的な合理性の追求ばかりでは行き詰ってしまっているのが事実である。われわれの先祖のなかには、右のような包括的合理性やバランス感覚を持って生きていた人びとが存在した。今あらためて、それらの経験を掘り起こし、新たな形で活かしてゆくのは有効なことであろう。

「地球は人間だけのものではない」「多様性が大切だ」こうした言葉が、キャッチフレーズのような形で使われることはしばしばある。しかし、一体われわれのなかの何人が、これまでこの言葉と真に向き合ってきたであろうか。われわれはもはや、局所的な、人間本位の合理性・効率性ばかりを追求してブレーキなしに突き進むことの危うさを十分に学んでいるはずである。今後は、そこにどのようにうまくブレーキをかけながらゆけるのか。人間以外の諸存在をも考慮した包括的な合理性やバランス感覚を身に付けてゆけるのか。一万年前を振り返り、一万年先を見据えながら、考え、実践してゆく必要があろう。

                                  『まんだら』47号より転載

【参考文献】
秋道智彌「日本くじら物語」秋道・円満字二郎著『NHK知る楽 歴史は眠らない 2009年8‐9月』(日本放送出版協会、二〇〇九年)
小松正之『クジラと日本人』(青春出版社、二〇〇二年)
同  『よくわかるクジラ論争』(成山堂書店、二〇〇五年)
同  『日本の食卓から魚が消える日』(日本経済新聞出版社、二〇一〇年)
水産庁ホームページhttp://www.jfa.maff.go.jp
山口徹『沿岸漁業の歴史』(成山堂書店、二〇〇七年)