『朝が来るまでそばにいる』と授業第二週

 学生さんから定期的に聞かれることは、「暗い話を書きたいのですが、大丈夫なのでしょうか」という内容である。この質問はいくつかのポイントを内包していて、一つ目は別に何を書こうと問題はないという表面的な点である。もちろん商業出版であれば、手に取るお客さんのことを考える必要がある。どこを主戦場として発表していくかで変化していくので、一概には言えない。しかし商業流通でないならば、何をどうしようと別に問題ないではないか。

 二つ目のポイントとしては、そもそも自身の行動に他者の許可を得る必要はないという点である。推測でしかないが、既存の教育環境において規律正しくすることが指標とされてきたのではないだろうか。そのため規律を確認し、認識する必要が常に存在したのかもしれない。もちろん自分自身の能力に自信が持てず、常に他者の承認を必要としているのかもしれない。どちらにせよ、何をどうするかは皆さん自身の判断だし、何かに取り組んだ場合、その責任も自分自身で負っていくことになる。

 三つ目としてはそもそも教条的な内容への高い評価が背景に存在している可能性はある。話が暗かろうが何だろうが、物語は物語としての評価になっていくはずだ。とはいえ私もそうであったのだが、教師などから高い評価を得ていくためには、心地良い作文をパターン化して書くことを身体化する必要が存在する。要はお行儀のよい文章を書けば、良い点がもらえるということ。ただそれだけのことと簡単に考えることはできるのだが、その身体化された状態から変容するのは、なかなか大変であることも理解している。

 これらの点はもちろん個々人により違うだろうし、地域性や教育環境にも大きく依拠していくことでもある。要は何でもいいんだ。滔々と書いてきたが、そもそも「暗い」とは何だろうかという根本を考えたほうが良いのではないか。そう思って、「作品読解」の二回目では彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』から「かいぶつの名前」を取り上げた。

 誰もが心の中に何かしらの苦悩を抱えていると思う。その苦しさをただそのまま登場人物のセリフとして垂れ流したとしても、見知らぬ読み手には届きにくい。その苦しさは自身のものであることは間違いないのだが、それをどう見せるのかを考える必要がある。何よりその苦悩を精緻に把握できているかどうかは、客観的な認識能力が必要になってくるため一段階難しい作業になっていく。

 その意味で彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』は苦しみをただ苦しいと描かずに、死とからめながら再生への道筋に目を向けている。死を一面的には描かないがゆえに、死生の境界すら曖昧になってしまうかのような危うさと未経験の心地よさを読者に運んでくれる。その中で「かいぶつの名前」を取り上げたのは、「かいぶつ」を具体的にはどのように認識することができるのか。その認識の度合いを新入生の皆さんに理解して欲しいと思ったからである。

 とはいえそんな私自身の気持ちとは関係なく、授業第二週にして上手くペースがつかめず睡眠時間を削って仕事をしてしまった。なかなか教員生活も大変なもので、何年経っても生活リズムと順応させることの難しさを感じている。実績のあるプロ野球選手でも開幕からローテーションを守れずに負け続けるケースをたまに見るが、「これまでやってきたからできるだろ」などと軽々しく思ってはいけないと痛感した。たかだか寝不足でありながらも、心の中にいろいろと黒々としたものが沸き上がりそうになり、「これが『なまえのないかいぶつ』なのか」みたいな雰囲気でもあったが、幸いにもそのまま連休に突入したのである。