あいみょんの曲に「君はロックを聴かない」がある。一時期、よく聞いていて、「ロック」を「聴かない」という否定形なのが非常に心地よかった。別にロックに対し愛情も信仰もないのだが、それでも一つのジャンルを築き上げている概念に対して見事なタイトルだと思う。しかも、本人がインタビューなどで「青春の曲」と言うように、ロックを否定している曲ではない。むしろ、この歌詞の主人公はロックを聴いている。聴かないのは君なんだ。
胸の高鳴りを抑えきれず、何もできないけど自らのことを知って欲しい自分、ロックを聴いて欲しい自分。それぞれのロックンロールに自らを重ね合わせてきた、そういうアイデンティティを積極的に伝えることができない。それを「こんな歌」や「あんな歌」に乗せていこうとする姿勢。そのすべてが、ここぞというときにはいじらしいほど受け身であり、積極的に最後まで貫くことのできない勇気のなさを感じ取ってしまう。いや、いい。青春というのはそういうものだ。青春という枠組みの中にありながらも、学校や教室、部活、登下校という既存の中に属していかないものだってあると思う。深夜ラジオで聞いた曲を、そのあと何年経っても聞き続けたりするなんて思うわけないだろう? そのようなときに曲の力、歌詞の力は強大だなと思う。
「普通」という枠組みは非常に強固で、そこから外れてしまうと生きていくのが大変だと錯覚してしまう。そう思ってしまうは仕方のないことだし、別に非難されることではない。でも、そんな一面的な物事だけで世の中は成り立っていない。第六週のゼミで読んだ靴下ぬぎ子さんの『ソワレ学級』(徳間書店、全2巻)は、進学校でドロップアウトしてしまった主人公が定時制高校に入り直す物語である。自由に登校し、自由に行動をする。年齢もばらばらであれば、授業にきちんと出るかどうかも定まっていない(そりゃ、出るのが前提だが)。その姿勢に慣れていく過程のなか、主人公が電車内で中学校の同級生に会ったときに、双方が感じ取る気まずさが描かれる。ほんのわずかなシーンだし、それが主題であることもない。作品としては、その後、同級生の女子学生2名の関係性が中心に描かれていく。そう教室内の関係性なんか、この物語では無意味なんだ。本当に学校という枠組みの絶対性を、この作品は崩してくれている。
第六週の作品読解で取り上げたのは中田永一さんの「ファイアスターター湯川さん」(『私は存在が空気』祥伝社文庫、2018、所収)である。毎年、この授業の内容を一新するようにしているのだが、作品をかえても作家はそのままにすることもある。昨年は同じ短編集に収録されている「少年ジャンパー」を授業で取り上げた。この作品は教室内の関係性に疲弊した主人公が、超能力を手に入れることにより、大きな変化を起こしていく物語である。教室内の関係性から逸脱してしまった主人公は、その外で別の関係性に意味や意義を見出していく。どこかに属し、固定観念を抱き続けることは、決して間違っているわけではないが、そこから離れた存在・概念だって、世の中には存在している。「ファイアスターター湯川さん」の主人公も、必ずしも自らが社会的に属する大学生という価値観には縛られてはいない。
そのうち皆さんもあいみょんの曲を聞きながら、見えなかった部分や感じ取れなかった概念を理解できるときがくるかもしれない。願わくば大学生活の4年間で、そうなって欲しいけれども、そう上手くいかないことも知っている。自分がそうではなかったから。