第五週目はオープンキャンパスですべてが語りつくされる……ような気がするが、そのようなことはなく通常の授業も行っている。そのため疲労感は倍増する。普段は接することのない高校生の皆さんとオープンキャンパスという場で語ることは、新しい経験でもあるし、自分の半分ぐらいの年齢の人々が今は何を読み、何を見ているのかは興味深いところでもある。何より大勢の高校生の皆さんが文芸学科に足を運んでいただき、大変うれしい。そしてオープンキャンパスで意図せずしてよく聞かれるのは、「授業で漫画を取り上げているが、どのようなものか」というものと、さらにはその質問に地続きな感じで「最近のおすすめの漫画(もしくはアニメ)は何ですか」となる。
おすすめ問題はきわめて根深く、高校生が特別、数多く質問するわけではなく誰でも聞くことであるし、僕だって聞く。他者が何を考えているのかの入口として、作品やクリエーターの具体名を聞き出していく作業は別に非難されうるものではない。しかし、ひねくれてしまっている自分は「それを聞いてどうする。右から左に作品をすべて読んでいけばいいではないか」などと思ってしまうのである。これは主に「最近読んで面白かったのありますか?」とか質問してしまった自分自身に対しての疑問である。他者との会話の中で、自分に聞かれると何も考えずに答えていくので面倒くさい(なので嫌なわけではないので、今後も気にせず聞いて!)。
とはいえ、このおすすめ本に関して本質的にはどうでもいい。一番面倒なのは、玉井の存在でもなく(いや、面倒なんだけど)、授業の話と連続性をもって質問が登場するときである。「教員はおすすめ本を授業で使っているに違いない」という考えのことだ。この点がいかに違うのか、ということを以前のブログに書いたような気がするが、大事なことなので二回も三回も書こう。書いておこう。書くのだ。
大学の授業しかしたことがないので、それ以外はわからないのだが、基本的に学科内でも大きなカリキュラム構想の中で個々の授業内容が構築されている。より巨視的な見方をすると大学のディプロマポリシーの中で授業は作られていくのだが、それを個々の学科に落とし込み、さらに詳細を作りこんでいくのである。そして個々の授業に課せられた目標に合わせるかたちで、15回のうちの1回分の授業内容を考え、作っていく。その過程の中で、それぞれの意図(例えばキャラクター造形や物語構造、文体や書き出しなどなど)に合致する作品を取り上げているだけである。したがって、そこに教員の好みが反映されることは、皆さんが思っている以上にない。もちろん、ある程度は好きな作品・作家を取り上げるのだが、現実はそれだけではうまくいかないので、好きかどうかという基準で判断していない作品について考え、語ることになる。
私としてはこれまで触れてこなかった作家・作品について考えるのは、非常に面白く、授業を行っている自分自身の可能性を広げ続けることにつながっているのではないか、と思っている。だいたい一番好きな作品は、もう何度も読んだし、いろいろと考えているではないか。そこから広げるためには未知のものに手を伸ばすしかない。でも、ああ、ここで問題が起きてしまう。こう書いてしまうと、以降、授業で取り上げた作品に対して、この教員は好意的ではないかもしれないという疑惑を与えてしまうような気がしてならない。それは「好きな作品を取り上げている」という間違った解釈の対称でしかない。「授業では好きな作品を取り上げている」と「授業では嫌いな作品を取り上げている」は同位相的に間違っていることになる。
さて通常の授業でも漫画作品を取り上げることはあるのだが、毎週取り扱っているのはゼミである。第五週のゼミでは藤緒あいさんの「ビーフカツレツ」(『かわるがわる変わる』祥伝社、2017年、所収)を取り上げた。この作品が優れているのは、男性が女性に対してプロポーズをするという極めて単純なストーリーを重層的に描くことで、エンターテイメントとしての濃度を上げている点だと思う。レストランでプロポーズする男性と女性という存在があり、それを主軸に物語の展開自体は行われるのだが、その外枠として観察者である女性と男性(両方ともレストランのバイト)が存在する。この観察者が作品の主人公であり、そのことはコマ割りやビジュアルで明確に把握できるように設計されている。シンプルなストーリーラインを重層的に形作ることで、そして漫画的な設計を施すことで(だってプロポーズのシーンよりウェイターのほうがカメラが寄ってるんだよ)、読者が受け取る物語的な情報量が増幅していく。みたいなことを、もっと理論的に語ったりしている。
まじめに考えてはいるのだが、別に学会発表ではないので、かなりフランクにゼミ自体は進めている。それがいいのか悪いのかはわからないが、提示された作品に対する考え方の一つを提示しているだけであって、別にそれが絶対ではないし、学生側から別の読み方が提示されることもある。あとは参加する学生さん自身が、家に持って帰り、沈思黙考しているとき、そして自らの制作をする際に、どういかされていくのか、でしかない。