数をこなせば忘れます

 芸工大の文芸学科に寄贈するために、研究室で、ブックオフで求めた文庫解説本を整理していたら、あれれと思った。重松清『幼な子われらに生まれ』(幻冬舎文庫)の解説者が吉野仁なのである。え? なんで池上冬樹ではないの? と思った。ブックオフで買い求めるときに何故確認をしなかったのか。もう頭から自分が解説を書いた本と思いこんでいたのだろう。文庫本を見ながら、突然勘違いに気づいた。僕が担当したのは『ビフォア・ラン』(幻冬舎文庫)。重松さんのデビュー作であり、重松清文庫化第一弾だ。幻冬舎文庫ということで勘違いしていたのかもしれない。

 ある有名なシンガー・ソングライターが、こんなことをいっていたのを思い出す。「街なかの商店街を歩いていると音楽が流れてくる。あ、俺が作った曲だ! と一瞬思うんだけど、歌っているのは自分じゃないんだよね。俺の曲なのに、どうして俺が歌っていないんだろうと思う。それもたいていヒットしている曲なんだけど(笑)」

 オチはともかく、そういう錯覚もわからないではない。デビューして30年もたてば、作曲した数は数百を数えるだろう。短い曲をいれたら、1000近くいっているかもしれない。そうなると錯覚が起きる。似たような曲を聞いて、一瞬自分の作った曲と勘違いしてしまうのだ。

 逆に、自分の作品なのに、まったく自分の作品ではなく、人ごとのように愉しんでしまう場合もある。戦後を代表するベストセラー作家の森村誠一さんは、戦争小説&青春小説の傑作『ミッドウェイ』が4次文庫(版元を変えて4度目の文庫化)になるので、十数年ぶりに読み返したら夢中になってしまった(と編集者から聞いた)。そしてこう感じたという。「いやあ、この小説は面白いね!」

 森村誠一さんのご指名で僕が解説を担当することになり(ちなみに講談社文庫版である)、僕もゲラで読んだのだが、森村誠一さんの気持ちがよくわかった。これはものすごい傑作で、僕自身もゲラで読んでいてわくわくしてしまった。森村文学のでもベスト10に入る作品なのではないかと思う。ベストセラー作家が自分の小説であることを忘れて感動する理由もわかる。

 というと、自分の小説なのに、まるで人の作品のように感じるなんておかしいではないか・・と思われるかもしれないが、森村誠一さんはなんと420冊以上を上梓している。覚えられるわけがないだろう。

 実は、その3分の1にもみたない(それでも充分に多い)エンターテインメントのベテラン作家(いまや巨匠といってもいい)も、初期の名作が版元を変えて文庫化されたとき、実に久々に読み返した。きっかけは、僕が朝日新聞に書いた文庫本の書評である。「ツイストの連続」という表現をしたら、その作家も気になって文庫本を手にした。

「池上さん、おそるおそる読み返したら、なかなか面白くてさ、どういう結末になるのかと我ながらはらはらしましたよ」というので、「××さん、あの中盤の展開から結末まで実にスリリングだし、どんでん返しも効いているし、傑作ではないですか」といったら、「そうなんだよ、どうなるかと思ったら、うまい具合に結末が考えぬかれていて、いやあ感心しましたね(笑)」と完全に他人が書いたような感想を寄せている。

 これは特別なことではない。ほかの作家も同じようなことをいっている。次々に依頼がきて原稿を書いていると、前に書いた作品など読んでいる暇がない。実はこれは作家に限ったことではない。評論家にもいえる。

 エンターテインメント界のナンバーワンの文芸評論家といったら、これは誰がみても、北上次郎(目黒考二)だろう。北上さん(いや、僕は目黒さんとよんでいるので、以下目黒さんと書く)が書評集を編むことになり、ゲラで読んでいたら、自分が書いた書評のことも忘れて、この小説は面白そうだ、読みたくなったと感想を述べているほど。

 何を馬鹿なことをと思う人もいるかもしれないが、数をこなしていけば忘れるということです。読んだことを忘れて面白そうだ、という話は、よく目黒さんが書くけれど、そして僕も昔はそんなことは絶対にない! と思っていたけれど、僕も近年経験するようになった。

 仙台市鉤取(かぎとり)に萬葉堂というどでかい古本屋がある。神田の古本屋を数軒集めて、ジャンル別・アイウエオ順に並べ替えたような巨大な古本屋なので(ほとんど図書館ですね)、ついつい「ア」から順に眺めていって、ときどき、おおこれは面白そうだ! という本を発見する。本を手にして、ストーリー紹介を読み、後書きを読み、こういう本は絶対に自分の好みにあうし、こういう本を探していたのだとすら思って買い込む。

 ところがだ。家に帰って本棚を見ると、何とその本がある。あれ? と思って、本棚からとりだすと、頁の端が折ってある。頁の端が折ってあるということは、読んでいるということだ。読んでいるということは、ひょっとしたら書評もしたのではないかとスクラップブックを見ると、ちゃんと書評も書いてある(!)。まいったなあ、完全に忘れているよと思う。

 ただ、弁解させてもらえば、忘れている理由がわかる。忘れている本はたいてい「ミステリマガジン」(早川書房)の新刊レビューを担当した時期(1988年1月号~1996年3月号)の本である。毎月編集部から与えられた5冊を書評していたので、およそ500冊にのぼる(書評稼業30年、他紙誌の書評を入れたら5000冊はいっているかもしれない。それは忘れるよね?)。逆にいうと、自分から逆提案した本(新人の頃はできなかったが、ある程度売れてきた頃から「その本もいいかと思いますが、こちらのほうが面白いと思いますが、どうでしょう?」と提案した本)の書評は忘れない。

 数をこなせば忘れます。でも、数をこなせないとあがらないレベルもある。粗製濫造になって駄目になる場合もあるから、要注意ではあるけれど。