「全部後回しにしちゃいな」

 旅とは大きな虚無と向き合わなければならないような気がする。それが旅を好きな理由でもあり、嫌いな理由でもある。旅に出ると、自分という存在も含めて旅という行動自体に意味があるのかどうかわからなくなっていく。旅に意味があると考えること自体が自分に対する大いなる虚偽ではないだろうかとも考えてしまうのだ。移動し場所性に触発されることで感じる現在性とgoogleのストリートビューで観察したバーチャル性に上下関係なんてないのではないだろうか。その点もあり、私は旅番組が大好きで仕方ない。有吉くんの正直さんぽも(もちろん女子さんぽも)、太川・蛭子コンビのバスの旅も、ローカル路線聞き込み旅だって見てしまう。なんて面倒なやつだろうとお思いだろう。自分でもそう思うので、旅をしながらも自分を中心とした旅の意義性が重層化してくるのを感じている。その表層的な意味において「いやー旅はいいもんですねー」と言っているのである。

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 くるりに「ハイウェイ」という楽曲がある。「僕が旅に出る理由はだいたい百個くらいあって」という歌い出しで始まるこの曲は、その大きな虚無性を示唆している。旅に出る理由はつまり何でもよいのだ。他人に首根っこをつかまれてどこかに行くのでもよいし、疲れたから湯治を兼ねて行くのもよい。逃避としてもよいし、誰かを殴りに行く旅でもよい。そして「ハイウェイ」ではこうも歌われる。「僕には旅に出る理由なんて何ひとつない」。これがこの曲が名曲たる所以である。理由などあっても、なくても同義なのだ。

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 この週末は入学したばかりの一年生たちと研修旅行で、平泉と盛岡をめぐってきた。研修旅行は今のところ毎年のように行われており、新入生と教員・副手とでどこかの土地を訪れている。ただ、どこかにふらっと行くわけではなく、一年生の必修授業である「日本語表現基礎」の一環として取材の旅でもある。ぶらり旅をしたいのであれば、自分で行っていただきたい。どこかに行く理由も自由も皆さんにあるのだ。さておき学生たちは課題が事前に出されており、その課題のために盛岡に行くのである。もちろん新入生同士の親睦を兼ねてもいる。気乗りしないで参加したものもいるだろう。早速できた友人とともに行くことを楽しみにしていたものもいるだろう。盛岡という土地に興味津々であったものもいたかもしれない。行く理由はもちろん授業の課題であるのだが、その前提はどうでもいい。

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 実は旅の醍醐味は数年後でも5年後でも10年後でもいいのだが、再度、行ったときにあるのではないかと思うようになった。最初は内発的な理由で旅をしていなくとも、再度、訪れたときに、その土地の歴史や社会を立体的に見出すことができるのかもしれない。物事は多面的である。一度だけでは空虚に見える場所や事象であっても、思い出という記憶というポイントが脳内に刺さった状態で行くと違うものが見えるかもしれない。しかし、これもどうでもいいこと。旅に出る理由なんて何ひとつないのだ。

BGM:くるり「ハイウェイ」

ジョゼと虎と魚たち(Oirginal Sound Track)