四月はこれまでになく異様に忙しかった。季節の変わり目による体に重く圧し掛かる負荷と例年より早めた研修旅行による疲労とで、連休の合間に存在する平日は東京の自宅でダウンしていた。今年、東北芸術工科大学は連休に次ぐ連休なのである。平日も休みなのだ。学生の皆さんも遊びに課題に、そして文芸ラジオ編集部は仕事にと忙しく飛び回っているであろう。しかし、私は「レン・キュウ(薬師丸ひろ子風に)」という甘美な響きを脳内でもてあそぶ余裕などなく寝転がっていたのである。それにしても東京は暖かい。この暖かさが次第に体をほぐしていくのを心地よく感じている。あたたかい(カールビンソン風に)。
その忙しさに拍車をかけているのが、授業準備である。もう3年目なのだから、これまでの蓄積で話をすればよいではないか、と思うであろう。私だって楽できるところは楽したい。人間なのだからそこは当然である。しかし、受講する学生は毎年かわるし、世間の動向だってかわっていく。その中で同じものを九官鳥のように垂れ流していくことに納得ができない。作品読解・表現論という授業がある。以前にも書いたが通称「選」と呼ばれる授業で教員がセレクトした短編を毎週、講読していく授業である。これは15回分全て変更している。そのとき、そのときの私の興味関心と世間で発表された作品群とで授業内容は有機的に変化していく。もう一つ大幅に変えたのは創作演習1である。これは複数の教員で回しているのだが、私が主担当の回は昨年とは90%以上変わっている。そのためには様々な本を買い、読み、買い、読み、自分で咀嚼し、授業で喋るということをしている。
教員としては当然のことなので、特に同情を買おうとしているわけではない。その創作演習の後期では書評や評論を取り扱っていく授業内容へと変化していくのだが、毎年、閉口する文章があがってくる。「ぜひ、一度は手に取ってください」、「本屋で見かけたら気にかけて欲しい」、「時間があれば一読して欲しい」という言葉で必ず締めくくられるのである。初年度、この一文が最後に書かれている課題をたくさん読んでしまい、「絶対にこの本を読んでなんかやらないぞ」と誓ったのだが、学生が書評で取り上げる本は全部読んでいたので、その誓いすら成立しなかった。今年は初回の授業でこのような内容は必要ないと公言したので減ることであろう。もし書くのであれば、その一文に意味のある文章構成を取ってほしい。
おそらくはこの一文を入れてしまう背景にはコミュニケーション過多があるのではないだろうか。もしくはコミュニケーションに過敏になっているのかもしれない。土井隆義さんの『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』(岩波書店、2009年)を読むとわかるが、今の学生たちは高校までに存在するクラス内におけるカースト的な関係性を経験するとともに、その階層内の人間関係においていわゆる「空気を読む」という訓練を自然と身につけている。そしてその「空気を読む」ために活用されるのが、自らのキャラ化である。書評の授業というのは、否応もなく取り上げた作品により個々人の感性が他者に知れ渡ってしまうことになる。その際、暴走して、よくわからない作品を取り上げているわけではなく、読み手のあなた(というか、学科内の学生)にも気を使っていますよというサインとして語尾に読者への問いかけを書いているのである。違うかもしれないが、どちらにせよ、読者への挑戦はクイーンぐらいにしてほしいものである。
何だか愚痴っぽくなってしまった。玉井の愚痴などどうでもよくて、この連休は本屋に行き、本や雑誌を買いましょう。そこには店員さんが、ぜひ手に取ってほしいと思っている新刊があります(読み手への気遣いを真似てみた)。具体的には石川忠司『吉田松陰 天皇の原像』という本が4月に出ています(石川先生にも気を使ってみた)。解説は山川健一さんです(山川先生にも気を使っている)。