斉藤ゆう『月曜日は2限から』を読む

 ヤンキーという存在は基本的に私自身とは相容れないものであろう。自己認識としてはオタクであり研究者であるという自分自身は、対極に位置しているように思える。いや、いったい、軸がどこにあるのかわからないのに「対極」とは何かという話である。「オタクであり研究者」が存在するのであれば、「ヤンキーであり研究者」が存在していたっておかしくはない。とはいえ、70年代・80年代においては悪趣味ともいえるヤンキー文化は社会的な制度から外れた存在として、少なくとも研究上では無視される傾向にあった。社会的にはどうだろう。無視というよりは迷惑な存在として異端視されていたかもしれない。しかしながらゼロ年代後半から社会学を中心としてヤンキー文化は研究対象として取り上げられるようになっている(たとえば五十嵐太郎『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年)。

ヤンキー文化論序説

 社会学の動向を肌で感じているわけではないので、個人的な感慨にしかならないが、この理由の一つとしてはヤンキー文化が隆盛していたときから時間的経過が出来上がったことで、研究対象として冷静に距離感を取ることができるようになったのかもしれない。実際に私自身は漫画などで描かれるヤンキーを実際に目にする機会はないまま今まで生きてきている。これは偶然なのか、それともヤンキー自体がファンタジー的な存在としてフィクション化してしまったのだろうか。もう一つの理由として想定されうるのは、ヤンキー文化自体が普遍化されてしまったことである。いわゆるマイルドヤンキー論にもつながるかもしれないが、ヤンキー的なものが我々の周囲にも数多く存在し、生活の中に溶け込んでいるという論点である(たとえば斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』角川書店、2012年)。街を歩くだけで、EXILEが流れていることを想定してもらえばいいのかもしれない。曲を意識して聞いたことはないが、恐らく私自身も耳にしたことぐらいはあるだろう。オカザイルの影響かもしれない。まあ、ヤンキーと同様にオタクだって普遍化してしまったので、結局、同じ領域に所属しているのだ。ということは対極ではないのか。

世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析 (角川文庫)

 理由などはどうでもいいのだが、相容れないとは思いながらも、じりじりと興味関心を持ってしまう。具体的にはヤンキーど真ん中な作品には全く興味が持てないが、「もしかしてヤンキー文化?」という作品にはふわふわと惹かれていく。気づいたら、もうヤンキー的な側面など一切ない作品なのに自分の中の分析官が「ヤンキーかもしれません」と冷静に告げているのである。実際に漫画に載っているようなヤンキーに喧嘩を売られたら、もうダメっす、まじダメっす、となるに決まっているにも関わらずである。やはりヤンキー的文化が周辺領域にも、下手したらオタク文化にだって浸食しており、私自身もじりじりと気になっているのかもしれない。そもそもヤンキーとは「自己存在の強烈な主張、権威や常識・既成概念に対する反骨精神、融通無碍で自由な編集性」とされている(鞆の津ミュージアム監修『ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現』フィルムアート社、2014年)。

ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現

 体制への反抗的精神というものは、読者としてオタクである自分自身は抱くことのできない、もしくは抱くには悩みの大きい心理的側面である。スクールカーストの最下部もしくは埒外に所属するオタクというのは、その精神性から体制下の中で上部に向かって反抗していくことの無意味さを感じ取っているのかもしれない。しかし漫画やアニメの登場人物たちは軽く、そこを越えていく。斉藤ゆうの『月曜日は2限から』で描かれているヒロイン咲野瑞季は校則を無視し、金髪で私服、遅刻常習犯と高校生ながらすでに社会的生活を送ることはできていない。このヒロインに振り回される主人公居村草輔と、さらには風紀委員長である吉原依智子の3人で物語は少しずつ進んでいく。ヒロインの自由闊達な行動により物語自体はスピーディーさがあるにも関わらず、主人公とヒロインの関係性は緩やかな変化として描かれている。その落差とともに、やはり個人的に気になるのはヒロインが学校という枠から外れているにも関わらず、溌剌としている点である。時として憧れすら感じてしまう。

月曜日は2限から 1 (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

 同じような憧れを感じ取ったのは、小原愼司の『菫画報』という作品である。主人公のスミレは高校の新聞部で活動しながらも、喫煙常習犯であり、大ざっぱな性格からまともな高校生活を送っているようには見えない。彼女を陰日向と支えていく……というより犬のように付き添っていくのは万能高校生である上小路鉱二であるが、彼の不憫さは置いておこう。彼女らに共通するのは、学校という社会的な存在が規定したルールに対し、自らの行動規範を優先していくことに躊躇しないことである。それに対し表面上は真面目系クズであったオタクである私などは、作り上げられたレールから外れていくことの恐怖感が全てを優先してしまうのである。そのレールの上を歩んでいくこと自体の大変さだってわかっているのだが、フィクション上ではレールから華麗に外れることに憧れていく。ヤンキー的な概念が普遍化されているという論点は、規律から外れていくことが一つの指標であり思想の発動であった時代とは違い、規律からの逸脱自体に意味を見出すのではなく別の事象に自らを置く強さを体現しているのかもしれない。彼女らの行動を漫画として読んでいるとそう思えてくるし、そうであるがゆえの憧れでもある。

 とはいえ、これはフィクション内での話である。現実世界で社会性のない人を見ると男女問わず幻滅しているので悪しからず。現実世界ではルールを越えてみたら、その先には別のルールが存在するか、もしくは抜け出したと思いきやルールに縛られたままであったりする。現実は厳しい。やはり物語では、ヒロインが主人公が見事にさらりとリアリティなど越えてくれないとね。

菫画報(1) (アフタヌーンコミックス)