対象との距離感は当然ながら人によって違ってくるものではある。その違いをどのようにしてクリアにしていくか、もしくはしなくてもよいと考えるのかは大きな問題かもしれない。ということを松井雪子の『ぐうたら山暮らし』(イースト・プレス、2013年)を読みながら思っていた。この後書き部分では、編集から単行本タイトルとして「ぐうたら山暮らし」を提案された作者が「自分では山の厳しい自然とたたかっている」内容と認識していたと述懐している。この差異は非常に面白く、印象に残った。
作品は作者の体験記で、冬は雪に埋もれる土地で山小屋というかロッヂ(というのか?)で生活をした日々の出来事がつづられている。町内の温泉に毎日のように通い、自家栽培で野菜を作り、薪ストーブ用の燃料を作り、近所との持ちつ持たれつの関係を維持していく。読者である私自身にとっては、描かれるすべての事象が遠い距離感の感じるものとして消化されている。要は経験のない出来事であり、剣と魔法の世界を体験しているのと認識的には大差ない。しかし、最近、山形に来て初めて雪というものを経験してしまったので、その距離感が変化してしまい困惑しているのも、また事実である。
読者の延長線上には存在している編集側も同様に思ったのであろう。日々の生活や自然環境の厳しさは遠くに追いやられて、その根幹に位置するところを「ぐうたら」という四文字で掬い取ろうとしたのである。ただエッセイ漫画ではあるが、やはりノンフィクション形態ではない以上、フィクションとしての作品構成は行われているであろう。嫌な面や厳しい面は自然環境だけではなく社会環境も含めて多くの点で存在しているはずだ。しかし、そこだけを描くことなく、フィクションとしていかに描いていくのかを考えた際に、ピックアップ(もしくは排除)していった要素や採用した物語の起伏をつき合わせて、できたのが作品である。
文芸学科は長期休暇にも課題を出している。自分自身が大学生のとき課題は自分自身で見つけて取り組んでいくものだったので、教員から課せられるとなると時代は変化したものだと思う。思うだけで、課題提示をやめるわけではない。そのなかで一年生向けの必修授業で、担当教員それぞれが推薦した新書や一般向け研究書をレビューし、同様に推薦した映画作品をレビューするというものがある。そこで私が今年選んだ映画作品は「その街のこども 劇場版」、「リトル・フォレスト 夏/秋 冬/春」、「転々」である。去年が「幕末太陽傳」、「隠し砦の三悪人」「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」だったので、この変わり様は何だという感じである。
去年は好きな時代映画(であり諸々のアニメなどのエンタメ作品の元ネタ)という選定基準だったが、今年は物語の抑揚を読み取って欲しいという意図がある。「その街のこども」や「転々」はロードムービー風ではあるが、会話だけで物語を動かしていくことをしている。これは簡単そうに見えて、非常に難しい。別に「けいおん!」や「たまこラブストーリー」でもよかったのだが、それは別の読み取り方をされそうであったので脳内会議の結果、却下した。「リトル・フォレスト」の原作は五十嵐大介の漫画作品になる。何度も読み返しているので五十嵐作品の中で一番好きかもしれない。世界を描くのに遠い別世界を構築する必要はない、ということをシンプルにこの作品は教えてくれるからだ。この『リトル・フォレスト』も私にとっては距離感の大きい世界を描いている。しかし、その距離感を同じように受け取ろうとする必要はない。
夏季休暇も残り1週間を切っている。まだ課題に手を付けていない学生はただやらされているだけ、という感覚を捨てて、自分自身の活動に活かしていくにはどうしたらよいのかを考えていこう。森羅万象、すべてが血肉になる。
BGM:FLOWER FLOWER「夏」