「そんな風に僕ら踊っていられる?」

 なかなかに難しい。と最近、思うことがある。今年の後期に入り、文芸学科ではない別の学科や全学科参加の授業にゲストスピーカーとして参加する機会が数回あった。これは例年にない頻度なので得難い経験ではあるが、その際、終了後に話しかけてくる学生や、twitterでのつぶやきを見る限り、参加した学生の中には私が話をした内容とは正反対の解釈をしている人がいることに気づいたのである(もちろん全員というわけではないので安心していただきたい)。こうなってしまうのは、いくつかの理由があるのであろう。一つには私の話し方がまずい場合である。基本的に早口で説明してしまうために、話題が次の展開、次の展開と進んでしまうと聞き手の脳内では修正処理されないまま授業が終了してしまうことになる。これを直そうと思い、最近はゆっくり話すように心がけているが、生来のスピードはそう簡単にはかえられない。

 これに付随するかもしれないが、内容面においても背景とする考え方などを理解していないと話についていけない場合もある。通常の15回の授業であれば、数回分を使って、説明したりすることはできるのだが、いかんせん1回で終わってしまう特別授業の場合はそうもいかない。すべてを説明していると当然、1回におさめることはできないので、飛ばしてしまう。今回も最後に「皆さん、図書館にある本をたくさん読みましょう」と言ったのは、その点も加味しているのだが、裏返せば1回で過不足なく話をしろということになる。日々、勉強である。

 さてここからは聞き手側の姿勢であるが、話されている内容をいかにしてメモを取るのかというのは、一つのスキルでもある。言っている内容をそのままテープ起こしのように書いていくことは、人間のスキルとしてほぼできない(速記術ぐらいしかない)。したがって語り手のしゃべっている内容を的確に変換し、それをノートに書いていくということになるが、例えば私が「朝食というのは白いご飯を炊いたものに、みそ汁と、ああ、みそ汁の具はですね……」みたいに話し始めた場合、ノートには「朝食は和食派」と端的に書けば良い。しかし、「白飯」に「みそ汁」にと単語だけ列挙していった際、あとから見返して「言いたいこと」を未来の自分が理解できるかどうかは難しいかもしれない。つまりここで「言いたいこと」が単に「和食」であった場合、その中身の詳細な情報は重要でなくなる。そして、私がよくやるのは、話し終わった最後に刹那的に「ま、そうはいっても、そんな食事をしたことがなく、クッキーとかが一番なんですけどね」とひっくり返す手法である。詳細な情報をメモっていた場合、「白飯、みそ汁、クッキー」とだけ列挙されてしまい、後から見返すと意味が分からないことになりうるのだ。

 もっと普通に話せよということなので、やはり私が反省すべき点ではあるが、ノートの取り方というのは千差万別であり、それなりにスキルが必要なものである。壇上から見ていると全くメモらない人もいるので、テストの時どうするのだろうかと心配してしまうが、まあ自分で管理しているのであろう。何より他学科の学生さんだと「その解釈は違う」と指摘する機会はないのである。どれだけ違う内容のことをtwitterでつぶやかれようとも、基本的には干渉しないので、真逆の理解のまま時間が経過していくのである。そしてTwitterでつぶやいてもみられることもないだろうという精神状況と、それに対しわざわざブログで書く意地汚さがここに同時に存在している。というより私の性格の悪さが際立っている。その点も含めて、今年最後の反省点である。皆さん、よいお年を。

BGM:ねごと「DANCER IN THE HANABIRA」