これが年を重ねたということか、と思うことが多くなっているのだが、その一つとして学校を舞台とした作品に対する興味関心が薄れていることが挙げられる。現在地からの時間的距離感が生まれてしまうことによるものだろうとは思う。もちろん嫌いになったわけではないし、学園ものが発売されたところで別にそれを理由に忌避することもないのだが、ただそれだけで魅力的に思えるほどではなくなっている。物語のパターンや空間に既視感が生まれてしまうことは致し方ないとはいえ、そもそも学校という空間に期待なんかしていないからではないかと自問自答をしたりもしている。教育空間に身を置いているというのに。そのため連休になり積読を崩そうとして、ようやく高松美咲さんの『スキップとローファー』(講談社)を手に取ることになった。
連休とは良いもので、たまっている仕事に取り組むことに注力できるようになるし、自然と睡眠と読書の時間も取れるようになる。10連休だろうと5連休だろうと何でも良いのだが、連休は素晴らしい。連休に長いも短いもない。長くて休めない人は休み方を知らないだけで、ダラダラ過ごしてしまうのではないだろうか。本を読もう。なんでも読もう。そのぐらいのおおらかな気持ちで、連休中に『スキップとローファー』を読み始めた。正直に書こう。読む前は、そして物語の冒頭までは「また、この手の話か」と思っていたが、読後感は最高であった。「SFじゃないのか」と思ってすみません(前作『カナリアたちの舟』は素晴らしきSF作品だった)。
物語は過疎地域で育った女子学生が、進学した高校で経験したことのない人間関係や社会状況に身を置いていくものである。何が良いのかというと、主人公を筆頭にそれぞれのキャラクターが重層的に描かれている点である。主人公が通っていた中学校では生徒が8名しかおらず、人間関係で悩む・悩まない以前にコミュニケーションが可能であった状況から、大きく環境が転換していく。それに悩むという単純な話ではないのが、非常に良い。一つ一つを新鮮に感じ取り、直球で味わっていく彼女は決して魅力的な人間ではないかもしれないし、クラスメイトであったとしても特に友達にはならないかもしれない。これは経験値の低さが、他者から魅力的に受け取られるかどうか、という問題である。
ただし彼女は物事に天真爛漫に取り組んでいくわけではない。きちんと悩み、考え、行動している。それは既存の教室内の関係性で構築されうる行動原理にからめとられていないことを意味している。その点において魅力的であるし、極めて危ういともいえる。教室の関係性というのは、高校生までの(もしかしたら一部の大学生の)視野や認識範囲では非常に強固に思えるのかもしれない。しかし、その範囲の狭さを認識するには外部からの指摘が非常に有用だし、さらにはその狭さの中で出来得ることがまだまだ存在することも理解できる。決して、その狭さはくだらないものでも唾棄するだけのものでもない。
ということを、つらつらと考えているうちに連休はあっという間に過ぎ去ってしまった。具体的には東京の自宅にいたのに溜めてしまっていた作業をこなして、体調を整えているうちに過ぎ去ってしまった。あまり本が読めなかったので、もっと読書スピードを上げていきたいものである。