日本経済新聞(7月16日朝刊)に『文芸ラジオ』が取り上げられました。文化欄の「地域発の文芸誌 書き手を発掘」という記事に『アルテリ』、『たべるのがおそい』とともに大学発そして東北発の文芸誌として『文芸ラジオ』が挙げられています。池田雄一編集長の顔写真・コメントとともに玉井副編集長のコメントも掲載されています。
(2016年7月25日追記)webでも記事が公開されました。ぜひ、ご一読ください。地域発文芸誌、書き手を発掘 手作り感・商業性両立
日本経済新聞(7月16日朝刊)に『文芸ラジオ』が取り上げられました。文化欄の「地域発の文芸誌 書き手を発掘」という記事に『アルテリ』、『たべるのがおそい』とともに大学発そして東北発の文芸誌として『文芸ラジオ』が挙げられています。池田雄一編集長の顔写真・コメントとともに玉井副編集長のコメントも掲載されています。
(2016年7月25日追記)webでも記事が公開されました。ぜひ、ご一読ください。地域発文芸誌、書き手を発掘 手作り感・商業性両立
私はこの町に住んでいる。駅の向こう側に本屋があり、こちら側にも本屋がある。品揃えが少し違う、というかプッシュしている本の違いなのか、目につくものが違うので、どちらにも足を運ぶ。図書館もあるため、書籍という情報のフローと集積が同時に行われていく。半径数百メートルの世界である。雑貨屋もいくつかあり、よくわからないものも並んでいるし、レンタルショップは2軒ある。昔はパチンコ屋がいくつかあったのだが、もうパチンコをする若者もおらず、次々と閉店している。跡地にはコンビニが入った。東京の町は駅を中心に形成されており、その中である程度は完結できるようになっているが、時たま隣駅まで10分ほどかけて歩いて行ってみる。古本屋があり、品揃えがそろそろ変わったかなと思うと足を運んでみる。コーヒー屋は何軒あるのかわからない。
それでも移り変わりが激しいのが東京で、大学の仕事で1か月ほど開けてしまうと、店がかわっていたりする。ペットショップになったり、からあげ専門店になったり、弁当屋になったり、ラーメン屋になったり、またコーヒーショップだったりする。開店して数か月のパン屋が情報誌に「地元の人が愛するパン屋!」のように書かれているのは、さすがに苦笑するしかない。でも、時々行くから嫌いではない。好きなのかはわからないけれども。この町を舞台にした作品が山うたの『兎が二匹』である。
コンテンツツーリズムという概念がある。様々な形態の物語が人を動かし、特定の場所に足を向く観光的現象のことを指し示す。漫画やアニメ、ゲーム、小説、映画、歌など多くの物語が人々を動かしていく。その舞台となった場所を見たいという受容者の気持ちが、そして行動が一つの現象として概念化されていくわけである。それぞれ媒体としてのメディアが違うので、アニメと前近代の歌枕を直接的に繋げることの難しさはあるとは思っているが、古くは和歌から最近のアニメに至るまで多くのコンテンツツーリズムが存在していることは間違いない。なお、入門書としては岡本健編『コンテンツツーリズム研究』(福村出版、2015年)がおすすめである。何せ、私も3項目を執筆しているのだ。
観光的現象は様々な研究アプローチが可能であろう。経済効果であったり、社会的構造を解き明かしたり、歴史的経緯や地理的環境を考えたりと思いついたことを書き連ねるだけでも、多様性を帯びた概念であることがわかる。そして、これらは舞台となった土地を中心として重層性と複数性が同居していることを示唆しているわけだが、土地だけではなく訪れる人々の認識も同様ではないだろうか。さらには土地と人との間も、一面的ではない。ということを自ら住む町を舞台にした作品『兎が二匹』を読んだときに、つらつらと考えていた。
とはいえ、この感覚は個人性に結びついており、作品に対する評価とは別の話である。すでに描かれていた一つの短編を元に連載されたと後書きのような場所にある「作品解説」に書かれている。恐らくは第一話がその短編であろう。そして、その一話で物語が決してしまい、2話以降は回想へと至る。物語の進め方が非常に難しい中で、2巻全9話という短い物語をいかに終わらせるかに苦慮した(のかもしれない)この作品は称賛すべきかもしれない。そして死という絶望の中で、希望と、その希望すら絶望を伴うかもしれないラストは見事であった。
さて舞台性とはあまり関係のない『文芸ラジオ』2号は引き続き発売中である。ぜひお買い求めいただきたい。以上、池上彰の選挙番組を見ながらのブログ更新であった。
BGM:センチメンタル・バス「アヒル」
既に発表されております「第1回文芸ラジオ新人賞」ですが、審査員の講評を公開いたします。第2回文芸ラジオ新人賞への応募の一つの指標にしてください。
イノベーション(innovation)というのは元はヨーゼフ・シュンペーターによる経済学の用語であるが、この頃は一般的に使われるようになった。ただ「進歩」という意味だと勘違いしている人が多い。本来は「結合」という意味である。受賞作の丸山千耀氏の『星屑のブロンシュ』には、イノベーションがある。純文学と童話とファンタジーと、彼女自身の幼い日の記憶の「結合」があり、そのことにより、新しい世界を切り拓くことに成功している。後は例えば「ブロンシュ」という存在を、ユングの言う集合的無意識の層に届くまで深めていってほしい。
吉川敦氏の『須弥山としゅみせん』は奇妙な、そう言ってよければトボけた魅力のある作品である。そのトボけた世界を何かエネルギーのある世界に「結合」できれば、新しい地平へ出られるのではないかと思う。ふくらませた風船は弱い箇所から爆発する。そういう小説を書いてほしい。
蒔田あお氏の『フェイス・トゥ・フェイス』はよくまとまってはいるが、やはり別の世界との衝突が必要であるような気がする。
文学も経済も、もはやイノベーションの向こう側にしか可能性はないのだと、今のぼくは痛切に感じている。
手法の斬新さでもテーマでも文章力でも世界観でもなんでもいい、一点でも図抜けていれば、受賞作に推したい。そう考えていたが、残念ながら、推したい作品はなかった。
小説としてのまとまりが比較的良かったのは、蒔田あお氏の『フェイス・トゥ・フェイス』だ。文章は安定している。が、ストーリー展開の強引さをカバーするだけの力はない。小説としての形を整えることではなく、破綻を怖れず、個性を強烈に発揮することに力を注いでもらいたいと思う。
受賞作は丸山千耀氏の『星屑のブロンシュ』だが、この作品の良さが私にはまったくわからなかった。最大の問題は、書き手と作中の「私」の距離が確保されていないことだ。この撞着によって、小説世界は、「私」=書き手の内的世界となる。客観的な視線など導入のしようがない。無邪気なままごと、あるいは、箱庭療法のロールプレイング的世界が無批判に繰り広げられるだけだ。
作者にはこの作品で満足せず、自分の慣れ親しんだ箱庭的世界を放棄して、現実としっかり向き合い、勇気を出して新しい小説世界の構築に挑戦して欲しい。この受賞が飛躍のきっかけになることを切に願っています。
まず『須弥山としゅみせん』だが、ひとつのモチーフでおしていくため、モノローグに陥ってしまっている。『フェイス・トゥ・フェイス』には、フィクションを創ろうという意思がみられるが、新人に必要であるはずの野心が決定的に欠けている。
『星屑のブロンシュ』は評価が割れた。とくに最後の展開がご都合主義的なのか否かで解釈の違いがみられた。ただ野心的な作品であることは間違いなく、最後は読者の判断に委ねることで作者の賭けにのることにした。
気付いたら7月になっていた。いや、嘘である。私だって暦ぐらいは読めるのだ。カレンダーだって眺めるのだ。7月になっていること、時間がいつの間にかに過ぎ去っていることから目を背けようとしているだけである。何より毎週、楽しみにしていた『重版出来』と『トットてれび』が終わり、いくつかのアニメも同様に終わっている。そう改変期を迎えているということは、もう7月なのである。7月になると学生も教員も目の前に具現化してきている夏休みという響きに心躍らせ始める。夏休みに読みたい本と書きたい原稿、書かなければならない原稿と盛り沢山である。大変素晴らしい。早く来ないのだろうか。その点、6月は真逆で、1か月もの間、連休がない。夏休みはまだ遠く、手の届かない存在のように思えてしまう。そのためか学生たちもぼちぼち休み始めるようになる。
私自身は五月病にかかったことがないので、体感的に連休明けに休みたくなるということが分からない。そして昨今の学生さんは、私が大学生であった90年代後半から2000年代と比べても非常に真面目に授業に出席をしているように思える。そもそも教員が時間通りに授業に来ること自体、昔には考えられなかった。私が大学生だったとき、大学教員は15分平均で遅刻し、15分程度早めに終わるので、中身は60分ぐらいしかなかったものである。今は時間通りに来て、時間通りに終わるようにしており、それが当然となっている。さておき、5月の連休が明けたところで出席する学生の数は減らない。減り始めるのは6月に入ってからである。
シギサワカヤに『九月病』という作品がある。夏でもない、秋でもない9月という時間に起きる恋愛模様を描いた作品だが、これを読んだとき、毎月、何かしらの病気があってもよいのではないかと思ったものである(作品本編とは関係のない感想)。したがって、6月に休むのは六月病としてしまってもよいかもしれない。季節の変わり目で体調を崩しているのかもしれないし、梅雨に入って気分が優れなくて休んだのかもしれないし、新年度から2か月ぐらいは気合で乗り切っていたが、もうそれが尽きようとしているのかもしれない。そのことに関して、特に咎めようとは思わない。もしかしたら、旅に出ないといけない衝動が起こり、作家として一つの転機をその旅で得られるかもしれない。新人賞の締め切りが重なって、授業に来る時間などなく原稿を書いているのかもしれない。
1年生の必修授業で『日本語表現基礎』というものがあるのだが、先日、他の先生から「いやー、玉井さん、1年生の原稿をばっさばっさと切っているらしいですね」と言われてしまった。正直なところ、wikipediaやニコニコ大百科、pixiv百科事典、naverまとめのコピペで書かれたものを右から左に切っていただけである。せっかく文芸学科に入ったのだ。コピペではなく自分の文章で勝負しようぜ。そしてもう一つ言っておこう。入学したての1年生だから、一つ一つ指摘していただけであって、2年生以上にはあまり強くは言わない。さらには同じく2年生以上には課題を出さなくても、強くは言わない。課題は一つの目安でしかなく、自分自身の目標があり、それに向かうために何をすべきかは自分自身で考える必要がある。もう子供ではないのだ。課題を出さず、かといって何もしていない学生には哀れみの視線を与えている。とやかく言わないことは優しいと捉えるかもしれないが、一番、厳しいのである。したがって課題を出さない学生に厳しく指導している他の先生方は優しいなと思って見ている(一応、書いておくと出してきた課題はきちんと読んでいるし、コメントもしているし、課題提出の催促もしている)。
もう7月に入った。2016年度前期の授業も終わりが見えようとしている。様々な授業で最終課題が提示されるようになるだろう。六月病にかかってしまった皆さんも、特にかかっていない皆さんも、気を抜かずに走り抜けて欲しい。夏はもうすぐ。
そして季節は関係なく読める『文芸ラジオ』2号の宣伝タイムである。まだまだ絶賛発売中であります!
BGM:THE YELLOW MONKEY『楽園』
芸工大前のヤキトリ四丁目さんの駐車場をお借りして、BOOK TRUCKさん販売開始です!
文芸学科1期生の大久保開(おおくぼ・ひらく)くんが、第5回集英社みらい文庫大賞の優秀賞を受賞しました。
集英社みらい文庫は小学生&中学生を対象とした児童文学のシリーズで、みらい文庫大賞はその新人賞となります。
受賞作品のタイトルは「青に叫べよ」です。
大久保開くん、おめでとうございます!
今週6月30日(木)、メディアで話題の移動式本屋「BOOK TRUCK」が本学に来校し、販売デモンストレーションと、運営者の三田修平さんによる特別講義を開催します。
学部・学科・コース、学年を問わず、全学を対象としたイベントですので、皆様、お誘い合わせの上、ご参加ください。
POPEYE BLOG「BOOK TRUCK」記事
http://blog.magazineworld.jp/popeyeblog/23616/
記
文芸学科イベント 移動式本屋「BOOK TRUCK」が芸工大にやってくる。
【日時】
2016年6月30日(木)
11:00〜13:00 販売デモンストレーション(学生会館前駐車場にて)
14:00〜15:00 期間限定開店(芸工大前の「ヤキトリ四丁目」駐車場にて)
15:30〜16:50 特別講義(本館207講義室にて)
【対象】全学生対象 申込不要
【詳細お問い合わせ】
文芸学科講師 野上勇人
大学生のとき、私は大学教員のweb日記(まだブログではない)を読むのが日課であった。大学の授業での取り組みや論文の内容、会議の話などはどうでもよく、日々の考えや生活を垣間見ることのほうが面白かったのである。そのなかでも淡々と更新していた森博嗣のweb日記は私個人として毎日見るのにちょうどよく、数年間はひたすら読んでいた記憶がある。森氏は朝に昼に夜にと更新していくので、私も更新に合わせるようにアクセスしていた。当時は大学にwifiが飛んでいるなどということはなく、またノートパソコンを持って通学するということもなく、空き時間になると大学のパソコンルームに通い、メールチェックと日記を読むということを地味ながらやっていた。今だとノートパソコンやスマホにより時間や場所の拘束性が減ることでスムーズに読むことができるだけに、果たして自分が大学生だとしたら同じことをしているのかどうか疑問ではある。
ルーティーン化することの難しさというのは確実に存在し、多くの人は更新頻度が減り始め、10代の私は「なぜもっと更新しないのだろう」と思っていたものである。そして、あの時の私に返答ができる立場に自分自身がなってしまった。単純に忙しいからである。というわけで、この記事も2週間ぶりの更新になっている。すみません。森博嗣のweb日記はその後、書籍化され、今でもぺらぺらめくったりする。しかし、その時にしか感じ取れなかったものは確実に存在し、一日という時間単位で動かされた文章データを目にするということ、液晶画面の中で見るということ、大学のパソコンルームで読んでいるということ。その全ての再現性はもうありえない。
では、あの時の私が嫌いであった大学教員による授業の話をしよう。いくつかの授業を担当としているが、先週は作品読解の授業では初野晴の「ハルチカ」シリーズを取り扱った。毎年やっていることではあるが、小説だけではなくエンターテイメントとして媒体が変化した際に変わっていくものは何かということを考える契機として、ハルチカを取り上げたのである。ご存知の通り、ハルチカは今年の頭にアニメ化され、来年には映画化される。授業内では小説を講読するだけではなく、アニメも視聴し、媒体の差を考えた。映画はどうなることやら。ゼミでは乙一の「アークノア」シリーズの第1巻を読み、物語の構造を検討し、ファンタジーを考えるということをやった。今年は年度当初に野崎まどの『know』を取り上げて、同じく物語構造を考えたわけだが、創作にしろ評論にしろエンタメを考える基礎的な作業である。
このようなことを日々、繰り返しながら、学生たちの創作・評論・編集活動につながっている。その成果の一つが『文芸ラジオ』である。ということで、このブログはしばらく宣伝で終わるのである。
BGM:YUKI「ドラマチック」
山川健一学科長のデジタル全集が、7月1日に発売されます(iBookstore)。
それを記念して、ライヴをやるそうです!
場所は東京・神田にて。
皆さんお誘い合わせの上、ぜひお越しください!
※私、野上も登壇いたします。
□山川健一デジタル全集 刊行記念バースデーライヴ
出演/Rudie’s Club Band
日時
2016年7月8日(金)
19:00 OPEN / 19:30 START
19:30~19:50
トーク 山川健一 VS 野上勇人(東北芸術工科大学文芸学科)
20:00~
Rudie’s Club Band
会場
The SHOJIMARU 東京都千代田区神田須田町1-4-6 吉川ビルB1
TEL 03-6206-9596
HP http://fukumarurec.wix.com/shojimaru
Facebook https://www.facebook.com/THESHOJIMARU/
料金
¥3,000- プラスドリンクオーダー
いま、東北芸術工科大学の教員宿舎である。今日は研究室に文芸学科の1、2年の学生達が20名ほどやって来て、椅子が足りないので何人かは床に座ったりして、彼らが出そうとしている同人誌の相談にのってあげた。1年生には2時から5時近くまで講義した後なので、ぼくらはいったい何時間いっしょにいたことになるのだろう?
その後、教員仲間の石川忠司がやって来て、最後はいつものように2人でいろいろ話し、解散した。明日も明後日も一緒である。
今日はそんな石川忠司の新刊『吉田松陰 天皇の原像』を紹介したい。この本は藝術学舎から吉田松陰についての本を出したいと思い、しかし自分では書けないので石川忠司に頼んで書き下ろしてもらった本だ。
原稿をもらった時、実に面白いと思った。さすがだな、と。「人民や藩士が直接天皇に忠誠を尽くす行為は許されず」というあたりから説き起こし、かつて「仁」をひっくり返したのと同じ手さばきでこれまでに言われてきた松陰の天皇像をひっくり返し、明治の天皇像の二重性から一気に現代にまで論を通している。石川忠司の仕事の中でも、これはかなりいいものだと思う。ぼくはこの本のいわば担当編集者で、立場的に本を売ることばかり考えていたのだが、改めて松陰の思想の過激さ、危険さに触れ、身の引き締まる思いがした。それから個人的には、三島由紀夫は松陰から一直線だったのかなと思ったのであった。
明治維新以降、長州すなわち山口県出身の政治家達は(安倍首相もその1人だ)、松陰をさんざん利用してきた。そういう輩から本来の松陰を取り戻したの本書である──と、ぼくは断言したい。
ところでぼくは本書に「解説」を書いた。
<彼の批評は年齢を経るにつれてむしろ若々しいロジックの煌めきを獲得し、余計な肉を削ぎ落とし、芭蕉的な大きな世界に挑むようになってきている。そのことに、ぼくは密かに驚嘆する。
本書にぼくは編集者として関わっているわけだが、公平に見て、この決して長くはない吉田松陰論は批評家・石川忠司の現在における到達点を示しているのではないかと思う。しかし、芭蕉的に余計なものを削ぎ落としたロジックの煌めきからは、たとえばNHKの大河ドラマでも扱われた吉田松陰という人の生涯のエピソードがほとんど省略されている。
そもそも原稿をくれた時、タイトルが付けられていなかった。
「タイトルは?」と怪訝な顔でぼくが問うと、
「あんたに任せる」という返事であった。
お前はタイトルまで省略するのかよ、とぼくは思ったのであった。
仕方なくぼくがいくつものタイトル案を考え、石川忠司が選んでくれたのがこの『吉田松陰 天皇の原像』である。
そういうわけで、吉田松陰に興味を持ち本書を手に取って下さった読者の方々に、松陰の生涯の紹介を「田山花袋」的に補うのがこの原稿におけるぼくの使命だろうと思う次第である。>
石川忠司とぼくは志を同じくする同志みたいなもので、仲はいいと思うのだがしばしば喧嘩する。いっしょにやった講演会でも喧嘩になり、研究室での議論は日常茶飯事で、実は昨日も電話で怒鳴り合ったばかりだ。なぜそんなにぶつかるのか。それはきっと、二人ともお互いに、もっと遠くへまで行けるはずだと信じているからだろう。
さて、ぼくが伝えたいことは以下の通りです。
是非とも石川忠司の『吉田松陰 天皇の原像』をお読みください。あなたは、石川忠司と罵り合った後のぼくのように、きっと何か大切なものを思い出せるはずだ。
※この本は山川研究室でも販売しています。学生諸君、是非とも読んでね。