「羽ばたいている間は消えないから」

 ようやく夏休みになった。森田季節さんをお迎えした集中講義が終わり、夜にちまちまやっていた採点もまた終局を迎えたのである(ちなみに森田季節さんの新刊『伊達エルフ政宗2』のあとがきに芸工大の授業がネタとして書かれている)。学生の皆さんも、ほっと一息ついていることであろう。特に一年生は初めての前期試験や前期レポート提出となり、勝手がわからないままに時間が過ぎ去っていったのかもしれない。しかし、終わったことを気にしてはならない。集中講義の最後にも少し話をしたのだが、単位を得る・得ないは名目上の問題であり、個々人が5年後、10年後に何をしていたいのかにより、今現在行うべきこと、来年行うべきこと、2年後……と考えて取り組んでいく必要がある。単位などは、そのはるか手前に存在する通過点でしかない。

伊達エルフ政宗 2 (GA文庫)

 夏休みだというのに説教臭い文章を書いてしまった。この教員然としたものも、次第に抜けていくのが夏休みである。長期休暇の教員は別に休んでいるのではなく、それぞれが抱えている仕事をこなしていく時期になっていく。まとまったものを書いたり、調査に行ったり、仕事をしたり、謝罪のメールを書いたり。そう、積読を崩したり。

 もろもろの作業をする前にwindows updateをかけておこう、と思ったのが間違いであった。すぐに終わるだろうと始めたのだが、そのまま数時間もの間、パソコンでの作業ができなってしまったのである。仕方なく、積読状態であった似鳥鶏『家庭用事件』を読み始め、そのまま読み終わってしまった。それだけupdateに時間がかかったことになる。しかし、このシリーズは物語がはじまって、もう10年が経過している。シリーズ最初からきちんと振りがあったのか、そしてあったとしても10年前に初めて読んだときの自分が気付いていないだけなのか、よくはわからないが、ラストに収録されている短編「優しくないし健気でもない」には素直に驚いた。漫画でもアニメでも映像でも無理で、小説でしか書けないネタのような気がする。そして、これはシリーズを最初から読んでいないと衝撃が薄れる気がするので、授業でこれのみを取り上げることはできない。

家庭用事件 (創元推理文庫)

 明日はビッグサイトのほうに行く。いつものように頒布する側で参加するのだ。暑くならなければよいと毎年思っている。思うだけはタダである。そしてこれを書きながらのぞいたtwitterではSMAP解散の噂が流れているが、特に私との因果関係はないのでビッグサイトの所定の場所に座ることになる。コミックマーケットにサークル参加を初めて7年目である。明日は3年ぶり? ぐらいに教養の吉田正高先生も来るので、久しぶりに2人で並んで座っている。

 

BGM:ASIAN KUNG-FU GENERATION「君の街まで」

ソルファ

オープンキャンパスご来場ありがとうございました

一昨日、昨日のオープンキャンパスにご来場ありがとうございました。

文芸学科ブースは過去最高の来場者数で、多くの方に文芸学科を知っていただけたと思います。

カフェが混雑してしまいまして、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。

来年からはもっと広いスペースが必要ですね。

スタッフとして参加してくれた在校生の皆さんも2日間、本当にがんばってくれました。お疲れ様でした。

今回の展示でも見ていただけたかと思いますが、「文芸ラジオ」をはじめとして、文芸学科ではこれからもさまざまな出版物を発行していきます。

そして今回も話題をさらった野上ゼミのフリーペーパー「GEON」と「くすくす」。

「GEON」はファッション誌「LEON」をオマージュした教員紹介フリーペーパーですが、実は「LEON」のデザインをしているHd LABさんに特別に協力していただいて制作することができました。ホンモノのデザインクオリティ。Hd LABさんありがとうございました。

「くすくす」は製本まで学生が手作りで行いました。表紙モデルは3年生の佐藤滴さん。ハロウィンメイクなどにも活用したいホラーメイク講座、3年生の平野謙太くんのホラー小説など、さまざまな記事で楽しませてくれました。

文芸学科はこれからも毎年どんどん進化していきます。

高校生の皆さん、要チェックですよ!

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面談ごっこをする川西先生と石川先生
文芸ラジオイベントの様子
文芸ラジオイベントの様子
カフェの様子
カフェの様子
「くすくす」を製本する野上ゼミの面々
「くすくす」を製本する野上ゼミの面々

第1回文芸ラジオ新人賞授賞式&2号刊行イベントのお知らせ

以下のように文芸ラジオのイベントを行いますので、お時間がございましたら、ぜひご参加ください。なお、当日は東北芸術工科大学のオープンキャンパスが開催されております。

日時:2016年7月30日(土)12時半-13時半
場所:東北芸術工科大学本館206教室

1:第1回文芸ラジオ新人賞授賞式(司会:野上勇人)
○審査員による講評(山川健一、川西蘭、池田雄一)
○新人賞受賞式
○受賞者による挨拶

2:2号刊行イベント(司会:佐久間洋文)
○文芸ラジオ学生編集部による読みどころ(今野元・鎌田健吾)
○学生作家×学生編集者トークショー
荒川匠×城下透子、藤田遥平×小池駿太

2期生の佐藤アスマさんが「アフタヌーン四季賞2016夏のコンテスト」で準入選を受賞!

文芸学科2期生の佐藤アスマさんが「アフタヌーン四季賞2016夏のコンテスト」で準入選を受賞しました。作品名は「天才とはしる」です。コンテストの内容や講評は『月刊アフタヌーン2016年9月号』に掲載されています。ぜひ、ご覧ください。

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「小さな虫さえも 道に迷っている」

 地図を読むのは、かなり大変な作業である。とはいえ機械的に自分自身の位置と目的地、その途上にある目印さえ把握していれば、地図など何とでもなるし、普通に生活していれば地図を手に取る機会はそれ以上、発生することはないかもしれない。その点においては地図を読む行為は、それほど大変な作業ではない。しかし、行ったこともない土地の地図を眺め、そこで描かれている地理的状況だけではなく、歴史的背景、さらには経済的な状況、住民たちの生活環境、神社や何やらから社会的な構成を読み解いていくことまで求めていくと「地図を読む」という行為は各段に難解なものになっていく。

 私自身は地図を読み解くことは得手とはしていない。高校生から大学生ぐらいまでは、どう読んでいいのかわからないということは多々あった。特にファンタジー作品に描かれている地図をどう受け止めていいのかが分からず、非常に困惑したことを覚えている(でもファンタジー小説には地図が欲しいというマニア心)。では大学で行われているフィールドワークに参加することで、この焦燥が解消されるのかというと実はそうではなかった。現場に足を運べば、肌で感じ取ることができるではないかという意見はあるかもしれない。それはある意味では正解で、ある意味では不正解なのである。何が足りないのかというと、読み解けるだけの知識と経験が大幅に不足していたために、現地に行ったところで、ただ行っただけで終わってしまったわけである。行くだけであれば、誰だって行けるのだ。

 高桝ナヲキの『ジグソークーソー』(幻冬舎、2016)は地図を読み解くことで様々な物語を描いていく作品である。第1巻の前半では、主人公の杜子ダイチが抱える幼いころの思い出の中にある風景や場所、わずかな言葉をもとに地図を読み解いていく。彼ひとりではなく、塔元チエリという空想地図研究会という部活を作ろうとしているヒロイン(?)との出会いが物語の契機となっていく。彼らの活動は高校生の授業内で行われる「勉強」とされる内容からは大きく逸脱している。その意味もあってか、彼らは教室内で描かれることはほとんどないが、端的にいうと彼らの行動において分断化されたままの高校の授業内容では地図に対応できないのだ。地学であり、歴史であり、時に生物であり、政経でありと様々な科目を横断し、それぞれが適格に情報抽出し、それらを踏まえて地図を読み解いていく必要がある。

ジグソークーソー 空想地図研究会 (1) (バーズコミックス)

 この彼らの活動は、本来は大学において大学生が行うべきものである。いや、本来は人間であれば誰だって行うべきことなのだ。特に文芸学科では、作品や作家のファンという受け身の姿勢から、自らがクリエーターとして発信していく姿勢が求められる。求められるというよりは、それが当然なのである。したがって単なる座って話を聞いているだけの座学の授業は学科必修としては数が少ない。もちろん、文芸学科のみに希求されている話ではなく、文系学科・学部に入学した学生には必要な姿勢といえるかもしれない。しかし多くの大学生は、受け身の姿勢を崩すことなく学生生活を過ごし、何となく授業に出て、何となくレポートを提出し、何となく卒業していく。それを許してしまっている大学教育自体にも問題があることは重々承知しているが、その程度の経験値のみで「文系学科は必要ない」と話されるのは困ったものではある。この問題に関しては吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016)あたりを読んでいただきたい。

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 話がずれそうだ。今年もAO入試が近づいてきた。その前に本校では7月30日(土)・31日(日)と2日間にわたって、オープンキャンパスが開催される。全体的なスケジュールに関してはこちらの大学のサイトをご覧いただきたい。文芸学科も毎年のようにブースを設け、受験生の皆さんからの質問を受け付けている。ブックカフェを設ける予定なので、在校生と話をしてもよいし、静かに本を読んでもいい。川西蘭先生の創作講座も開催され、AO入試模擬体験は私が行う。意欲のある学生、という曖昧な点は評価基準にはしない。明確な目標があり、そこに向かって歩んでいける学生に来てほしい。創作や評論、編集というのはオールラウンダーな能力だけではなく、自律性も求められる。つまり『ジグソークーソー』の主人公たちのように目的に向かうためには画一的で分断化された思考を捨てる必要がある。

 さて実はオープンキャンパスに合わせて文芸ラジオのイベントも計画している。詳細は決まり次第、本ブログにて告知する予定である。ぜひ『文芸ラジオ』をお買い求めの上、お越しいただきたい。

文芸ラジオ 2号 ([テキスト])

遊佐未森「ロカ」

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日本経済新聞(7月16日朝刊)で『文芸ラジオ』を取り上げていただきました。

 日本経済新聞(7月16日朝刊)に『文芸ラジオ』が取り上げられました。文化欄の「地域発の文芸誌 書き手を発掘」という記事に『アルテリ』、『たべるのがおそい』とともに大学発そして東北発の文芸誌として『文芸ラジオ』が挙げられています。池田雄一編集長の顔写真・コメントとともに玉井副編集長のコメントも掲載されています。

(2016年7月25日追記)webでも記事が公開されました。ぜひ、ご一読ください。地域発文芸誌、書き手を発掘 手作り感・商業性両立

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文芸ラジオ 2号 ([テキスト])
日販アイ・ピー・エス
売り上げランキング: 379,310

 

「声をそろえてNIRVANA」

 私はこの町に住んでいる。駅の向こう側に本屋があり、こちら側にも本屋がある。品揃えが少し違う、というかプッシュしている本の違いなのか、目につくものが違うので、どちらにも足を運ぶ。図書館もあるため、書籍という情報のフローと集積が同時に行われていく。半径数百メートルの世界である。雑貨屋もいくつかあり、よくわからないものも並んでいるし、レンタルショップは2軒ある。昔はパチンコ屋がいくつかあったのだが、もうパチンコをする若者もおらず、次々と閉店している。跡地にはコンビニが入った。東京の町は駅を中心に形成されており、その中である程度は完結できるようになっているが、時たま隣駅まで10分ほどかけて歩いて行ってみる。古本屋があり、品揃えがそろそろ変わったかなと思うと足を運んでみる。コーヒー屋は何軒あるのかわからない。

 それでも移り変わりが激しいのが東京で、大学の仕事で1か月ほど開けてしまうと、店がかわっていたりする。ペットショップになったり、からあげ専門店になったり、弁当屋になったり、ラーメン屋になったり、またコーヒーショップだったりする。開店して数か月のパン屋が情報誌に「地元の人が愛するパン屋!」のように書かれているのは、さすがに苦笑するしかない。でも、時々行くから嫌いではない。好きなのかはわからないけれども。この町を舞台にした作品が山うたの『兎が二匹』である。

兎が二匹 1巻

兎が二匹 2巻(完)

 コンテンツツーリズムという概念がある。様々な形態の物語が人を動かし、特定の場所に足を向く観光的現象のことを指し示す。漫画やアニメ、ゲーム、小説、映画、歌など多くの物語が人々を動かしていく。その舞台となった場所を見たいという受容者の気持ちが、そして行動が一つの現象として概念化されていくわけである。それぞれ媒体としてのメディアが違うので、アニメと前近代の歌枕を直接的に繋げることの難しさはあるとは思っているが、古くは和歌から最近のアニメに至るまで多くのコンテンツツーリズムが存在していることは間違いない。なお、入門書としては岡本健編『コンテンツツーリズム研究』(福村出版、2015年)がおすすめである。何せ、私も3項目を執筆しているのだ。

コンテンツツーリズム研究

 観光的現象は様々な研究アプローチが可能であろう。経済効果であったり、社会的構造を解き明かしたり、歴史的経緯や地理的環境を考えたりと思いついたことを書き連ねるだけでも、多様性を帯びた概念であることがわかる。そして、これらは舞台となった土地を中心として重層性と複数性が同居していることを示唆しているわけだが、土地だけではなく訪れる人々の認識も同様ではないだろうか。さらには土地と人との間も、一面的ではない。ということを自ら住む町を舞台にした作品『兎が二匹』を読んだときに、つらつらと考えていた。

 とはいえ、この感覚は個人性に結びついており、作品に対する評価とは別の話である。すでに描かれていた一つの短編を元に連載されたと後書きのような場所にある「作品解説」に書かれている。恐らくは第一話がその短編であろう。そして、その一話で物語が決してしまい、2話以降は回想へと至る。物語の進め方が非常に難しい中で、2巻全9話という短い物語をいかに終わらせるかに苦慮した(のかもしれない)この作品は称賛すべきかもしれない。そして死という絶望の中で、希望と、その希望すら絶望を伴うかもしれないラストは見事であった。

 さて舞台性とはあまり関係のない『文芸ラジオ』2号は引き続き発売中である。ぜひお買い求めいただきたい。以上、池上彰の選挙番組を見ながらのブログ更新であった。

文芸ラジオ 2号 ([テキスト])

BGM:センチメンタル・バス「アヒル」

アヒル

第1回文芸ラジオ新人賞講評

 既に発表されております「第1回文芸ラジオ新人賞」ですが、審査員の講評を公開いたします。第2回文芸ラジオ新人賞への応募の一つの指標にしてください。

 

  • 山川健一(作家)

 イノベーション(innovation)というのは元はヨーゼフ・シュンペーターによる経済学の用語であるが、この頃は一般的に使われるようになった。ただ「進歩」という意味だと勘違いしている人が多い。本来は「結合」という意味である。受賞作の丸山千耀氏の『星屑のブロンシュ』には、イノベーションがある。純文学と童話とファンタジーと、彼女自身の幼い日の記憶の「結合」があり、そのことにより、新しい世界を切り拓くことに成功している。後は例えば「ブロンシュ」という存在を、ユングの言う集合的無意識の層に届くまで深めていってほしい。

 吉川敦氏の『須弥山としゅみせん』は奇妙な、そう言ってよければトボけた魅力のある作品である。そのトボけた世界を何かエネルギーのある世界に「結合」できれば、新しい地平へ出られるのではないかと思う。ふくらませた風船は弱い箇所から爆発する。そういう小説を書いてほしい。

 蒔田あお氏の『フェイス・トゥ・フェイス』はよくまとまってはいるが、やはり別の世界との衝突が必要であるような気がする。

 文学も経済も、もはやイノベーションの向こう側にしか可能性はないのだと、今のぼくは痛切に感じている。

  • 川西蘭(作家)

 手法の斬新さでもテーマでも文章力でも世界観でもなんでもいい、一点でも図抜けていれば、受賞作に推したい。そう考えていたが、残念ながら、推したい作品はなかった。

 小説としてのまとまりが比較的良かったのは、蒔田あお氏の『フェイス・トゥ・フェイス』だ。文章は安定している。が、ストーリー展開の強引さをカバーするだけの力はない。小説としての形を整えることではなく、破綻を怖れず、個性を強烈に発揮することに力を注いでもらいたいと思う。

 受賞作は丸山千耀氏の『星屑のブロンシュ』だが、この作品の良さが私にはまったくわからなかった。最大の問題は、書き手と作中の「私」の距離が確保されていないことだ。この撞着によって、小説世界は、「私」=書き手の内的世界となる。客観的な視線など導入のしようがない。無邪気なままごと、あるいは、箱庭療法のロールプレイング的世界が無批判に繰り広げられるだけだ。

 作者にはこの作品で満足せず、自分の慣れ親しんだ箱庭的世界を放棄して、現実としっかり向き合い、勇気を出して新しい小説世界の構築に挑戦して欲しい。この受賞が飛躍のきっかけになることを切に願っています。

  • 池田雄一(文芸評論家)

 まず『須弥山としゅみせん』だが、ひとつのモチーフでおしていくため、モノローグに陥ってしまっている。『フェイス・トゥ・フェイス』には、フィクションを創ろうという意思がみられるが、新人に必要であるはずの野心が決定的に欠けている。

 『星屑のブロンシュ』は評価が割れた。とくに最後の展開がご都合主義的なのか否かで解釈の違いがみられた。ただ野心的な作品であることは間違いなく、最後は読者の判断に委ねることで作者の賭けにのることにした。

「僕らは大事な時間を意味もなく削ってた」

 気付いたら7月になっていた。いや、嘘である。私だって暦ぐらいは読めるのだ。カレンダーだって眺めるのだ。7月になっていること、時間がいつの間にかに過ぎ去っていることから目を背けようとしているだけである。何より毎週、楽しみにしていた『重版出来』と『トットてれび』が終わり、いくつかのアニメも同様に終わっている。そう改変期を迎えているということは、もう7月なのである。7月になると学生も教員も目の前に具現化してきている夏休みという響きに心躍らせ始める。夏休みに読みたい本と書きたい原稿、書かなければならない原稿と盛り沢山である。大変素晴らしい。早く来ないのだろうか。その点、6月は真逆で、1か月もの間、連休がない。夏休みはまだ遠く、手の届かない存在のように思えてしまう。そのためか学生たちもぼちぼち休み始めるようになる。

 私自身は五月病にかかったことがないので、体感的に連休明けに休みたくなるということが分からない。そして昨今の学生さんは、私が大学生であった90年代後半から2000年代と比べても非常に真面目に授業に出席をしているように思える。そもそも教員が時間通りに授業に来ること自体、昔には考えられなかった。私が大学生だったとき、大学教員は15分平均で遅刻し、15分程度早めに終わるので、中身は60分ぐらいしかなかったものである。今は時間通りに来て、時間通りに終わるようにしており、それが当然となっている。さておき、5月の連休が明けたところで出席する学生の数は減らない。減り始めるのは6月に入ってからである。

 シギサワカヤに『九月病』という作品がある。夏でもない、秋でもない9月という時間に起きる恋愛模様を描いた作品だが、これを読んだとき、毎月、何かしらの病気があってもよいのではないかと思ったものである(作品本編とは関係のない感想)。したがって、6月に休むのは六月病としてしまってもよいかもしれない。季節の変わり目で体調を崩しているのかもしれないし、梅雨に入って気分が優れなくて休んだのかもしれないし、新年度から2か月ぐらいは気合で乗り切っていたが、もうそれが尽きようとしているのかもしれない。そのことに関して、特に咎めようとは思わない。もしかしたら、旅に出ないといけない衝動が起こり、作家として一つの転機をその旅で得られるかもしれない。新人賞の締め切りが重なって、授業に来る時間などなく原稿を書いているのかもしれない。

九月病 上 (ジェッツコミックス)

九月病 下巻 (ジェッツコミックス)

 1年生の必修授業で『日本語表現基礎』というものがあるのだが、先日、他の先生から「いやー、玉井さん、1年生の原稿をばっさばっさと切っているらしいですね」と言われてしまった。正直なところ、wikipediaやニコニコ大百科、pixiv百科事典、naverまとめのコピペで書かれたものを右から左に切っていただけである。せっかく文芸学科に入ったのだ。コピペではなく自分の文章で勝負しようぜ。そしてもう一つ言っておこう。入学したての1年生だから、一つ一つ指摘していただけであって、2年生以上にはあまり強くは言わない。さらには同じく2年生以上には課題を出さなくても、強くは言わない。課題は一つの目安でしかなく、自分自身の目標があり、それに向かうために何をすべきかは自分自身で考える必要がある。もう子供ではないのだ。課題を出さず、かといって何もしていない学生には哀れみの視線を与えている。とやかく言わないことは優しいと捉えるかもしれないが、一番、厳しいのである。したがって課題を出さない学生に厳しく指導している他の先生方は優しいなと思って見ている(一応、書いておくと出してきた課題はきちんと読んでいるし、コメントもしているし、課題提出の催促もしている)。

 もう7月に入った。2016年度前期の授業も終わりが見えようとしている。様々な授業で最終課題が提示されるようになるだろう。六月病にかかってしまった皆さんも、特にかかっていない皆さんも、気を抜かずに走り抜けて欲しい。夏はもうすぐ。

文芸ラジオ 2号 ([テキスト])

そして季節は関係なく読める『文芸ラジオ』2号の宣伝タイムである。まだまだ絶賛発売中であります!

BGM:THE YELLOW MONKEY『楽園』

SICKS