「必殺チョップで今に砕いてみせるわ」

 数年前までは大学で教えている際、「セカイ系ってなんですか?」という質問をよくされた。当意即妙に答えたというよりは、適当な対応をしていたような気がするので、学生にとって疑問はさらなる疑問を生み出していたように思える。というのも私自身が同時代的にエンタメを享受していながらもセカイ系というbuzzワードに対する興味関心が極度に低かったのである。したがって、ここ数年は聞かれてうんざりすることがなくなったので、もうbuzzワードではないのか、と安心している。単純に声の大きい人が言わなくなっただけかもしれない。辞書的には(そういう辞書があるのかは知らない)、「キミとボクの関係性とセカイの滅亡などの大きな事象が、中間的に位置するはずの社会を抜き取って直結している」ことを描いた作品といえばよいだろうか。

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 昨年だったか三宅陽一郎さんとコーヒーを飲んでいたときに、この話になり、「現実世界がどれだけ引きこもろうとも、社会性から完全に逃避することはできなくなってしまったからではないか」と言われたのだが、それも一理ある話である。Twitterやfacebookや何でもよいのだが、ネット上ですら引きこもろうとも、社会的な事件を目にしないわけにはいかない。社会的な事件や事象を目に入れないためにはtwitterをやらないのが一番で、誰一人としてフォローしていなくともトレンドで無理やり知らされてしまうし、フォロワーからのクソリプで知らされてしまうかもしれない。どちらにせよ、根本的には興味がないのでセカイ系はどうでもいいし、三宅さんと私は下戸なので二人が会うとコーヒーを飲んだり、下北沢のマックでジュースを飲んだりしている。なのでセカイ系警察のみなさんは僕に何かを教える必要はないし、シモキタならもっと美味しいコーヒー屋があるよとも教えなくてもいい。

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 それでもキミとボクの関係性自体に興味がないわけではない。キミとボクというのは他者関係の最初の一歩として認識されるものだろうか。親や兄弟というような生活文化や血縁を同じ背景に持つ人たちではない、何から話していいのか分らない人と結ぶ関係性という意味においては初めて経験するであろう最小単位である。この最小単位は様々な媒体で描かれている。恋愛であったり、同級生であったり、同僚であったり、と精神的な側面から社会的な側面に至るまで様々な点を含み、濃淡を描きながら物語化されていく。

 The pillowsはこのキミとボクを常に描き続けているバンドである。最初に聞き始めたのが中学生の時であったから、もう20年以上は聞いている。これほどまでに長く続くバンドになるとは思っていなかったし、中学生から聞くバンドが変わらないとも思わなかった。そして息が詰まらないのか心配してしまうほどに、山中さわおは同じ世界を傷つけるように歌い続けている。初期作品である「ガールフレンド」や「Tiny Boat」で描かれていた二人だけの甘い世界は、『Please Mr. Lostman』以降はぐっと減り続け、テーマ性をシャープに研ぎ澄ませていく。時に思春期の、時に何かに挑戦する人の、時に夢破れた人のそれぞれの心情を切りつけながら、キミとボクの世界は進行していく。そしてバンドの休止を経て、この2016年も活躍している。

 この聞く人によれば青臭いとも評されるべき世界観だが、現実世界ではいつしか脱却していかなければならない。その第一歩が大学という人もいるであろう。先日、オープンキャンパスが行われた。文芸学科では私の模擬授業(創作初級編)だけではなく川西蘭先生の模擬授業(こっちは創作上級編)、石川忠司先生の学科説明が執り行われ、教室内ではカフェが開設され、訪れた高校生たちと現役の学生や教員たちが語らいをする場が設置された。模擬授業は昨年は3人前後の参加人数であったのに、今年は40人以上のみなさんに参加いただいた。レジュメが足りなくなり、どたばたしてしまったことは申し訳なく思っている。

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 教員の相談コーナーにも様々な学生さんが来ていただき、入試の相談から大学生活に至るまで色々と話をしたし、好きな本や漫画の話もした。なかなか上手く話せなかった高校生の方もいるであろう。ずっと下を向いて何を話せばよいのかと思考停止状態になっている人もいたし、私はあまり他人に意見が言えないのですと言いながらもしっかりとこっちを見ている人もいた。誰がよくて誰が悪いわけでもない。キミとボクとの関係性から大きく飛び出していけるのが大学という場である。でも二人の関係性を捨てていいわけでもない。

全てにこだわりを、全てのチャンスボールにフルスイングを。今しかないときを今しかない両手で、ぎゅっと掴んで騒いでる(the pillows「I know you」)

 そうフルスイングなのだ。心配であったり、不安であったり、どうしていいのかわからない時も全てあるだろう。それでもチャンスボールがきたらフルスイングだ。次のオープンキャンパスはAO入試直前の7月末に行われる。AO入試で行われるグループワークの体験授業があるのだ。学科が公式で行う模擬試験というやつである。希望する人はぜひ参加して、我々教員と語り合おうじゃないか。なお試験本番で本当にバットを持ってフルスイングをする必要はないし(それはそれで面白いが)、無理やり気合を入れる必要もない。我々教員側が何を見ているのかというと気力だとか精神だとか面白さだとか可視化しにくいものではなく、自らの目標を明確にし、そこに至るための手段と労力を認識すること。これだけで大きく違ってくるという話である。そう。その場限りのフルスイングには何も意味はない。

BGM:the pillows「I know you」

ペナルティーライフ

もう間に合わない、ということはない。

 先週、5月28日に本学では春のオープンキャンパスが開催されました。文芸学科にもたくさんの高校生の来場がありました。ありがとうございました。

 当日は、入試相談と模擬授業を担当しました。
 スプリングセミナーに引き続き、模擬授業にはたくさんの高校生の参加がありました。
 模擬授業では、既存の物語の構造とキャラクター配置を利用して、新しい物語(小説)を創作する方法について話をしました。40分と短い時間でしたので、ややつめこみ気味でした。
 参加した高校生でよくわからないことがあったら、文芸学科まで質問のメールをください。可及的速やかにお返事します。

 さて、今回の投稿は、入試相談の際に受けた質問への回答でもあります。

「私はスプリングセミナーにも参加しなかったし、オープンキャンパスに参加するのも初めてなのですが、もう、AO入試には間に合わないでしょうか?」

 そういう質問を受けました。
 AO入試を目指す熱心な高校生の中には、1年生の頃からオープンキャンパスで大学を訪れ、スプリングセミナーにも参加し、作品も持ち込んで教員に講評を求めている方もいます。
 でも、そういう高校生だけが、AO入試を受験するわけではありません。

「今からでも充分、間に合います!」

 私(川西)は質問に対して答えました。

 AO入試は9月上旬に実施されます。出願はまだ先です。
 これまでAO入試を考えず、春になって思い立った高校生には「遅れた!」という意識が強いかもしれません。が、間に合わない、ということは、ありません。
 これから準備をすれば、充分に間に合います。

 AO入試で求める学生は、意欲があり、熱意があり、それを持続できる人です。才能に恵まれているかどうかは問題ではありません(どうやってそれを判断するのでしょう?)。才能を開花させることができるかどうかが問題なのです。そのためには、熱意と意欲を失わず努力し続けることが大切なのです。

 それとともに協調性も必要です。大学の演習ではグループ単位でおこなう課題も多くあります。一人だけでできることは限られています。チームで課題に取り組むことで一人ではできなかったことが可能になります。チームで課題を完成させることで個人の力も伸びます。

 春のオープンキャンパスに参加できなくて、「もう間に合わないかもしれない」と焦っている高校生がもしいたら、私はこう申し上げたいのです。

 まだ、全然、大丈夫ですよ。

 夏のオープンキャンパスが7月の終わりに開催されます。
 その時に参加してください。
 入試相談にも応じますし、学科で普段なにをやっているのか、演習内容についても紹介します。小説を書くためになにをすればいいのか、編集をするためになにが必要なのか、教職員や在学生が説明します。

 まだ、全然、大丈夫です。

 文芸学科への入学を目指すあなたがすべきは、将来、なにをやりたいのか、を明確にして、今の自分がそのためになにができるのかを考え、日々コツコツとそれをこなしていくことです。
 困ったら、不安に思ったら、相談してください。
 私たちは、できる限りの対応をしますから。

 

オープンキャンパスでした。

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5月28日(土)に東北芸術工科大学のオープンキャンパスが開催されました。

文芸学科では、教員・副手&学生スタッフ20名弱で、高校生や保護者の皆様をお迎えしました。

今回のオープンキャンパスでは、川西先生&玉井先生のストーリー創作の模擬授業が行われました。

どちらもすごい人気で、教室に入りきれないほどの高校生が参加してくれました。

「去年は3人くらいとほのぼのやったのに・・・!」と玉井先生もビックリ。

3月に開催したスプリングセミナーに参加してくれた高校生が、今回も来てくれたんですね。そのままぜひ文芸学科を受験して、もっとガッツリとストーリーづくりに取り組んでもらえると頼もしいです。

お待ちしております!

 

さてさて、オープンキャンパスは毎度のことながら準備が大変でした。

学科説明のための資料を毎回更新しているのですが、その更新の指示が、石川先生→野上という流れできました。

その一部をここでご紹介しちゃいます。

4~10 このままでもいいのですが、もっとかっこいいデザインが可能であればお願いします。

13~16 このままでもいいのですが、もっとかっこいいデザインが可能であればお願いします。

19 作品読解、もっといい写真ないですかね?

28 「漫画コース」を表現する画像、なんかないですかね?

不明な点があればご質問ください。

・・・・・。

かっこいいデザイン・・・。

わりと困惑しましたよ(笑)

そして今回一番「マジで!?」と思ったのは、学科のカリキュラム概念図が画像ファイルだったこと。

わかる人にはわかると思いますが、画像だと修正するのがかなり大変なんです。

そこで今後のことを考え、新たにつくりました。

途中で泣くかと思ったぜ。

つくり直したカリキュラム概念図
つくり直したカリキュラム概念図

 

そして今回のオープンキャンパスで芸工大中を騒然とさせた、野上ゼミのフリーペーパー「GEIKO’S KNUCKLE」。

※注:表紙はその筋の人ではありません。
※注:表紙はその筋の人ではありません。

おちゃらけた企画に思えますが、中身の編集制作はけっこう大変な作業でした。

1カ月弱という短い期間で、12人の教職員のアポをとり、取材撮影し、確認をとって入稿するという一連の工程を、ゼミのメンバーは本当によく頑張ったと思います。

コラム的に入った記事「まさみちのさかみち」や「TUADラクガキポイント」、相馬香織さんの4コマ漫画も面白かったです。

まだ残部があるので、欲しい人は芸工大食堂前から取るか、野上研究室に来てください。

早い者勝ちです。

 

『文芸ラジオ』第2号が発売になります

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東北芸術工科大学芸術学部文芸学科編『文芸ラジオ』2号が全国書店にて5月末に発売となります。ぜひ本屋にて手に取って、お買い求めください。

●目次
【Guest Talk 1】「小橋めぐみ 本に恋した私の、自分なりの「好き」を伝えたい」
【Guest Talk 2】「前田日明 闘うために、文学者たれ」
【Guest Talk Special】「吉木りさ 失敗して、恥をかいて、ボロボロになったほうが面白いものが書ける」

【特集】“ブラックニッポン”の歩き方
佐久間洋文「実態が見えないブラック社会の“不安”」
【鼎談】戸室健作・山本一輝・栗原康「ブラック社会を生きる若者たち」
ブラック社会“サバイバル”ブックレビュー
【小説】
笠原伊織「メメさん」
本間広夢「童女埋葬」
菅澤大樹「偽りの森のスクルーター」

【特集】人が歴史を語る時
辻井南青紀「ふたつ目の声(テクストの中の)獄中の吉田松陰・獄の外の杉文」
【対談】秋山香乃・石川忠司「吉田松陰はなぜ幕末を代表する存在なのか」
【小説】
平野謙太「友殺しの剣」
海谷南津子「紫の皿」

【小説】
川西蘭「スイム・ライク・フィッシュ」
狗飼恭子「同じ月を見ようとしただけ」
森田季節「ダイスの神様/研究ノート 概略日本感動史/四十九日恋文/文と文と文が手をとりあって、泥の上で」
山川沙登美「一時三分の女神夜行」
荒川匠「Carly」

第1回文芸ラジオ新人賞発表

黒木あるじの怪談教室

【対談】
森田季節・玉井建也「幼なじみとは恋愛できない!?」

【評論】
三宅陽一郎「人工知能が拓く物語の可能性」

【小説】
佐藤滴「ストックホルム恋愛学」
八木鹿ノ子「樹下葬」
遠藤沙緒梨「私は加藤を忘れない」
藤田遥平「セックスと耳掻き」
佐々木ヒロミ「六月に手をふる」
岡田エツコ「明日はなにを食べようか」
嘉村詩穂「雪花物語」
焼坂しゅり「区内のもめごと(仁茂田、第二地区版)」

文芸ラジオ 2号
文芸ラジオ 2号

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日販アイ・ピー・エス

 

藤枝市にいってきた

 田中城の取材で藤枝市にいってきた。
 田中城は、日本では非常に珍しい円形の縄張りを持つ平城だ。
 残念ながら縄張りの大部分は宅地開発され、遺構はわずかだが、緩いカーブを描く道や水路にその面影が残っている。

 縄張りをぐるぐるとめぐったあと、藤枝市立郷土物館・文学館を訪れた。
 近くには蓮華寺池もあり緑も豊富で非常に環境が良い。
 池端のベンチで本でも読みながら、二三時間すごせれば、いいリフレッシュになるだろう。
 藤枝市郷土博物館と文学館は隣接している(出入り口は別だが、同じ建物かもしれない)。
 文学館のポスターが掲示されていて、それは藤枝静男の展示案内だった。

 藤枝静男は(御存知のように)独特の世界観を持つ文学作品を書いた作家だ。藤枝市出身で、筆名の由来は出身地だ、とどこかで読んだ記憶がある。眼科医でもあり、医院を維持しながら執筆に励んだ。ただし、開業したのも執筆が行われたのも浜松市だ。今回、藤枝文学館で展示されている『一家団欒』の原稿も浜松文芸館の所蔵だ。

 時間があれば、展示を観たかったが、残念ながら、今回は郷土博物館だけで時間切れになった。『作家医師をとりまく世界 ~藤枝静男「一家団欒」から50年~』の展示は、7月10日まで開催されているので、次のチャンスを狙いたい。

 藤枝静男の作品を読むようになったのは、中年になってからだ。それまでは文章のうまい作家だな、とか、変な世界を描くな、とか思う程度だった。『空気頭』という作品があるが、落語の『頭山』みたいなものだろう、と読む前に決めつけていたりした。若気の至りである。お恥ずかしい。
 「私小説」という範疇で紹介されていたことも作品を敬遠していた理由のひとつだ。私が「私小説」を読むようになったのも中年以降だ。二十代に葛西善蔵や嘉村磯多を流し読みして、お腹一杯になったのだ。

 中年になって、私は仏教を知り(僧侶となり)、その縁で藤枝作品を読むようになった。『欣求浄土』という、そのまんまなタイトルの作品もあるが、藤枝作品には仏教の影響が濃い。しかし、仏教的思考・感性だけに惹かれたわけではない。藤枝静男が創出する、突拍子もない(常識を軽々と越えた、破天荒な、けれど、出鱈目ではない、ユニークな)世界に魅了され、どっぷりとはまってしまったのだ。
 生あるものと無機物が交合し融合するような不可思議な世界、支離滅裂の一歩手前(しかし、整合性は担保され、安易に妄想で回収されない)、寂寥、孤独、生死、無常……といったものが、透徹な筆致で描き出される。

 歳を取ったら、腰を据えて、こんな作品を書きたい、と藤枝作品を読んだ中年の私は思ったのだが、そのことを藤枝市郷土博物館・文学館からの帰り、蓮花寺池のほとりを歩きながら思い出した。
 あれから私は歳を取ったが、到底、藤枝作品の高みには手が届かない……。
 そんな思いが湧き上がってきたが、さほど悲しくも寂しくもなかった。夏のような明るい日差しと木々を渡る乾いた風のおかげだろうか、妙にさっぱりとした気分だった。
 歳を取るだけでは足りないなにかを得るには、どうすれば良いのか、私にはわからない。わかっているのは、書き続けなければならない、ということだけだ。書かなければ、なにも生まれてはこない。書いていれば、なにか生み出せるかもしれない。そんな、漠とした期待だけが私を前に進ませるのだろう。

「それぞれの山形」展

昨日の話になるが、ゼミ生その他の学生と芸工大にある日本画コースの展示を見に行った(ちなみに5月21日の土曜までやっている)。

ここは芸大なので「進級課題」という作品が存在する。つまり、その作品を完成させないと、次の学年に進級できないという性質のものだ。考えてみれば恐ろしい話だ。芸術作品なんてある意味、気分次第のところもあるはずなのに、芸大生は進級したり卒業するためには、いちいち作品を完成させなければならないのだ。

昨日みたのは「それぞれの山形」というタイトルの展示である。自分にとっての山形を日本画で表現するというものである。おそらく、このお題をどのように解釈して表現するのかが、評価の基準となるのだろう。

◉水島遵乃「仮面の街」

そのなかで、まず目を引かれたのは、水島遵乃「仮面の街」という作品だ。描かれているのは駅の自動改札と、その向こう側である。自分にとっての「山形」は、そのくらいの意味しか持っていないということだろう。自分たちにとっての山形、という課題の持っている「物語の重力」をヒラリとかわしている。おそらく作者は、賢くて正直で素敵な人なのだろう。

だがそれ以上に、この作品は妙な迫力を持っている。駅の改札なのに、まったく人間が登場してこないのもあるが、この自動改札に異様な存在感をおぼえるのだ。この絵を長時間みつづけていると、アタマがおかしくなって、さらに長時間みいってしまうような気分になる。ただの自動改札が「モノリス」レベルの自己主張をしているようである。

◉天羽和泉「雪わたり」

おもわず見入ってしまうという意味では、天羽和泉「雪わたり」も負けていない。雪がつもっている大地に傘をさした女性が立っていて、こちらをふり向いている、という絵である。この女性の目がやばい。やばすぎる。ただの絵画なのに、金縛りにあったように視線が外せなくなる。

目の存在感と、女性の脚の存在感のなさとが相まって、まるで幽霊のようにもみえるのだが、この絵は、幽霊のような「概念」よりも、はるかに怖い何かを持っている。おそらくそれは「絵そのものがこちらを向いている」という感覚だと思う。絵画をみるというのは、思った以上に恐ろしくて生々しいものだということを思い知らされる作品だった。

 

斉藤ゆう『月曜日は2限から』を読む

 ヤンキーという存在は基本的に私自身とは相容れないものであろう。自己認識としてはオタクであり研究者であるという自分自身は、対極に位置しているように思える。いや、いったい、軸がどこにあるのかわからないのに「対極」とは何かという話である。「オタクであり研究者」が存在するのであれば、「ヤンキーであり研究者」が存在していたっておかしくはない。とはいえ、70年代・80年代においては悪趣味ともいえるヤンキー文化は社会的な制度から外れた存在として、少なくとも研究上では無視される傾向にあった。社会的にはどうだろう。無視というよりは迷惑な存在として異端視されていたかもしれない。しかしながらゼロ年代後半から社会学を中心としてヤンキー文化は研究対象として取り上げられるようになっている(たとえば五十嵐太郎『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年)。

ヤンキー文化論序説

 社会学の動向を肌で感じているわけではないので、個人的な感慨にしかならないが、この理由の一つとしてはヤンキー文化が隆盛していたときから時間的経過が出来上がったことで、研究対象として冷静に距離感を取ることができるようになったのかもしれない。実際に私自身は漫画などで描かれるヤンキーを実際に目にする機会はないまま今まで生きてきている。これは偶然なのか、それともヤンキー自体がファンタジー的な存在としてフィクション化してしまったのだろうか。もう一つの理由として想定されうるのは、ヤンキー文化自体が普遍化されてしまったことである。いわゆるマイルドヤンキー論にもつながるかもしれないが、ヤンキー的なものが我々の周囲にも数多く存在し、生活の中に溶け込んでいるという論点である(たとえば斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』角川書店、2012年)。街を歩くだけで、EXILEが流れていることを想定してもらえばいいのかもしれない。曲を意識して聞いたことはないが、恐らく私自身も耳にしたことぐらいはあるだろう。オカザイルの影響かもしれない。まあ、ヤンキーと同様にオタクだって普遍化してしまったので、結局、同じ領域に所属しているのだ。ということは対極ではないのか。

世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析 (角川文庫)

 理由などはどうでもいいのだが、相容れないとは思いながらも、じりじりと興味関心を持ってしまう。具体的にはヤンキーど真ん中な作品には全く興味が持てないが、「もしかしてヤンキー文化?」という作品にはふわふわと惹かれていく。気づいたら、もうヤンキー的な側面など一切ない作品なのに自分の中の分析官が「ヤンキーかもしれません」と冷静に告げているのである。実際に漫画に載っているようなヤンキーに喧嘩を売られたら、もうダメっす、まじダメっす、となるに決まっているにも関わらずである。やはりヤンキー的文化が周辺領域にも、下手したらオタク文化にだって浸食しており、私自身もじりじりと気になっているのかもしれない。そもそもヤンキーとは「自己存在の強烈な主張、権威や常識・既成概念に対する反骨精神、融通無碍で自由な編集性」とされている(鞆の津ミュージアム監修『ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現』フィルムアート社、2014年)。

ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現

 体制への反抗的精神というものは、読者としてオタクである自分自身は抱くことのできない、もしくは抱くには悩みの大きい心理的側面である。スクールカーストの最下部もしくは埒外に所属するオタクというのは、その精神性から体制下の中で上部に向かって反抗していくことの無意味さを感じ取っているのかもしれない。しかし漫画やアニメの登場人物たちは軽く、そこを越えていく。斉藤ゆうの『月曜日は2限から』で描かれているヒロイン咲野瑞季は校則を無視し、金髪で私服、遅刻常習犯と高校生ながらすでに社会的生活を送ることはできていない。このヒロインに振り回される主人公居村草輔と、さらには風紀委員長である吉原依智子の3人で物語は少しずつ進んでいく。ヒロインの自由闊達な行動により物語自体はスピーディーさがあるにも関わらず、主人公とヒロインの関係性は緩やかな変化として描かれている。その落差とともに、やはり個人的に気になるのはヒロインが学校という枠から外れているにも関わらず、溌剌としている点である。時として憧れすら感じてしまう。

月曜日は2限から 1 (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

 同じような憧れを感じ取ったのは、小原愼司の『菫画報』という作品である。主人公のスミレは高校の新聞部で活動しながらも、喫煙常習犯であり、大ざっぱな性格からまともな高校生活を送っているようには見えない。彼女を陰日向と支えていく……というより犬のように付き添っていくのは万能高校生である上小路鉱二であるが、彼の不憫さは置いておこう。彼女らに共通するのは、学校という社会的な存在が規定したルールに対し、自らの行動規範を優先していくことに躊躇しないことである。それに対し表面上は真面目系クズであったオタクである私などは、作り上げられたレールから外れていくことの恐怖感が全てを優先してしまうのである。そのレールの上を歩んでいくこと自体の大変さだってわかっているのだが、フィクション上ではレールから華麗に外れることに憧れていく。ヤンキー的な概念が普遍化されているという論点は、規律から外れていくことが一つの指標であり思想の発動であった時代とは違い、規律からの逸脱自体に意味を見出すのではなく別の事象に自らを置く強さを体現しているのかもしれない。彼女らの行動を漫画として読んでいるとそう思えてくるし、そうであるがゆえの憧れでもある。

 とはいえ、これはフィクション内での話である。現実世界で社会性のない人を見ると男女問わず幻滅しているので悪しからず。現実世界ではルールを越えてみたら、その先には別のルールが存在するか、もしくは抜け出したと思いきやルールに縛られたままであったりする。現実は厳しい。やはり物語では、ヒロインが主人公が見事にさらりとリアリティなど越えてくれないとね。

菫画報(1) (アフタヌーンコミックス)

研修旅行の様子(遅ればせながら)

1年次の学生には「毎日更新!」と言っておきながら、教員は遅れがちなブログです。

4月23日〜24日に行われた岩手県平泉町&盛岡市への研修旅行の写真をアップします。

皆様、ご覧あれ。

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出発!DSC_0093

初日お昼ごはん。Ayuです

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おちゃめな山川先生 その1
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猊鼻渓舟下りへGo!
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舟下り中もスマホに夢中の玉井先生。翌日、発熱。
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舟下り
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元気すぎるぜ1年坊!
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運玉を投げる
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これが運玉
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あの穴に向かって投げます。1名、入ったそうです
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ラブラブ?
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中尊寺金色堂です
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桜が満開
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中尊寺を見学中
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案内してくださった三浦さん
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中尊寺本堂にお参りする石川先生。真剣です
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夕食!
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夕食を食べる1年男子
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盛岡も晴天でした!
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美しいぜ盛岡
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池田先生、飛塚さんとともに光原社へ
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宮沢賢治『注文の多い料理店』出版の地の石碑
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『銀河鉄道の夜』の草稿。実は私、このマンガ化を担当したことがあります
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盛岡市内で60年営業しているというおもちゃ屋さん
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盛岡ランチは焼き肉!
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盛岡も桜が満開でした
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えさし藤原の郷なう
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真剣に聞き入る教員と学生たち
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おちゃめな山川先生 その2
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おちゃめな山川先生 その3 未来予想図・・・?
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特撮撮影に遭遇
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休む悪役たち
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見守る学生たち
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見守る学生たちと山川先生
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これが藤原氏の棺から発見された蓮の種を栽培した蓮なのです
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ほとんど枯れていたけれども
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えさし藤原の郷はいろいろな時代劇の撮影に使われたそうです
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帰りのバス。でもわりと元気な学生たち

松智洋さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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 先ほど松智洋さんの訃報に接して、茫然自失となってしまった。はじめてお会いしたときは私はまだ大学院生だったか、前任校で仕事を始めたぐらいのときであった。松さんは『迷い猫オーバーラン!』を怒涛のごとく刊行されている時期だったような気がする。当然のごとく、私はちんけな若造であるので松さんの記憶には残っていないだろうと思っていたが、そのあと別件でお会いした際に「久しぶり!」と声をかけていただいたことは非常にうれしかったことを覚えている。縁はまだまだ続く。その後、私は現在の東北芸術工科大学芸術学部文芸学科に赴任したのだが、そこでライトノベルの授業の特別講師として来られていたのが、松智洋さんであった。また、「久しぶり!」である。そして次に「就職おめでとう!」であった。

 松さんは常に他人のことを気に掛ける人で、コミケ会場やそのほかで会ったときにも「こないだの授業に来ていたあいつはどうなった?」、「ちゃんと書かしているかい?」と立ち話でうちの学生を心配してくださるのだ。「いい作家を育てろよ」、「玉井さんがこれはいけると思ったら、すぐに紹介しろ」と有形無形な感じで教育者としてはペーペーの私に発破をかけてくれた。『文芸ラジオ』創刊号をお送りしたら、「俺の授業を受けたやつが小説を書いているじゃないか!」と読み、「俺の授業を本当に聞いていたのか!?」と読後に笑いながら言っていた。授業も非常にアグレッシブで、経験と理論、そして誰も越えられない努力を土台にした言葉を学生に投げていただき、参加した学生に大きな刺激を与えてくれた。「ライトノベル作家だから」となめてかかる文学青年に対して「きみ、面白いねえ」と言ってにこにこしながら学生の話を聞いていたことを覚えている。にこにこではないか。にやにやかな。

 思い出はたくさんあるのに言葉が上手く続かない。私のできる恩返しは出版業界に学生たちを送り込み、死後の世界で会った松さんに「どうですか、やってやりましたよ」と言うことである。そして以前、「飯を食おうか」と店の前まで行ったはいいが満席で入れなかった焼肉を、一緒に食べることである。「今度、あの店の焼肉に行こう。美味しいんだ」と言ってくれた「今度」はまだまだ先延ばしである。松智洋さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

「悲しみってやつを夏色に変えて」

 四月はこれまでになく異様に忙しかった。季節の変わり目による体に重く圧し掛かる負荷と例年より早めた研修旅行による疲労とで、連休の合間に存在する平日は東京の自宅でダウンしていた。今年、東北芸術工科大学は連休に次ぐ連休なのである。平日も休みなのだ。学生の皆さんも遊びに課題に、そして文芸ラジオ編集部は仕事にと忙しく飛び回っているであろう。しかし、私は「レン・キュウ(薬師丸ひろ子風に)」という甘美な響きを脳内でもてあそぶ余裕などなく寝転がっていたのである。それにしても東京は暖かい。この暖かさが次第に体をほぐしていくのを心地よく感じている。あたたかい(カールビンソン風に)。

宇宙家族カールビンソン (1) (講談社漫画文庫)

 その忙しさに拍車をかけているのが、授業準備である。もう3年目なのだから、これまでの蓄積で話をすればよいではないか、と思うであろう。私だって楽できるところは楽したい。人間なのだからそこは当然である。しかし、受講する学生は毎年かわるし、世間の動向だってかわっていく。その中で同じものを九官鳥のように垂れ流していくことに納得ができない。作品読解・表現論という授業がある。以前にも書いたが通称「選」と呼ばれる授業で教員がセレクトした短編を毎週、講読していく授業である。これは15回分全て変更している。そのとき、そのときの私の興味関心と世間で発表された作品群とで授業内容は有機的に変化していく。もう一つ大幅に変えたのは創作演習1である。これは複数の教員で回しているのだが、私が主担当の回は昨年とは90%以上変わっている。そのためには様々な本を買い、読み、買い、読み、自分で咀嚼し、授業で喋るということをしている。

 教員としては当然のことなので、特に同情を買おうとしているわけではない。その創作演習の後期では書評や評論を取り扱っていく授業内容へと変化していくのだが、毎年、閉口する文章があがってくる。「ぜひ、一度は手に取ってください」、「本屋で見かけたら気にかけて欲しい」、「時間があれば一読して欲しい」という言葉で必ず締めくくられるのである。初年度、この一文が最後に書かれている課題をたくさん読んでしまい、「絶対にこの本を読んでなんかやらないぞ」と誓ったのだが、学生が書評で取り上げる本は全部読んでいたので、その誓いすら成立しなかった。今年は初回の授業でこのような内容は必要ないと公言したので減ることであろう。もし書くのであれば、その一文に意味のある文章構成を取ってほしい。

 おそらくはこの一文を入れてしまう背景にはコミュニケーション過多があるのではないだろうか。もしくはコミュニケーションに過敏になっているのかもしれない。土井隆義さんの『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』(岩波書店、2009年)を読むとわかるが、今の学生たちは高校までに存在するクラス内におけるカースト的な関係性を経験するとともに、その階層内の人間関係においていわゆる「空気を読む」という訓練を自然と身につけている。そしてその「空気を読む」ために活用されるのが、自らのキャラ化である。書評の授業というのは、否応もなく取り上げた作品により個々人の感性が他者に知れ渡ってしまうことになる。その際、暴走して、よくわからない作品を取り上げているわけではなく、読み手のあなた(というか、学科内の学生)にも気を使っていますよというサインとして語尾に読者への問いかけを書いているのである。違うかもしれないが、どちらにせよ、読者への挑戦はクイーンぐらいにしてほしいものである。

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

 何だか愚痴っぽくなってしまった。玉井の愚痴などどうでもよくて、この連休は本屋に行き、本や雑誌を買いましょう。そこには店員さんが、ぜひ手に取ってほしいと思っている新刊があります(読み手への気遣いを真似てみた)。具体的には石川忠司『吉田松陰 天皇の原像』という本が4月に出ています(石川先生にも気を使ってみた)。解説は山川健一さんです(山川先生にも気を使っている)。

吉田松陰 天皇の原像
吉田松陰 天皇の原像

石川 忠司
幻冬舎 (2016-04-15)
売り上げランキング: 725,611

 

BGM:エレファントカシマシ「はじまりは今」

愛と夢