冬の太陽
原田圭 Kei Harada
[大学院 洋画領域]
渡邉英 Hana Watanabe
[大学院 コンテンツ・プロデュース領域]
1. 研究概要
本研究は、2010 ~ 2011 年に渡り「観光資源のリノベーション」をテーマに宮城県松島町の地を舞台に、イベントプロデュースなどを実践・検証しそれらをもとに観光地再生プログラムの研究をしたものである。
松島は伊達政宗縁の国宝・瑞巌寺をはじめとした歴史的文化遺産が点在し、松島湾に浮かぶ260余りの島が風景美を生み出し日本三景の一つとして全国に知られた景勝地である。しかし近年、年間観光客入込数は、下降傾向にあり何らかの対応が求められている。そこで、既存の観光のあり方を抽出・分析し、松島の歴史や文化、宗教、食、人々の営みを通して、新たな観光資源の魅力を発掘する研究に取り組んだ。
しかし、2011年3月11日の東日本大震災を受け、「新たな試みにより観光客の増加につなげていくこと」を主軸においた2010年の研究から、観光客の増加は念頭に置きつつも、「観光都市としての再生と復興を主軸にした観光リノベーション」をテーマに研究を一部変更した。松島における観光のあり方や、方向性を、現況と照らし合わせながら検証していく。
2. 松島観光の課題と問題点
そもそも、観光の主体は団体旅行から個人旅行へと移る転換期にあったが、「日本三景」というブランド力により、コンスタントに観光客が訪れていた現状に満足し、団体旅行中心のマスツーリズムから舵取りを変更できずにいた。観光客は、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」が放映された昭和62年の546万人をピークに減少、平成10年以降は360万人から370万人で推移している。
3. 実践的研究
そこで、既存の問題点を検証し活性化を図る方法論を模索するため、新たな観光資源開発への取り組みを実践した。瑞巌寺に隣接する寺院、臨済宗妙心寺派・円通院と本校のコラボレーションイベント「松島紅葉ライトアップ」を開催。
概要は、演出の一つとして、境内にある杉林の庭園を、本校のプロダクトデザイン学科・西澤准教授、協力の下「秋の蛍」をテーマに空間演出を行うというものだ。2010年度は本校とコラボレーションすることにより話題性を高め、例年よりも多くのマスメディアに取り上げられた。拝観者数は、46,820人と2009年対比138%となり興行的にも成功した。また、2011年も継続してイベント実施が決定。次年度に向けて関係者と協議を重ねる事ができた。
4. 震災後の実践的研究
大震災と原発事故による東北一帯の観光需要の冷え込みは、松島においても深刻な経済活動の停滞を招いた。円通院が母体の土産物屋兼、飲食店「洗心庵」も休業を余儀なくされる。そこで打開策の要望を受け、協議を重ねた結果、松島の文化的発信拠点とするプロジェクトが持ち上がる。提案を行い関係者と協議をした結果、現在ワークショップを定期的に開催。松島の体験型観光発信拠点として「蝋燭・苔玉づくり体験」が行われ、若い世代から一定の支持を得る。
震災後の被災地において「松島紅葉ライトアップ2011」は、開催に漕ぎ着けるまで様々な紆余曲折があった。しかし、被災者からの強い要望により開催は5月に採択された。人々に癒しを与え楽しめる空間づくりをテーマに、ポスター、チラシなどの広報物を作成することになった。そこで私が提示したコピーは「希望、灯す。」であった。2010年より客足は減少したものの例年より4日期間を短くした点を考慮すると33,597人の拝観者数はまずまずの成果であった。被災観光地において、例年並の観客動員数を実現できたことにより、一つの壁を乗り越えるイベントの実施になった。
5. 松島観光復興の展望
一方で、「松島流灯会 海の盆」という夏祭りにおいて、若い事業者達の新たな取り組みが行われた。そのことは、今後の松島観光にとって大変有望な取り組みになるであろう。
なぜならば、次世代を担う若い住民達の「自発的な思い」によって、より良い「町づくり」への議論が取り仕切られ、既存の松島観光における問題点に住民自らが警鐘を鳴らし、ようやく一つのアンチテーゼが提言されたからだ。
かつて、地元企業ではない観光業者が主体で取り仕切っていたイベントを、自分たちの手に取り戻し、未来の「松島の子供達」に向けて伝承するべく「美しい日本の祭り」をもう一度復活させた。
その「未来への種まき」と彼らが呼ぶ、つつましくも壮大な取り組みは、まだ始動したばかりである。しかし今後、永年に渡って「住民達の強い意志」で着実に根付いていくことだろう。
6. 結論
包括的にみると、試行錯誤した結果得られた人々との接点や、小規模なプロジェクトを実施した上での検証結果は「机上のプラン」では得ることはできない貴重なものとなった。プロジェクトを実施したことで見えてきた問題点や課題克服への鍵は、今後の松島観光の方向性を探る上で、一つの分析結果として提示できるであろう。
その上で、今後の松島における、「観光資源のリノベーションプラン」として私が提唱していきたいのは、短期的ビジョンとして、「松島紅葉ライトアップ」や、体験型観光のワークショップ、魅力的なショップ、ギャラリーづくりを通じて、仙台市や近郊の町をターゲットとしたリピーターの獲得を目指し、松島のファン層を厚くしていくことである。
そして、長期的ビジョンとして、「奥州の霊場」としての視点に立ち返り、高尚な品格を備えた「文化的発信拠点」を目指し、「街並みの美しさ」や「街歩きの楽しさ」を念頭に置いた「住民主体」で行う観光振興の取り組みを押し進めていくことを強く提唱する。
宮城加奈子 Kanako Miyagi
[美術史・文化財保存修復学科]
1.はじめに
平成22年度5月、青森県立美術館より林田嶺一作「満州ポップ」シリーズのうち2点を、文化財保存修復研究センターでお預かりする運びとなった。その内一点を私が卒業研究として保存修復処置を担当させて頂いた。林田作品の多くは「満州ポップシリーズ」といわれる作品郡で、本作も同シリーズの作品である。「満州ポップシリーズ」とは、満州から日本へ引き揚げるまでの幼児体験の記憶と体験をもとに描いた連作である。
2.研究目的
本卒業研究では、今後の展示に耐えうる強度の回復を目的とした処置を行うこと、同時に耐久性に劣る素材が用いられている現代美術作品の保存修復について考察しながら保存修復処置を行うことを目的とした。
3.作家略歴
1933年 旧満州国懐徳県公州嶺泉町(現:中国吉林省公嶺市)で生まれ、後に大連へ移る
1944年(11歳) 京城(現:ソウル)に移る
1945年(12歳) 終戦後日本に帰国し留萌町礼受(北海道)に着く
1954年(21歳) 北海道庁に勤務
1999年(66歳) 大麻公民館(江別市)にて個展開催
2001年(68歳) 『キリンアートアワード2001』「優秀賞」を受賞
2005年(72歳) 『林田嶺一ポップアート展』開催(江別市)
2010年(77歳) 北海道江別市在住
4.作品概要
作品名:とある玩具店のショーウィンドーケース(軍医と戦闘機と負傷者難民「キャラクター」)
制作開始年:中央1985年/右1993年/左1993年
分類:ミクストメディア
寸法:最大高95.8㎝、最大幅178.7㎝、最大奥11.1㎝
重量:23.0㎏
使用された材料・素材:木材、プラスチック板・フィルム、金属板、接着剤(ビニル系、エポキシ系)、石膏、モデリングペースト、アクリル絵具、ポスターカラー、紙(印刷物)、ジッパー、キャンヴァス(コラージュに使用)、フィギュア など
5.損傷状態
作家は、独立した幾つかの作品を組み合わせて一つの作品としている。中央・右・左の3作品で構成されている本作も、その時々の表現により、現在とは異なる作品が組み合わせられていた時期があった。幾度にも及ぶこのような組み換えを一因とする構造の不具合により、各作品の接合箇所が脆弱化し、今後展示に耐えられなくなる可能性が考えられる。また、本作表絵画面は、プラスチックフィルムの支持体上にモデリングペーストと石膏などを混ぜ合わせた白色の下地層を作り、この上にアクリル絵具彩色層があるといった構造になっている。木枠表面には蛍光ポスターカラーによる彩色がある。作品表面における損傷の大部分は、これら白色下地層の剥離・浮き、ポスターカラー層の剥離・剥落である。
6.実施処置
上記処置提案に沿って、以下のような処置を行った。
作品表面への処置
■白色下地層とプラスチックフィルムの剥離留め
ディスペンスガンを使用して、スチレン・ブタジエンゴム系接着剤ジメチルエーテル希釈による剥離留めを行った。
■彩色層の剥離留め
ポスターカラーの剥離留めにはアクリル系接着剤キシレン25%を、アクリル絵具の剥離留めにはビニル系接着剤アセトン20%を使用して接着した。
■ドライクリーニング
ミュージアムクリーナー、刷毛を使用して堆積した塵埃を除去した。
■絵具層表面の洗浄・カビの除去
イオン交換水(42℃程度)を使用し、アクリル絵具層表面の洗浄、カビの除去を行った。
作品裏面への処置
■紙資料の剥離留め
紙資料の種類によってセルロース系接着剤イオン交換水3%、ビニル系接着剤アセトン25%を使い分け剥離留めを行った。
■構造の強化
中空アルミパイプを加工しフレームを作成し、作品裏に取り付けることで、作品全体の安定を図った。
7.おわりに
21世紀の「戦争画」として高く評価されている林田作品の社会的意義を考え作品の内に迫る機会を手にすることができたのは、非常に貴重な経験であった。同時に、現代作品における保存修復の難しさと面白さを学んだ。思うようには進まず右往左往する日々もあったが、無事に処置を終えることができたのは、藤原徹担当教授をはじめ多くの方々の御教授のお陰である。一年間、多方面で支えて下さった皆様に心より感謝申し上げたい。
※林田嶺一さんのポップアート作品の修復を共同研究をした石井千裕さん(左)と宮城加奈子さん(右)
(2010年度 美術史・文化財保存修復学科最優秀賞作品)
松田和之 Kazuyuki Matsuda
[歴史遺産学科]
1、研究目的
本研究では、中山間地である五味沢集落の水・水路に関する生業並びに生活利用に関する事例を研究対象にし、近代から現代にかけての五味沢集落での用水のサスティナブルな利用史を明らかにする。そして年代を経て利用が変容をしていくプロセスを導き出し、どのようにして変容をしていったかを明らかにする。
2、五味沢集落と水
五味沢集落は、豊富な水に恵まれた集落である。荒川、5つの沢が集落へと流れている。5つの沢は、五味沢沢、三明沢、沢ノリ沢、ジンタケ沢、石渡沢である。この5つの沢があることによって五味沢集落が大きく開けたと言っても過言ではない。豊富に水があったことにより多くの戸数を抱え、村を開くことが出来たと考えられる。
飲料水の変遷では、昭和20年代まで水路・沢を利用してきた。各家には、ミジャヤフネと呼ばれるシンクを作り、水を取水していた。本家筋の家は、特定の沢を利用し、その他の家は、水路から取水をしていた。その後昭和30年代に井戸が普及し始めた。昭和40年代になると、基盤整備・消火栓設置に伴い簡易水道化した。
3、利水と水路
五味沢集落では、木材運搬をするため河川・水路を使っていた。木材運搬は、木地の木材と薪であった。木地は、上杉氏の奨励があり、江戸時代から始まった。昭和10年代までお椀の製作から塗りまで一貫し生産をしていた。伐採地は、針生平から角楢小屋付近であった。伐採地から沢を使い流し、水路を通して集落へ運ばれた後、各家庭で荒型作りをした。荒型が作り終わると水力式の轆轤で削られた。その後昭和30年代に電力式の轆轤に変わっていった。ちょうどそのころから木地椀の使用の減少並びに用材を集めることが困難化した。木地は、昭和30年代に終焉を迎えた。
薪の運搬をする際は、組という共同組織で行われ、伐採は、すべての組で行った。組組織は、斎藤家・佐藤家・舟山家3軒が混ざりあった組分けがなされた。これら組は、薪流しだけではなく、ドウ場・冠婚葬祭などもこの組で行われた。薪の伐採地は、徳網集落奥の場所であった。伐採の後、11月まで棚積みして保管した。10月下旬になると薪流しの準備を行い、11月下旬に薪を集落まで流した。薪は、昭和30年代まで水運で集落まで運ばれ、その後トラックでの陸上運送へ変わっていった。薪の使用では、昭和45年度から囲炉裏から薪ストーブへ変わり始めた。昭和50年代にかけて燃料革命がおこり、薪から石油へと変わっていった。現在では、数軒のみが薪と石油ストーブを併用して使っているのみだ。
4、田んぼと水路
五味沢集落は、44haの田んぼが広がっている。五味沢集落の基盤整備は、昭和47年から3年間で行われた。基盤整備以前は、個人の田んぼへは、個人の水路のみを使い畝越しに配水していた。基盤整備によって、規格化された田んぼへと変わり、灌漑用水である水路も三面コンクリートで舗装された。そして、田んぼへの取水は、1つの田んぼに1つの取水口が取りつけられていった。田んぼの技術では、昭和20年代まで水苗代を作り、水を豊富に使用していた。昭和20年代以降、保温折衷苗代が作られるようになった。保温折衷苗代が入った頃から、テーラーなどの農機具が導入されてきた。昭和60年代になると、パレット式保温折衷苗代へと移行し、乗用式田植え機に対応した苗代作りへと変容をしていった。
5、生活と水路
五味沢集落では、沢水や水路から水を取水し、生活用水として使用をしてきた。取水した水は、トヨと呼ばれる樋をつたい、ミジャヤフネと呼ばれるシンクに水を溜め、流れている状態で使用されてきた。ミジャヤフネで使われた水は、各家にある沼に流れ、沼で飼われている鯉がゴミを食べ、浄化して水路へと戻された。
五味沢集落に流れる沢、水路などには、様々な生き物が住み着き、それを獲り、食料としても利用がなされてきた。利用がなされてきた生き物は、タニシ、ドジョウ、コイ、イワナ、マスであった。
集落では、ミジャヤフネや水路でワラビ・ウド・トチノミ・フキのアク抜き、山菜・マス・イワナ塩戻し、マメ・乾物山菜の水戻しなどを使ってきた。現在でも水路での山菜の塩戻しやアク抜きなどの利用が残されている。
6、結論
①水からつながる周辺環境と集落
観察していく中で、五味沢集落での沢・水路に関する利用は、非常に多岐にわたっていたこと、そして生業と深くつながりを持っていた。これら事象を見ていくと、水を核にして循環しており、持続可能なシステムを持っていたことが見て取れる。つまり、集落にとって沢・水路は、生活をする上でなくてはならないものであり、生活の大動脈であった。そして里山・奥山との生活的交流・交通がなくては生活が成り立たなかった。沢・水路は、集落の中で完結するものではなく、周辺環境と深くつながりを持っていったと言えよう。
②変容した水利用と集落
生活と深くつながっていた沢・水路は、社会システムが変化するにつれて、利用体系も大きな変化を遂げていった。社会システムは、自然環境にも影響を与え、その環境を変化させた。そして社会システム・自然環境の変化は、集落における水利用をも変えていった。沢・水路の利用は、少しずつ失われていき、生活とのつながりも希薄化していった。そして集落にとっての生活の大動脈であった沢・水路と関係は疎遠となり、沢・流水を通して集落と周辺環境と深いつながりも少なくなっていった。
(2010年度 歴史遺産学科最優秀賞作品)
大平由香理 Yukari Ohira
[日本画コース]
宮島達男 評
原色で描かれた赤い空、自然の底知れない力強さを感じさせる筆力。彼女の絵からは、自身が語る「狂気に至るような自然の荒々しさ」が伝わってきます。岐阜県出身の彼女が強い印象を受けたという、山形の自然環境、山の力強さが、荒ぶる魂が襲いかかってくるような所まで高められていて、とても迫力があります。赤くグニュグニュとしたものが空までを被っていて、宇宙と一体になった自然、みたいなものが満遍なく表現されていますね。日本画には珍しくテクスチャがごつごつとしていて、それが自然の荒々しさを表現する上で欠かせない要素となっています。何にせよ、この巨大さ。圧倒的なエネルギー。今しか描けないであろうパワーを感じます。
(2010年度 日本画コース最優秀賞作品)
今野真莉絵 Marie Konno
[工芸コース]
酒井忠康 評
僕たち日本人は自然からヒントを得ることが多い。人間と人間、人間と社会の関係を意識して自分を鍛える方向にいきがちな欧米人は、神様のような存在がないと自分をコントロールしてもらえないけど、日本人は黙って自然に心を寄せれば「おまえ、ちょっと慌てているよ」と言ってもらえるでしょう。だけど、それだけでは仕事になりません。「作品を創っていく中で、自然と自分の共生以外に、人と人とのつながりもあるということに気づいた」という彼女の作品は、人間的な問題と、人間以外の外的な世界が合体されています。それはとても大事なこと。若く、貪欲にいろんなものを吸収しようというエネルギーと、潔さ、作品の中に自然に入っていけるところが凄くいいですね。
(2010年度 工芸コース最優秀賞作品)
平家千絵 Chie Hiraka
[プロダクトデザイン学科]
(2010年度 プロダクトデザイン学科最優秀賞作品)
野呂光平 Kohei Noro
[建築・環境デザイン学科]
(2010年度 建築・環境デザイン学科最優秀賞作品)