東北復興支援機構 | TRSO

『Lunch Time』プロジェクトの報告

TRSOは今年4月、フランスを代表する国際的なアーティストで、フランス国立藝術大学教授のジャンリュック・ヴィルムート氏(Jean-Luc Vilmouth)と西村麻美氏が、3.11で甚大な被害を受けた宮城県山元町で制作した映像作品『Lunch Time』をサポートしました。ヴェルムート教授の指導のもと、撮影・音声・映像編集のテクニカルスタッフとして活動した本学学生を快く受け入れてくださった山元町の皆様に心より御礼を申し上げます。以下、ヴィルムート氏と西村氏による活動報告を掲載いたします。

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 2011年の7月、韓国でアーティスト・イン・レジデンスをしている時に、在日フランス大使館から東北の震災復興の展覧会「東京フォト2011」の参加の要請がありました。私は、数年前から一緒に作品作りをしている美術作家の西村麻美と共に写真作品の撮影に東北へ行くことにしました。彼女とは、2011年4月にも、東北への寄付金を募るドローイング展をパリで一緒に企画していたからです。東北にあまり詳しくない私たちは、山形にある東北芸術工科大学で教鞭を執るアーティストの宮島達男氏に相談。大学としてサポートしてもらえることとなりました。

 東北初日、私と西村は電車に乗り宮城県沿岸部の最南端、福島県の県境にある山元町をめざしました。途中、線路が流されていたために電車は運行しておらず、連絡バスでようやく山元町役場へたどり着きました。山元町は、福島第一原子力発電所から50キロほど離れた場所にあり、人口は1万7千人、2011年3月11日の震災で死者700名にものぼり、今では街で生活する人は1万人ほどしかいません。山元町は国道6号線をはさみ、津波被害のほとんどなかった山側と、逆に甚大な津波被害を受けた浜側に分けられます。浜側は津波がきて数分でほとんどすべて波にさらわれ、1千戸ほどの家が全壊しました。2011年7月の時点で、浜側の殆どが危険区域に指定され、人があまりいない場所でした。それでも、私たちは道なき道を歩き、壊れた橋を越え、海へと向いました。海に向う途中、幾つか残る壊れた家や巨大な津波の爪痕を感じさせる広大な荒野の風景が強く心に刻まれました。

 途中、危険区域の境界に小さな商店がありました。人気のない場所に自販機の光だけが際立っていました。客がいない店の中では、二人の店員とおぼしき女性が話しをしていました。彼女たちは外国から来た私たちを見て最初は驚いた様子でしたが、少しずつ打ち解け、話しをして下さいました。その店は家族で営む「橋元商店」といい、震災後、数ヶ月で、ご主人の伸一さんと家族の方は力を合わせ、再開されたそうです。伸一さんは、私達を車で街案内してくれました。彼は「みんなにこの様子を知ってもらいたいし、そのことは自分たちの将来にとってとても大切なこと」と言い、翌日も仕事を休んで、街案内を引き受けてくれました。

 私達は話し合いました。-今まであった生活をなくした空虚な状況をどのように伝えたらいいのか。それでも、何もなくなった大地の上に、自由に咲く花や天へと真っすぐに伸びる草木に、新たな命の存在も感じさせるにはどうしたらいいのか。- 映画を撮るにあたり、この山元町の風景の印象は大きかった。パリに帰ったあとも私は山元町の事が頭から離れなかった。そして、宮島氏とも連絡を取り合いながら、最終的に東北芸術工科大学の映像学科の学生たちにも手伝ってもらいながら、山元町の風景とそこに住む人々の姿を記録した映像作品を作りあげたいと提案をし、それが受け入れられたのです。

 私たちは、プロジェクト実現のために、他の機関からもサポートを受け、2012年4月に日本に再び訪れることができました。東北芸術工科大学では、加藤到教授のご尽力により、映像学科3年生のガイダンスでプロジェクト企画意図を紹介させてもらうことができました。幸い、数名の学生から参加したいとの希望があり、彼らと共に1ヶ月以上、山形と山元町を往復しながら撮影を進めていくことになりました。山元町へ行く前、学生たちとどのような趣旨でどのような映像を撮るか十分に話し合いました。そして、4年生の大塚君と岡君が中心となり、必要な機材や撮影スタッフの調整をしてくれました。3年生の金森さんは大塚君、岡君と同様、最初からプロジェクトに参加、主に録音を担当してくれました。

4/13の週に初めて学生たちとカメラを持って山元町に入りました。毎日、早朝から日が暮れるまで、街を回り、人々と会い、話しを伺う。そして、終ったら滞在先に戻り、学生たちと共に今日の出来事や翌日に向けての話し合いを行う、そんな繰り返しでした。その中で、学生達は毎朝5時か6時には起床。機材の準備、カメラの掃除など行い、日中の撮影を経て、夜には機材の入念なチェックを行っていました。

 山元町での私達の宿泊については、普門寺という地元のお寺のご住職である坂野文俊さんのご厚意により、そのお寺兼自宅に泊めて頂きました。お寺の脇には、ボランティアセンター(通称:テラセン)があり、彼は震災直後から街の復興に向けて尽力されておられる方です。私たちが滞在中、彼は一緒に食卓を囲み、街の様子やボランティアの話など多くのことを話してくださいました。

 今回、奇跡的にも地元の方々と協力しながら作品が作れたことに大変感謝しています。一緒に起きて、ご飯を食べ、同じお風呂に入る。そんな何気ないことなのですが、一瞬でも同じ屋根の下で小さな家族として暮らしながら撮影ができたことは言葉では説明できない貴重な体験であり、日々、多くのことを学びました。現地に滞在することで出会った武田良子さんと菊池洋子さん。彼女たちは山元町で自然保護や民話の会などの活動をしています。彼女たちの紹介で、実に多くの被災された地元の方々に話をすることができ、インタビューや撮影にも協力していただけることができました。大切なものをなくされた方々にとって、それらを思い出すことは大変つらいことであることが、取材をしながら痛いほど伝わってきました。また、住民の多くが被災されている状況で、周囲に心情を話せないつらさという事もあるようでした。

 4/21には「Lunch Time」の本番撮影を行いました。この撮影には、映像学科学生以外にも学生有志がスタッフとして手伝いに来てくれました。「Lunch Time」の撮影は、山と浜の中間地点で、1千戸の家が流され、広大な荒野となっている場所で行いました。楽しく過ごしていた日常のあった場所、家、家族、友人の思い出、あるはずの美しいものがすべてないという過酷な状況のなかで「Lunch Time」の趣旨を住民の方々に説明をし、参加者を募りました。

実際、「Lunch Time」撮影の趣旨を理解できないという方がいても不思議ではない状況でしたので、私たちは色々な場所を訪問し、多くの方々に会い、私たちの企画への思いやコンセプトを伝えることはとても重要な作業でした。中には、「すべてが津波によって流された跡地での撮影場所に足を踏み入れたくない」と断った方もいました。が、私達の想いを理解してくれたのか、結局30名ほどの住民の方々に参加していただくことができました。彼らは、みんな厳しい日常生活に追われている状況の中で、同じ時間を共有し、顔なじみの人や知らない人同士がカメラの前でご飯を食べて話しをしてもらうという撮影でしたが、そのため、出来る限り信頼関係を築くこと、プロジェクトを理解してもらうことを心がけました。
 ご飯を食べながらも、そこに住んでいた人の記憶だとか、過ごした時間の思い出が蘇り、感傷的な気持ちになった方もいらっしゃいました。「Lunch Time」は、すべての前提として「招待」があり、出会いの場、交流の場であり、思い出す場所なのです。震災後の状況の中でも、海の前に「私たちがいる」ということ。すべてがなぎ倒された風景の中でも、まだ、私たちが存在しているということ。50キロ先には福島第一原子力発電所があるこの場所で、新しい問題と向き合って生きてゆくこと。このように、「Lunch Time」は「記憶と、なくした過去とともに、将来をどう選択し、どのようにここで生きるのか」ということを見るもの考えさせます。

 「Lunch Time」は「命の表明」と私達はとらえています。「Lunch Time」撮影時の料理は各自3月11日の津波の前、最後に食べた食事を再現したものでした。食事をしながら思い出や疑問、将来への不安などを語り合っていただきました。山元町の役場は浜側を危険な区域として新しく家を建てることを禁止しています。今まで住んでいた人や、希望を持って家を直して住みはじめているひとにとって非常に困難な状況であるといえます。私達は、このような悲劇的な状況である山元町で、良い未来への話しをしながら、料理をしたり食事したりしているところ、すべてを記録していきました。

 「Lunch Time」は、数分ですべてを失った大きなトラウマを抱えながら生活している人々にとって、今なにが起こっているのかを話し合う場となりました。声がけを広く行ったので参加者のなかには、普段面識の少ない他の地区の人々も集まり、新しい出会いもありました。震災からこれまで自粛の雰囲気や精神的に「それどころではなかった」ということもあり住民同士のコミュミケーションがほぼ断絶された状態にあったようです。参加された方から「再会に感謝」の言葉もいただきました。そして役場の方や街の様々な地区の方が自由に話す機会にもなったようで、コミュニケーション不足からくる問題も、だんだんと相互理解が進められている様子でした。天気が良かったのと、久しぶりの再会、新しい出会いなど、話しは尽きず、予定の1時間を大きく上回り、結局、計2時間半に及ぶ撮影となりました。

 「アーティストは何も使えるものを生み出さない」とよく言われます。そう考えるのも仕方がないと思っています。でも、私たちはこの地球でどのように生きていくのかということをいつも考えています。私たちの企画は、そのプロセスで何も強制的に行っていませんし、原因を究明するという目的もありません。私達は、ただ、現状を記録していったのです。願わくば、この映像作品が、見る人に、「被災した人々の感情」や「現状への疑問」を考えるきっかけを与えられたら、そして、「人間らしさ」を伝えられたらと思っています。

 今回のプロジェクトを通して学生たちは、現実世界の問題やそこに住む人々と正面から向き合ったゆえに、原発事故や地域社会の問題などを決して他人事ではなく、現実のものとして真剣に考えだしているようでした。私はパリ国立高等学校で教授をしています。その長年の経験から言えることは、学生たちが多くの問題に直面して疑問を抱き、現実の問題を正面から考えるような状況を体験し、また、作家と一緒に制作しながら学んでゆくことはとても貴重な体験だと考えています。今回、学生たちや山元町の方々と一緒に作品を作ってきたわけですが、彼らが私達と同じ気持ちでいてくれることを願っています。また、映像学科の学生たちの大きな技術サポートにより、私たちは監督の立場として集中して撮影することができました。大変、感謝しています。ありがとうございました。そして、山元町のみなさん、東北芸術工科大学、笹川財団、在日フランス大使館、ご協力、本当にありがとうございました。

ジャンリュック・ヴィルムート+西村麻美