世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺2:乙一と物語論

 「もっと作者を前面に押し出してほしい」と編集に言われてしまったのは、だいたい第1章から第5章を書き上げたあたりであった(『幼なじみ萌え』の目次はこちら)。書き始める前に言われていたことは「学術論文のようには書かない」、「一般向けに書くこと」の2点ぐらいであったので、淡々と「幼なじみ」に関するフィクションを歴史的にざっと追っていったことになる。そこまでは否応もなく、事実を並べていくので、平易に書こうが何をしようがある程度は単調になる。しかし、そこを通過したら、その手法は通用しないということを、やんわりと伝えられたのである。

 さて困った。皆さんが頷くかどうかは置いておいて、論文は慣れているので特に書くことでは困らない。論文の内容や文体を崩していくことも一連の流れの中でできる作業であろう。しかし書き手自身が、その文章におけるテーマよりも前面に出てくることは、実は未経験である。より具体的に言えばblogを書いていた学生時代には、それが出来ていたのかもしれないが、現状、自分の名前で発表している文章はそのようなことを想定していないものばかりである。困った。

 そこで思い出したのは、作家の乙一が自分自身の創作理論を書いた文章である。日本推理作家協会編『ミステリーの書き方』(幻冬舎)に掲載されているものなのだが、そこでは極めてシンプルであるがゆえに高度な話が書かれている。シド・フィールドを中心としたハリウッドの脚本術がベースになっているため、まずはそちらを理解したほうがいいのかもしれない(ちなみにシド・フィールドの『映画を書く~』は2のほうがまとまっている気がする)。ハリウッドのほうは俗に三幕構成と呼ばれている理論であり、乙一はそれを発展させて真ん中の第二幕を二つに割っている。脚本術では第二幕が間延びしないように真ん中にミッドポイントを設定し、作者がそれを意識して、そこに至るまでとそこから第二のプロットポイントまでを書いていくのだが、ミッドポイントは単なる指標として考えられている。乙一の場合、物語を4つに分ける。となると間に3つの物語の転換する場所(乙一は変曲点としている)が存在することになる。したがって、物語のスタートとゴールを決めたら、変曲点でぐるぐると曲げていくとよい。ということになる。ミッドポイントも曲げてしまうのだ。

 いや、できないよ。これができたら苦労しないよ。変曲点で物語を動かしていくことを簡単にできるように書いているが、実際取り組んでみると難しい。物語の一本の紐に例えると最初は真っすぐだったものを変曲点と決めたところで、ぐにゃっと曲げるわけだ。結果として三回も曲がったジェットコースターが出来上がる……。のだが、多くは曲げすぎて紐が切れたりする。もしくは曲げの角度が小さくて、ジェットコースターに乗っているお客さんが物足りない感じになってしまう。2017年度後期のゼミでも乙一の小説を読んで検討したのだが(読んだのは別ペンネーム中田永一の作品)、「シンプルでわかりやすいが、やはり難しい」という結論になってしまった。

 この話と『幼なじみ萌え』と何が関係するのかというと、乙一は文章の中でこの理論はエッセイなど小説以外でも使えると書いていたのだ。なるほど、使えるかもしれない。そこで恐る恐る第6章以降、諸々考えながら書いていったのだ。もちろん右から左に乙一に従ったのではなく、文章量や内容を考えて変曲点(自分の頭の中では転換点と呼称していた)の数を変えたりしていたし、あとは経験値からくる勘(というか癖)もそのまま出した。もう一つのポイントとしては論文の場合、最初に取り組むであろうテーマ設定はそのままなのだが、書き出しを大幅に変更した。通常の論文の書き出しは、研究の学術的・社会的意義や先行研究の検討になるのだが、それは辞めにしたのである。「学術論文ではない」と言われていたので、そのフォーマットに従う必然性が元々なかったというのもある。あと転換点を生み出すには、別にスタートが当初の想定通りである必要性はない。曲げられないなら、曲がるようにスタートの位置を変えればいいのではないか。というわけで、この『幼なじみ萌え』の第6章以降は、そのような感じで書いていった。上手くいっているかどうかは実際に読んで欲しい。

 さて賢明なる人なら気付いたであろう。作者自身を文章の中で感じられるようになるかどうかは、これとはまた別の話なのである。