はるか昔の出来事のような記憶になりつつあるが、まだ2か月前のことである。授業をオンラインで進めることになり、1週間のテスト期間を経て2回の授業をしてもまったく慣れておらず、もはや何に対して戸惑っているのかすらわからないまま、とりあえず日々の授業と会議をこなしていた。twitterをのぞくと、様々な大学の学生が課題の多さに対する怨嗟のつぶやきをし、さまざまな大学の教員もまた単位評価のために課題を出さなければというつぶやきをしているのを、よく目にしたことを覚えている。
その点では東北芸術工科大学の文芸学科において、課題の分量はリアル世界で授業をしていたときからまったく変化していない。毎週(授業によっては隔週ぐらいで)課題が出され、毎週(結局、どれかの授業で課題を出しているので)課題への講評書きを教員である自分はしている。リアルだろうが、オンラインだろうが、授業としての作業量はあまり変わらず毎週大変なだけである。この作業量に関して、過去、何名かに「そんなにやってどうするんだ」のようなことを言われてしまったし、「でも楽勝でしょ」のようなことも言われたりもした。
そんなことを言われるたびに、何年かこなして作業に慣れたとはいえ、まだまだ時間のかかる自分自身に不甲斐なさを感じたりしていたのだが、オンラインに移行し、他の大学の教員が課題を出し、フィードバックに苦労しているのを見ると「同じですね」と思ったりしている。もちろん僕に言った人が直接twitterでつぶやいているわけではないので(そもそもtwitterをやっているのかも知らない)、自分自身の性格の悪さをそのまま書いているだけである。だからといって何かの優劣が出来上がったりすることはなく、毎週の授業をこなしていくだけである。そうはいうものの自分自身は録画・録音を事前にし編集作業を行っているわけではない。そのような人は事前準備の仕事量が膨大になっているであろうから頭が下がる。
大学に入ると様々な人がいて、いろいろなことを考えている。もちろん教員の中にも何年も前に言われたことを、うじうじとブログに書いている人もいる。別に何が良いも悪いもないので、臆することなく存在すればいい。という意味を込めて、第2回目の授業は似鳥鶏さんの「論理の傘は差しても濡れる」(『目を見て話せない』KADOKAWA、2019年)を取り上げた。ネットスラング的な意味においての「コミュ障」な主人公が、推理をし、日常の謎を解決していく作品である。この作品のポイントはもちろん「コミュ障」になる。
学生の皆さんは気楽にコミュ障という言葉を使っている。もちろんそれこそがスラングである所以なわけなので別に良いのだが、とはいえ創作する段階になって突然、等身大の自分自身を反映させた主人公を描こうとしてしまう。すると出来上がるのは、自ら行動に移すことのない消極的な人物が、なぜかいざという時に活躍するという物語である。普段ダメなやつは、いざというときもダメに決まってるじゃないか。
この作品はその点を上手くクリアしていて、コミュ障であるがゆえに大学生活の初日から自己紹介が満足にできず、lineのID交換を誰ともできない。目から汗が出る事態である。しかし、謎に対する嗅覚と解決に希求していく姿勢は、非常に秀逸であり、物語を支える主人公の行動規範となっている。そう、変なやつだけど、すごいんだよ。この作品を取り上げた理由は、決して「コミュ障でもいい」とかいう短絡的なものではない。このような主人公を描くことの大変さを、創作する側として考えて欲しいという点のほうが大きい。
〇これまでの作品読解の記録
作品読解第1回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/722
2019年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/668
2018年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/591
2017年度(途中まで) http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/531
2016年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/401