2013.04.09
対話:石川直樹+宮本武典『得体のしれないものを受け入れる ― 震災と異人』
2012年6月に開催した写真展『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』会場で、写真家の石川直樹氏と、TRSOディレクター宮本武典によっておこなわれた公開対話(2012/06/29)採録を以下に掲載します。なお、両氏の対話は東北芸術工科大学ギャラリーで同時開催された石川氏によるもう一つの個展『異人 the stranger』で後半部がおこなわれています。全編通しての採録記録は、本学美術館大学センターのブログ(http://blog.tuad.ac.jp/stranger/ )もしくは『TUAD as Museum : Annual Report 2012』PDF版をダウンロード(http://www.tuad.ac.jp/museum/annualreport/index.html …)して読むことができます。合せてご覧ください。
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PHOTOS © Naoki Ishikawa
『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』
公開採録=2012年6月29日[金]14時〜15時30分/東北復興支援機構
宮本 東日本大震災の発生から、1年と3ヶ月が過ぎました。僕は自分の日常に向き合う余裕をやっともてるようになったところですが、石川さんの写真をじっくりと拝見して、改めて「あのときの感覚」に引き戻されたような感じです。今日はトークがはじまる1時間くらい前からたくさんの方が来場くださり、静かに写真をご覧になっていました。僕と同じような感覚を抱いた人も、きっと多いのではないかと思います。
ここに展示されている『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』の写真群についてお話を伺う前に、まず石川さんの2011年3月11日を振り返っていただくところからはじめたいのですが。
石川 2011年2月から3月の上旬にかけて南極に滞在していました。南極半島を船でまわりながら旅をして、帰国したのが地震前日の3月10日です。長く船に乗っていたから、数日間は船の揺れの感覚がとれなくて、陸地にいても丘酔いが続いているような状態でした。
そうしたら11日の午後、ちょうど出版社の人と打合せしているときに本当の地震がきて、東京もかなり揺れました。電信柱がグネグネするような感じで、僕らがいた中目黒の喫茶店も棚からものが落ちてきたりしました。すぐに打合せを中断して自宅に帰ろうとしたのですが電車は動いていなかったのでバスに乗りました。
バスの車内ではみんな携帯で映像を見ていて、「ものすごい津波がきた」とか「東京でも火災が起きている」とか口々に騒いでいました。自宅に帰るとすぐテレビをつけてニュースを見たのですが、状況がすごいスピードで流れていて、東北でいったい何が起きているのかよく分からなかったですね。いろいろな人がいろいろなことをいっている。
僕は自分の身体をそこに置いて理解して、ようやく言葉を発することができるという世界の理解の仕方をしてきたので、このときも二次的、三次的な情報で状況を判断するのではなくて、自分でそこに行ってみないと分からないと思って、担げるだけの支援物資をリュックサックに詰めて、地震の翌々日に北に向かいました。「道路は寸断されているし、飛行機も乗れない」とか、「沿岸部はどこもアクセス不可能な状態だから行くのはとても無理だ」とか、いろいろな人に止められたけれど、僕の経験上、向こう側に人がいるなら行ける。
空港に電話したら「予約が一杯で乗ることはできません」と断られたのですが、とりあえず行ってみて、チケットカウンターでキャンセル待ちをしていたらすぐに乗ることができて、青森県の三沢に飛びました。三沢空港から八戸に着いてレンタカー屋に連絡したら、ここでも「ほとんど借りられてありません」といわれるのですが、実際に行ってみると1台借りることができました。
それから八戸から通行止めの箇所を避け、避難所に立ち寄って物資を渡したりしながら、最終的には岩手県宮古市まで南下しました。当時のことはブログ『ForEverest』に書いているので、詳細はそこに譲りますけれども、道中はガソリンの補給があまりできなかったので、宮古までの移動が限界でした。だからここに展示している写真は、八戸から宮古までの間で撮影したものです。
宮本 『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』という展覧会タイトルの他、1点ずつの写真にキャプションが付けられていませんが、主にどの地域で撮影されたものか、ざっと教えていただけますか。
石川 ほとんどの写真が、岩手県で撮影したものです。大きな2点組の写真は宮古市の田老地区で、ここは昔から繰り返し三陸津波に襲われていたので、田老堤防という日本有数の巨大堤防をつくったのですが、その安心感で逃げ遅れた人がたくさんいました。地震発生から5日後に、堤防に登って撮影しました。雪が降っていました。
あと、青森県の三沢と八戸の写真を3点だけ加えています。ここは死傷者数がほとんどゼロにちかいのであまり報道されなかったのですが、港の周辺は建物の被害が酷くて、大きな船がいくつも転がっていました。これも実際に行ってみないと分からないことでしたね。
宮本 車で南下した限界が田老地区だったのですね。
石川 そうです。ガソリンもなかったし、南下するための道路が寸断されていて、そこからずっと山のなかを徒歩で移動して海にちかづいて、山肌をクイッと曲がったらこの光景が目の前に広がっていました。記憶に強烈に焼き付いた風景です。
宮本 いま僕たちは、そのときの石川さんのまなざしを写真によって追体験しているのですが、すべてが瓦礫と化した田老地区の俯瞰の形容しがたい静けさ…「言葉を失う」とは、まさにこのような光景を前に立ちすくんでいる状態ではないかと思います。
本展に寄せた文章で、石川さんは、「言葉が追いつけない涯ての風景を留められるのは、写真しかないと思っている」と書いておられます。石川さんは写真家であると同時に、優れたノンフィクションの書き手でもあるわけですが、この田老堤防からの写真も含め、震災を記録にするにあたっての写真と言葉の役割の違いをどう整理していますか。
石川 僕は文章も書きますが、やはり写真家としての活動がメインで、旅をすれば必ず撮ります。言葉より写真のほうが、記録に優れたメディアだと思っているからです。僕は写真とは、世界の端的な模写だと考えていて、基本的に写す行為に失敗も成功もないと思っています。よい写真とか悪い写真もない。それらは世界の断片としてそこにあるので。
一方、言葉や文章はとても便利で、いろいろと伝えやすい反面、実はこぼれ落ちてしまうものも多いと思っています。僕自身が写真と文章の両方でアウトプットしているので余計にそう感じるのですが、主観的に世界を紡ぐものが言葉・文章ですから、自分の俯瞰で捉えた風景の表現では、やはり大事なディティールが抜け落ちてしまうのですね。
それがよい場合もあって、言葉で表現すべき事柄もあるけれども、このような風景に関していえば、やはり何ひとつこぼれ落ちてはいけないような気がしました。
宮本 「何ひとつ(記録として)こぼれ落ちてはいけない」と被災地でカメラを構えているとき、石川さんのなかに〈写真家としての役割〉という意識はあったのでしょうか。
石川 そうですね。これだけ大きな自然災害は自分の主観でねじ曲げてはいけないことだし、個人の表現として提出するできごとでもないわけで、記録として撮っています。
やはり写真というのは〈記録すること〉が第一にあると僕は思うので、役割というより、その特性を最大限にしていくと、ありのままに撮るしかない。美術であるかないかとかは、こういう状況下では全く意味を成さないというか、目の前にあるものをとにかくきっちり撮ったという感じですね。
宮本 この展覧会には『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』という、風化を連想させるタイトルが付いています。記録する行為とは別に、これらの写真を展示する際に、石川さんはどのようなことに留意されたのでしょうか。同じ地域を定点観測的に撮ったような組写真もありますね。
石川 3ヶ月おきに田老地区に通って撮影しています。3月、6月、9月、12月、1年後にも行きました。そのなかから時間の経過が見てとれる3点を組み合わせて展示したのです。定点観測的な撮影によって写真の記録性を際立たせたかった。田老堤防の件もあって、震災を記録するには直後の惨状だけでなくて時間や風化の経過も含めて撮影し、こうした機会に見せていくことが大切だと考えたわけです。
これまでも、「まだ見つかっていない家族がいるので写真を見せてほしい」とか「このあたりに家があったのだが何か見なかったか」とか、被災した方々から問い合わせのメールや連絡をいくつかいただきました。そのときはこうやって写真を大きく引き延ばして、隅々まで細かく見ていくわけです。
今回は震災から1年後のタイミングで展示していますが、アーカイブってものすごく重要ですから、おそらく10年から30年後に、これらの写真はいまとは違う役割を担っていくでしょうね。
宮本 〈記録〉という言葉が何度も出ているのですけれども、石川さんはヒマラヤでの長い登山から戻ってこられたばかりです。山で撮影するときと、今回のような写真とでは、記録の考え方は変わってくるのでしょうか。
石川 僕は写真を撮ったり見たりするとき、10年、あるいは100年経って、それが〈見るに値するか〉、後世の人々にとって〈価値ある記録として成り立っているかどうか〉を重要視しています。
さきほど「よい写真も悪い写真もない」というふうにいったけれど、自分なりの写真の価値を改めて考えると、エベレストでも被災地でも、南極でも都市の路地裏でも、記録として役割を担えるかということだけなので、写真家としてのスタンスは変わらないですね。
宮本 僕は石川さんのようにエベレストの頂から世界を見たことはないのですが、昨年9月の個展『8848』を拝見したとき、この山は人間が経験できる時間の感覚から切り離されていて、何100年、あるいは1000年もほとんど変わらない姿でそこにあると感じました。
しかし、『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』の風景は津波によって一瞬でつくられ、その後も1ヶ月単位でどんどん変わっていきました。エベレストと被災地の写真を比べるというのは、ちょっと乱暴かもしれませんが、石川さんがこれまで体験してこられた旅と、今回の展覧会との接点や差異を、もう少し探っていきたいと思うのですけれども。
というのも、冒頭に石川さんがおっしゃった「自分の身体で理解していくということの大切さ」を、僕も震災以降、さまざまな場面で痛感させられているのです。震災を身体で経験してしまった故に、記録する際のものの見方というか、フォーカスの仕方が決定的に変わってしまったと感じるのです。
東北はまだしばらく、震災以前/以降という区分を意識せざるを得ない時間のなかにあるのかもしれません。石川さんは、田老地区に通われる過程で、ご自身が何か変わったということはありますか。
石川 記録する行為のアプローチはそんなに変わらないですけれども、震災は〈巨大な自然に対して対抗したり抵抗したりしても無駄である〉ことを再認識させられるできごとでした。でもこれは、昔からずっと感じていることでもあって、アラスカの川を下ったり、ヒマラヤの山に登ったり、あるいは太平洋の海をカヌーで航海していると、人間というのはとても弱い脆い存在であって、自然には屈せざるを得ないと考えさせられます。
人智を結集してつくられた堤防や原発も、大津波には無力でした。津波から守ってくれるはずの堤防が一気に決壊して、村が全滅してしまったわけです。自然のなかで人間は弱い。技術で自然に対抗するのは難しいという、昔から旅のなかで感じていたことを、今回の震災でまざまざと現実の風景として見せつけられたわけですね。
命をつないでいくには、自然への畏怖の念を忘れないで、地震や津波や疫病といった人智を越えた事象、何処からかやってくる〈得体のしれないもの〉を柔らかく受け止める必要があるのですが、実はそのような生き方や知恵は、昔はどこの世界にもありました。
日本にももちろんあったのですが、いつしか自然に対抗するというか、自分たちにとって住みやすい環境につくり変えていくほうに向いてしまったのですね。僕たちは暑かったら冷房をつけ、寒かったら暖房をつけるのですが、厳しい自然のなかで生きている人たちは環境を変えるのではなく自分の身体を適応させていきます。とても暑いところなら、そこで暮らすための知恵を生み出していくのです。
自分を変えることを放棄して、まわりの自然環境を変えることに執心してしまうと、それはやがて大きなひずみを生む。通常は起こりえないような大きな自然災害が起こったとき、そうして蓄積されてきたひずみが一気にぶち壊れてしまうというか、逆に人間に襲いかかってくるのです。
宮本 いまの石川さんのお話は、別会場で開催しているもうひとつの石川直樹写真展『異人 the stranger』につながってきます。ふたつの写真展をつなぐ存在として、石川さんが今年1月に大船渡で撮影したスネカの儀礼が挿入されていますが、震災の記録として全体を眺めると、来場者にはいささか唐突に映るかもしれません。震災からの気付きとしての〈得体のしれないものを柔らかく受けとめる〉ということと、『異人 the stranger』展の関連について伺いたいのですが。
石川 異人の儀礼では、秋田のナマハゲが有名で、あれを鬼と同じような存在として勘違いしている人もすごく多いのですが、鬼とは違います。鬼は、「鬼は外、福は内」って追い払いますよね。来訪神として現れる仮面の人々は文字通り〈異人〉で、外からやってくる、自分たちとは異なる存在です。何をもたらすか分からない不気味な存在でありながら、人々は追い払わず家にあげるのですね。異人の儀礼は、東北、九州南部、沖縄の島々に残っています。
スネカは吉浜地区に伝わる異人です。この写真のように玄関からヌッと入って、家の人は酒や料理を出したりして歓待します。海は津波のような災害だけでなく、稲作の技術や植物の種をもたらしてきました。それによって村が繁栄したという伝承が、日本列島にはいくつもあります。外の世界からやってくる異人を招き入れることで、新しい知恵や力が村や家にもたらされると昔の人々は考えたわけです。
宮本 中華思想をはじめとする世界の主たる文明のメインストリームでは、中心に皇帝がいて、そこから王化の光が同心円状に広がって辺境を照らしていくという考え方をとるのですが、いまの石川さんのお話ではその逆で、外界から異形の神や種や技術が流れ着き、それを上手に受け入れることで繁栄していこうとする態度ですね。
石川さんは写真集『ARCHIPELAGO』や『CORONA』で、日本を島々が連なる群島として捉え直す視座を提示されてきたわけですが、この異人も、そうした海との古いつながりを示すものとして撮影されているのでしょうか。
石川 そうです。僕たちは日本列島を〈日本〉という国家の概念でひとくくりしてしまいがちですが、実はさまざまな島の連なりですよね。南は本州島があって四国島があって九州島があって、そして奄美群島があって琉球諸島があって、その先の台湾、フィリピン、さらにその先のスンダランドの島々につながっていく。そして北は北海道島からサハリンからカムチャッカ、そしてアラスカからクイーンシャーロット島へと連なっていくわけです。
現在の日本は東京という中心があって、そこから遠い場所ほど辺境化していくのですが、昔はそうではなくて、確たる中心がないまま各部分が独立しながら全体としての統制を失わないという、有機的なネットワークがあった。もちろん、それはいまもあるわけですが、どうしても中国やアメリカなど、東西の大陸にある超大国との関係に目が注がれ、群島としての日本は見えにくくなっています。
しかし、無数の中心があるという群島的な世界の在り方こそが、異人や津波のような〈得体のしれないもの〉に抵抗せず、柔らかく受け止めてきた、僕たちの本来の生き方であり文化なのではないかと、震災後、改めて思うわけです。
宮本 今日はこれから会場を移して、その『異人the stranger』についてさらに掘り下げてお話を伺っていくのですが、田老地区をはじめ被災地の記録撮影は今後も続けられるのですか。
石川 9ヶ月くらい経って、瓦礫が片付いてからは、家々の基礎がむき出しになってひろがって、ただ草が生えているだけというか、風景にあまり変化が見えなくなってしまいました。田老地区は地面を底あげする大規模な工事がはじまっています。造成が終わったら建物がどんどん建っていくでしょう。
『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』はまだ全然区切りはついていなくて、これからも定期的に通って、風景の変化をずっと撮り続けていきます。そうして見続けた果てに何が見えるのかが知りたいわけなので、震災の記録はまだはじまったばかりです。
宮本 その続きをまた展覧会として見せていただけたらと思います。ありがとうございました。
※後半部『異人 the stranger』会場でのギャラリートークの採録は、で本学美術館大学センターのブログ(http://blog.tuad.ac.jp/stranger/ )をご覧ください。
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石川直樹|Naoki Ishikawa
1977年東京生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。2000年、Pole to Poleプロジェクトに参加して北極から南極を人力踏破、2001年、7大陸最高峰登頂を達成。人類学、民俗学などの領域に関心をもち、行為の経験として の移動、旅などをテーマに作品を発表し続けている。2006年、写真集『THE VOID』により、さがみはら写真新人奨励賞、三木淳賞。2008年、写真集『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により、日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞。2009年、写真集『Mt.Fuji』 (リトルモア)、『VERNACULAR』(赤々舎)を含む近年の活動によって東川賞新人作家賞。2010年、写真集『ARCHIPELAGO』(集英 社)にて、さがみはら写真賞。最新写真集に『CORONA』(青土社)がある。著書に『いま生きているという冒険』(理論社)、『全ての装備を知恵に置き 換えること』(集英社文庫)、開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)ほか多数。2011年に第30回土門拳賞受賞。
石川直樹写真展『やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る』
「ぼくができる唯一のことはまず動くことだった。断片的な情報に振り回されるのではなく、自分の目でそれを確かめ、自分の言葉で伝える。物資をもって被災地に行くことを決めたのは、震災から二日後の朝である――石川直樹」宮古市田老地区を中心に、震災後の風景の変化を捉えた写真展。
会期=2012年6月1日[金]→7月29日[火]※展示会は終了しました
会場=やまがた藝術学舎(山形県山形市松見町17-1)
主催=東北芸術工科大学東北復興支援機構
企画協力=ニコンサロン
イベント=『石川直樹アーティスト・トーク』(聞き手:宮本武典)2012年6月29日[金]
役野友美(TRSO事務局)