6月も第2週目ともなると引きこもり生活が板についてきて、世間体を気にせず家の中でじっとしているのが心地よくなっていたぐらいである。とはいえ元々、家で本を読むか、映像を見るか、ラジオを聞くか、原稿を書くぐらいしかしていないので、日々の過ごし方はそう大きく変化しているわけではない。しかし、そのラジオを聞いていると、これまで自宅から外に出ない生活をしてこなかった人々が、それなりに工夫してアクティブであろうとしているのを、何とも言えない気分で聞く羽目に陥った。
ラジオで話すネタ作りのために何かをしなければならないのかもしれないが、DIYに取り組んだり、家庭菜園で何かを育てたり、料理に凝ってみたり、ベランダでキャンプしたりと皆さん、大変そうである。ああ、これには俺は寄り添えない。じっと家で本を読むので良いではないか。どんよりした気持ちになってしまうのに対し、もしかしたら立ち位置が完全に違うのかもしれないと思い直したりもしてみた。紫蘇を植えて育てて、しょうゆ漬けにして食べるのも良いではないか。ベランダでベンチを作っても良いではないか。自分は絶対にやらないけれども。
ぐるぐると頭の中で問答していると面倒になってくるが、たまに「zoom飲み会を意気込んでやっているやつの気がしれない」のようなことを喋っている人がいると少し安心してしまうので、いつも同じ地点に戻ってくる。そのような時期に作品読解で取り上げたのが、畑野智美さんの「肉食うさぎ」(『海の見える街』講談社文庫、2015年)である。
この授業では様々なテーマのものを取り上げようと考えているが、毎年手薄なのは恋愛ではないかと思ったのだが、どうであろう。学生たちとの距離感を感じとってしまうのは、女性が非正規雇用で仕事をしている状態の問題が見えてこない点である。例えばこの短編でも主人公が正規雇用への打診がされたときに喜ぶのだが、この喜びがすでに時代を背負ってしまっているのかもしれない。単に「元気だから」という処理をされると、はしゃいでいる主人公を「へー」という顔をして読む学生という構図が見て取れて、少し悲しい気分になる。もちろん授業内でのやり取りなので大げさに考える必要はないかもしれないし、時間を経るというのはそういうことかもしれない。
何はともあれ恋愛を描く際に問題視されるのは距離感で、この作品ではその距離感を文化資本として描いている。そちらのほうが学生には理解されにくいものかもしれず、近い価値観や近い文化的背景を持った人で集まりやすい大学という場所にいると分かりにくい……とまで考えたときに、一年生はその場所性すらなくオンライン上のやり取りに終始しているため、ますますわからないのではないか。価値観が高校の延長線上にあるとしたら、果たしてこの小説をどう読んだのであろうかと授業後に悩んでいたのである。
〇これまでの作品読解の記録
2020年度
作品読解第1回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/722
作品読解第2回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/723
作品読解第3回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/755
2019年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/668
2018年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/591
2017年度(途中まで) http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/531
2016年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/401