作品読解第3回目(荻原浩「人生はパイナップル」)とオンライン授業の続き

もはや第3週目のことは遥か昔のことのように思えてしまうぐらい、今年の前期は大変であった。自分の記憶のはかなさを感じるのだが、それが前期の多忙さからきているのか、例年も気にしないだけで同様に忘れているのかは判然としない。今年度の学年暦第3週目はちょうど6月の第1週に当たるのだが、まだ長袖のシャツで過ごしていたような気がする。しかし6月のどこかの瞬間に半袖になり、そしてまた長袖に戻っていたので、あまり自信はない。

ただしzoomを使ってのオンライン授業は、少しずつ慣れてきた……というより慣れているかどうかではなく、機能を使ってできることをしようと慣れない脳内の認識範囲をフル活用して対応していたのだと思う。例えば教室で対面で話すことと、zoomで喋ることは大きく違っていて、そりゃ身体観はまったく違うのだが、そうではなく教員側としては根本的に発声という行為自体においては同じはずなのだ。同じだろう、そう思っていたのに、まったく違うのである。

学生のリアクションのあるなしが影響を与えているのかもしれないし、自宅で声を発すること自体に慣れていないというのもあるかもしれない。集合住宅だからか、授業で出しているような声は出せていない気がしている。もちろんこれは自己認識なので他者認識とは乖離しているかもしれない。どちらにせよ、オール巨人師匠に「もっと声を張れ!」と怒られるところである。

その作品読解第3回目で取り上げたのは、荻原浩さんの「人生はパイナップル」(『それでも空は青い』KADOKAWA、2018年)であった。子供と年寄りという価値観も身にまとっている文化もすべてが違う二人が、互いにキャッチボールを通じて会話をし、変化していく物語である。こう書くと普通の話ではあるが、主人公とは違う別の誰かの人生を仮託していくように読者に見せる形式というのは、創作の観点から考えるとなかなか難しい手法である。すでに他者が経験したことを、主人公が耳にし、血肉になるように身体化し経験していく過程は、本質では通じ合っても主人公と年寄りという若い頃の住んでいた場所・文化・風土すべてが違うなかで小説としての重厚さへとつながっている。という感じで取り上げてはいるが、授業登録をした多くの1年生にやはり様々な形式の作品を読んで欲しいというお節介な部分も存在している。

〇これまでの作品読解の記録
2020年度
作品読解第1回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/722
作品読解第2回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/723
2019年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/668
2018年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/591
2017年度(途中まで) http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/531
2016年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/401