作品読解第5回目(彩瀬まる「シュークリムタワーで待ち合わせ」)と家族観

この時期にラジオを聞いていると、コロナ禍におけるステイホームを経験して(もしくは真っ最中で)、家族の在り方に疑義を呈するようになったという話をよく耳にした記憶がある。もちろん、これまでもラジオでは家族の問題が話されていたけど、ラジオリスナーとしてステイホームという共有できる出来事が発生したため、文言を耳にしたらぐっと集中するようになったからなのかもしれない。概ねラジオを聞いているのは何かの作業をしているときなので、耳を傾けるのに注力はしていないことが多い。

家族だから助け合わなければならない。ということは大前提のようで必ずしもそうとは言い切れないという価値観の揺らぎは、多くの人が経験をし、それなりに共有されているのではないか。近代国家が作り上げて来た家族観をそのまま受け入れる人はいないであろうし、当然そこにおけるジェンダー観を受容している人も少ないであろう。そう思っていたのだが、コロナ禍で家事が増えたという主婦の愚痴メールが読まれ、罹患した女性が子供を他人に預けられず、止む無く同居してしまったという話をラジオで聞くと、悩ましい問題だと頭を抱えつつ、自分自身も完全に旧態依然な(と思っていた)思考から、まだまだ抜け出せていないのかもしれないと考え込んでしまった。

6月第3週の作品読解第5回目で取り上げた作品は、彩瀬まるさんの「シュークリムタワーで待ち合わせ」(『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』祥伝社、2020年)であった。この作品は家族が抱える問題が個人の価値観より優先されてしまうことに対して、大きな疑義を提示している。もちろん家族観は地域により違うであろうし(山形に来て、本当に違うのに驚いた)、個別的な問題に依拠することも多いであろう。そのため一様に個人の価値観が優先されるべきと主張することも難しい。何より生き方や、思考・思想を貫き続けるのは、多大な労力が必要になってくる。それでもこの作品のラストで描かれた、他者との共感を捨てずに道を歩もうとしている姿勢には感銘を受けてしまう。多様性を受容する生き方を選ぼうとすると、一つのことを受け入れないだけで孤独に直結してしまう可能性が大きいのだが、そうではなく孤独とともに他者との共存も選ぶのは示唆的である。

〇これまでの作品読解の記録
2020年度
作品読解第1回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/722
作品読解第2回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/723
作品読解第3回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/755
作品読解第4回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/759
2019年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/668
2018年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/591
2017年度(途中まで) http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/531
2016年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/401