小学生の頃、当時ヒットしていたユニコーンの「すばらしい日々」を聞くたびに疑問に思っていたことがある。歌いだしが「僕らは離ればなれ、たまに会っても話題がない」という歌詞なのだが、当時の私には何のことやらまったくわからなかった。小学生の感覚からすると、長い夏休みの間に会わなくても、9月になれば何かしら話すことはあるはず。たとえ塾通いであっても、それはそれで楽しかったし(塾に行くのは非常に楽しい経験であった)、話すことがないなんてどういうことなんだ。そんなことないだろう。大人とは意味深なものだなあと思ったものである。
いざ大人になってしまうと、この絶妙な機微を見事に歌い上げていて、いや、このときの奥田民生は何才だよ、何でこんな楽曲制作ができるんだよ、ぐらいの気分になり、それはそれで別の意味で落ち込んだりもしていた。そんなことを2020年の夏にラジオから流れて来たフジファブリックの「若者のすべて」を聞きながら、なぜか思い浮かべていた。この「若者のすべて」も時間の経過と成長と心の変化を描いた作品なのだが、すでにリリースされてから10年以上が経過している。あのとき若者だった自分(少なくともまだ学生ではあった)も、これほどまでに年を重ねてしまい、「若者のすべて」というタイトルと、その歌詞にこめられた青臭さもノスタルジーを帯びている。
作品読解第6回目で取り上げたのは桜庭一樹さんの「冬の牡丹」(『このたびはとんだことで 桜庭一樹奇譚集』文春文庫、2016年)である。この時から緊急事態宣言解除後に県境をこえての移動が可能となり、大学の研究室からオンライン授業をするようになった。やはりそれまでは本を読もうと思っても手元にないので日々が悩ましかった、というよりも諦観しかなかった気がする。そのため少しうれしかったのを覚えている。さてこの作品は主人公の女性が、学校制度の中での評価されていた学生時代に対し、社会人として働き始めた後、評価基準が「家族の問題」と「女性としての問題」に変化し、大きく戸惑っている物語である。その戸惑いを受け止め、ただあるがままに認識してくれるのは、理不尽さを把握できない家族ではなく、隣人の老人である。
もちろん年寄りを崇め奉れと言いたいわけではない。博物館や観光地に行ったとき、若者に対し「その土地の歴史を良かれと思って説明してくれるが、話している価値観はもう古いです」みたいなことを受け入れろと主張したいわけでもない(あれはあれで迷惑なのですが)。年月を経ることの良さというのも当然存在するし、しかし例えばプチ鹿島さんがラジオやこちらの記事で述べているように「おじさんであること」を隠れ蓑にするのではなく、自身の認識をアップデートしていくことも大きく必要ではないか。その際に否定や肯定ではない頷きをすべきだし、受け入れられる土壌が必要なのかもしれない。
〇これまでの作品読解の記録
2020年度
作品読解第1回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/722
作品読解第2回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/723
作品読解第3回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/755
作品読解第4回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/759
作品読解第5回目 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/763
2019年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/668
2018年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/591
2017年度(途中まで) http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/531
2016年度 http://blog.tuad.ac.jp/tuad_bungei/archives/401