「それぞれの山形」展

昨日の話になるが、ゼミ生その他の学生と芸工大にある日本画コースの展示を見に行った(ちなみに5月21日の土曜までやっている)。

ここは芸大なので「進級課題」という作品が存在する。つまり、その作品を完成させないと、次の学年に進級できないという性質のものだ。考えてみれば恐ろしい話だ。芸術作品なんてある意味、気分次第のところもあるはずなのに、芸大生は進級したり卒業するためには、いちいち作品を完成させなければならないのだ。

昨日みたのは「それぞれの山形」というタイトルの展示である。自分にとっての山形を日本画で表現するというものである。おそらく、このお題をどのように解釈して表現するのかが、評価の基準となるのだろう。

◉水島遵乃「仮面の街」

そのなかで、まず目を引かれたのは、水島遵乃「仮面の街」という作品だ。描かれているのは駅の自動改札と、その向こう側である。自分にとっての「山形」は、そのくらいの意味しか持っていないということだろう。自分たちにとっての山形、という課題の持っている「物語の重力」をヒラリとかわしている。おそらく作者は、賢くて正直で素敵な人なのだろう。

だがそれ以上に、この作品は妙な迫力を持っている。駅の改札なのに、まったく人間が登場してこないのもあるが、この自動改札に異様な存在感をおぼえるのだ。この絵を長時間みつづけていると、アタマがおかしくなって、さらに長時間みいってしまうような気分になる。ただの自動改札が「モノリス」レベルの自己主張をしているようである。

◉天羽和泉「雪わたり」

おもわず見入ってしまうという意味では、天羽和泉「雪わたり」も負けていない。雪がつもっている大地に傘をさした女性が立っていて、こちらをふり向いている、という絵である。この女性の目がやばい。やばすぎる。ただの絵画なのに、金縛りにあったように視線が外せなくなる。

目の存在感と、女性の脚の存在感のなさとが相まって、まるで幽霊のようにもみえるのだが、この絵は、幽霊のような「概念」よりも、はるかに怖い何かを持っている。おそらくそれは「絵そのものがこちらを向いている」という感覚だと思う。絵画をみるというのは、思った以上に恐ろしくて生々しいものだということを思い知らされる作品だった。

 

斉藤ゆう『月曜日は2限から』を読む

 ヤンキーという存在は基本的に私自身とは相容れないものであろう。自己認識としてはオタクであり研究者であるという自分自身は、対極に位置しているように思える。いや、いったい、軸がどこにあるのかわからないのに「対極」とは何かという話である。「オタクであり研究者」が存在するのであれば、「ヤンキーであり研究者」が存在していたっておかしくはない。とはいえ、70年代・80年代においては悪趣味ともいえるヤンキー文化は社会的な制度から外れた存在として、少なくとも研究上では無視される傾向にあった。社会的にはどうだろう。無視というよりは迷惑な存在として異端視されていたかもしれない。しかしながらゼロ年代後半から社会学を中心としてヤンキー文化は研究対象として取り上げられるようになっている(たとえば五十嵐太郎『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年)。

ヤンキー文化論序説

 社会学の動向を肌で感じているわけではないので、個人的な感慨にしかならないが、この理由の一つとしてはヤンキー文化が隆盛していたときから時間的経過が出来上がったことで、研究対象として冷静に距離感を取ることができるようになったのかもしれない。実際に私自身は漫画などで描かれるヤンキーを実際に目にする機会はないまま今まで生きてきている。これは偶然なのか、それともヤンキー自体がファンタジー的な存在としてフィクション化してしまったのだろうか。もう一つの理由として想定されうるのは、ヤンキー文化自体が普遍化されてしまったことである。いわゆるマイルドヤンキー論にもつながるかもしれないが、ヤンキー的なものが我々の周囲にも数多く存在し、生活の中に溶け込んでいるという論点である(たとえば斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』角川書店、2012年)。街を歩くだけで、EXILEが流れていることを想定してもらえばいいのかもしれない。曲を意識して聞いたことはないが、恐らく私自身も耳にしたことぐらいはあるだろう。オカザイルの影響かもしれない。まあ、ヤンキーと同様にオタクだって普遍化してしまったので、結局、同じ領域に所属しているのだ。ということは対極ではないのか。

世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析 (角川文庫)

 理由などはどうでもいいのだが、相容れないとは思いながらも、じりじりと興味関心を持ってしまう。具体的にはヤンキーど真ん中な作品には全く興味が持てないが、「もしかしてヤンキー文化?」という作品にはふわふわと惹かれていく。気づいたら、もうヤンキー的な側面など一切ない作品なのに自分の中の分析官が「ヤンキーかもしれません」と冷静に告げているのである。実際に漫画に載っているようなヤンキーに喧嘩を売られたら、もうダメっす、まじダメっす、となるに決まっているにも関わらずである。やはりヤンキー的文化が周辺領域にも、下手したらオタク文化にだって浸食しており、私自身もじりじりと気になっているのかもしれない。そもそもヤンキーとは「自己存在の強烈な主張、権威や常識・既成概念に対する反骨精神、融通無碍で自由な編集性」とされている(鞆の津ミュージアム監修『ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現』フィルムアート社、2014年)。

ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現

 体制への反抗的精神というものは、読者としてオタクである自分自身は抱くことのできない、もしくは抱くには悩みの大きい心理的側面である。スクールカーストの最下部もしくは埒外に所属するオタクというのは、その精神性から体制下の中で上部に向かって反抗していくことの無意味さを感じ取っているのかもしれない。しかし漫画やアニメの登場人物たちは軽く、そこを越えていく。斉藤ゆうの『月曜日は2限から』で描かれているヒロイン咲野瑞季は校則を無視し、金髪で私服、遅刻常習犯と高校生ながらすでに社会的生活を送ることはできていない。このヒロインに振り回される主人公居村草輔と、さらには風紀委員長である吉原依智子の3人で物語は少しずつ進んでいく。ヒロインの自由闊達な行動により物語自体はスピーディーさがあるにも関わらず、主人公とヒロインの関係性は緩やかな変化として描かれている。その落差とともに、やはり個人的に気になるのはヒロインが学校という枠から外れているにも関わらず、溌剌としている点である。時として憧れすら感じてしまう。

月曜日は2限から 1 (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

 同じような憧れを感じ取ったのは、小原愼司の『菫画報』という作品である。主人公のスミレは高校の新聞部で活動しながらも、喫煙常習犯であり、大ざっぱな性格からまともな高校生活を送っているようには見えない。彼女を陰日向と支えていく……というより犬のように付き添っていくのは万能高校生である上小路鉱二であるが、彼の不憫さは置いておこう。彼女らに共通するのは、学校という社会的な存在が規定したルールに対し、自らの行動規範を優先していくことに躊躇しないことである。それに対し表面上は真面目系クズであったオタクである私などは、作り上げられたレールから外れていくことの恐怖感が全てを優先してしまうのである。そのレールの上を歩んでいくこと自体の大変さだってわかっているのだが、フィクション上ではレールから華麗に外れることに憧れていく。ヤンキー的な概念が普遍化されているという論点は、規律から外れていくことが一つの指標であり思想の発動であった時代とは違い、規律からの逸脱自体に意味を見出すのではなく別の事象に自らを置く強さを体現しているのかもしれない。彼女らの行動を漫画として読んでいるとそう思えてくるし、そうであるがゆえの憧れでもある。

 とはいえ、これはフィクション内での話である。現実世界で社会性のない人を見ると男女問わず幻滅しているので悪しからず。現実世界ではルールを越えてみたら、その先には別のルールが存在するか、もしくは抜け出したと思いきやルールに縛られたままであったりする。現実は厳しい。やはり物語では、ヒロインが主人公が見事にさらりとリアリティなど越えてくれないとね。

菫画報(1) (アフタヌーンコミックス)

研修旅行の様子(遅ればせながら)

1年次の学生には「毎日更新!」と言っておきながら、教員は遅れがちなブログです。

4月23日〜24日に行われた岩手県平泉町&盛岡市への研修旅行の写真をアップします。

皆様、ご覧あれ。

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出発!DSC_0093

初日お昼ごはん。Ayuです

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おちゃめな山川先生 その1
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猊鼻渓舟下りへGo!
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舟下り中もスマホに夢中の玉井先生。翌日、発熱。
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舟下り
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元気すぎるぜ1年坊!
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運玉を投げる
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これが運玉
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あの穴に向かって投げます。1名、入ったそうです
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ラブラブ?
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中尊寺金色堂です
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桜が満開
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中尊寺を見学中
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案内してくださった三浦さん
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中尊寺本堂にお参りする石川先生。真剣です
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夕食!
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夕食を食べる1年男子
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盛岡も晴天でした!
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美しいぜ盛岡
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池田先生、飛塚さんとともに光原社へ
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宮沢賢治『注文の多い料理店』出版の地の石碑
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『銀河鉄道の夜』の草稿。実は私、このマンガ化を担当したことがあります
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盛岡市内で60年営業しているというおもちゃ屋さん
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盛岡ランチは焼き肉!
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盛岡も桜が満開でした
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えさし藤原の郷なう
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真剣に聞き入る教員と学生たち
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おちゃめな山川先生 その2
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おちゃめな山川先生 その3 未来予想図・・・?
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特撮撮影に遭遇
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休む悪役たち
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見守る学生たち
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見守る学生たちと山川先生
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これが藤原氏の棺から発見された蓮の種を栽培した蓮なのです
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ほとんど枯れていたけれども
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えさし藤原の郷はいろいろな時代劇の撮影に使われたそうです
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帰りのバス。でもわりと元気な学生たち

松智洋さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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 先ほど松智洋さんの訃報に接して、茫然自失となってしまった。はじめてお会いしたときは私はまだ大学院生だったか、前任校で仕事を始めたぐらいのときであった。松さんは『迷い猫オーバーラン!』を怒涛のごとく刊行されている時期だったような気がする。当然のごとく、私はちんけな若造であるので松さんの記憶には残っていないだろうと思っていたが、そのあと別件でお会いした際に「久しぶり!」と声をかけていただいたことは非常にうれしかったことを覚えている。縁はまだまだ続く。その後、私は現在の東北芸術工科大学芸術学部文芸学科に赴任したのだが、そこでライトノベルの授業の特別講師として来られていたのが、松智洋さんであった。また、「久しぶり!」である。そして次に「就職おめでとう!」であった。

 松さんは常に他人のことを気に掛ける人で、コミケ会場やそのほかで会ったときにも「こないだの授業に来ていたあいつはどうなった?」、「ちゃんと書かしているかい?」と立ち話でうちの学生を心配してくださるのだ。「いい作家を育てろよ」、「玉井さんがこれはいけると思ったら、すぐに紹介しろ」と有形無形な感じで教育者としてはペーペーの私に発破をかけてくれた。『文芸ラジオ』創刊号をお送りしたら、「俺の授業を受けたやつが小説を書いているじゃないか!」と読み、「俺の授業を本当に聞いていたのか!?」と読後に笑いながら言っていた。授業も非常にアグレッシブで、経験と理論、そして誰も越えられない努力を土台にした言葉を学生に投げていただき、参加した学生に大きな刺激を与えてくれた。「ライトノベル作家だから」となめてかかる文学青年に対して「きみ、面白いねえ」と言ってにこにこしながら学生の話を聞いていたことを覚えている。にこにこではないか。にやにやかな。

 思い出はたくさんあるのに言葉が上手く続かない。私のできる恩返しは出版業界に学生たちを送り込み、死後の世界で会った松さんに「どうですか、やってやりましたよ」と言うことである。そして以前、「飯を食おうか」と店の前まで行ったはいいが満席で入れなかった焼肉を、一緒に食べることである。「今度、あの店の焼肉に行こう。美味しいんだ」と言ってくれた「今度」はまだまだ先延ばしである。松智洋さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

「悲しみってやつを夏色に変えて」

 四月はこれまでになく異様に忙しかった。季節の変わり目による体に重く圧し掛かる負荷と例年より早めた研修旅行による疲労とで、連休の合間に存在する平日は東京の自宅でダウンしていた。今年、東北芸術工科大学は連休に次ぐ連休なのである。平日も休みなのだ。学生の皆さんも遊びに課題に、そして文芸ラジオ編集部は仕事にと忙しく飛び回っているであろう。しかし、私は「レン・キュウ(薬師丸ひろ子風に)」という甘美な響きを脳内でもてあそぶ余裕などなく寝転がっていたのである。それにしても東京は暖かい。この暖かさが次第に体をほぐしていくのを心地よく感じている。あたたかい(カールビンソン風に)。

宇宙家族カールビンソン (1) (講談社漫画文庫)

 その忙しさに拍車をかけているのが、授業準備である。もう3年目なのだから、これまでの蓄積で話をすればよいではないか、と思うであろう。私だって楽できるところは楽したい。人間なのだからそこは当然である。しかし、受講する学生は毎年かわるし、世間の動向だってかわっていく。その中で同じものを九官鳥のように垂れ流していくことに納得ができない。作品読解・表現論という授業がある。以前にも書いたが通称「選」と呼ばれる授業で教員がセレクトした短編を毎週、講読していく授業である。これは15回分全て変更している。そのとき、そのときの私の興味関心と世間で発表された作品群とで授業内容は有機的に変化していく。もう一つ大幅に変えたのは創作演習1である。これは複数の教員で回しているのだが、私が主担当の回は昨年とは90%以上変わっている。そのためには様々な本を買い、読み、買い、読み、自分で咀嚼し、授業で喋るということをしている。

 教員としては当然のことなので、特に同情を買おうとしているわけではない。その創作演習の後期では書評や評論を取り扱っていく授業内容へと変化していくのだが、毎年、閉口する文章があがってくる。「ぜひ、一度は手に取ってください」、「本屋で見かけたら気にかけて欲しい」、「時間があれば一読して欲しい」という言葉で必ず締めくくられるのである。初年度、この一文が最後に書かれている課題をたくさん読んでしまい、「絶対にこの本を読んでなんかやらないぞ」と誓ったのだが、学生が書評で取り上げる本は全部読んでいたので、その誓いすら成立しなかった。今年は初回の授業でこのような内容は必要ないと公言したので減ることであろう。もし書くのであれば、その一文に意味のある文章構成を取ってほしい。

 おそらくはこの一文を入れてしまう背景にはコミュニケーション過多があるのではないだろうか。もしくはコミュニケーションに過敏になっているのかもしれない。土井隆義さんの『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』(岩波書店、2009年)を読むとわかるが、今の学生たちは高校までに存在するクラス内におけるカースト的な関係性を経験するとともに、その階層内の人間関係においていわゆる「空気を読む」という訓練を自然と身につけている。そしてその「空気を読む」ために活用されるのが、自らのキャラ化である。書評の授業というのは、否応もなく取り上げた作品により個々人の感性が他者に知れ渡ってしまうことになる。その際、暴走して、よくわからない作品を取り上げているわけではなく、読み手のあなた(というか、学科内の学生)にも気を使っていますよというサインとして語尾に読者への問いかけを書いているのである。違うかもしれないが、どちらにせよ、読者への挑戦はクイーンぐらいにしてほしいものである。

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

 何だか愚痴っぽくなってしまった。玉井の愚痴などどうでもよくて、この連休は本屋に行き、本や雑誌を買いましょう。そこには店員さんが、ぜひ手に取ってほしいと思っている新刊があります(読み手への気遣いを真似てみた)。具体的には石川忠司『吉田松陰 天皇の原像』という本が4月に出ています(石川先生にも気を使ってみた)。解説は山川健一さんです(山川先生にも気を使っている)。

吉田松陰 天皇の原像
吉田松陰 天皇の原像

石川 忠司
幻冬舎 (2016-04-15)
売り上げランキング: 725,611

 

BGM:エレファントカシマシ「はじまりは今」

愛と夢

「全部後回しにしちゃいな」

 旅とは大きな虚無と向き合わなければならないような気がする。それが旅を好きな理由でもあり、嫌いな理由でもある。旅に出ると、自分という存在も含めて旅という行動自体に意味があるのかどうかわからなくなっていく。旅に意味があると考えること自体が自分に対する大いなる虚偽ではないだろうかとも考えてしまうのだ。移動し場所性に触発されることで感じる現在性とgoogleのストリートビューで観察したバーチャル性に上下関係なんてないのではないだろうか。その点もあり、私は旅番組が大好きで仕方ない。有吉くんの正直さんぽも(もちろん女子さんぽも)、太川・蛭子コンビのバスの旅も、ローカル路線聞き込み旅だって見てしまう。なんて面倒なやつだろうとお思いだろう。自分でもそう思うので、旅をしながらも自分を中心とした旅の意義性が重層化してくるのを感じている。その表層的な意味において「いやー旅はいいもんですねー」と言っているのである。

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 くるりに「ハイウェイ」という楽曲がある。「僕が旅に出る理由はだいたい百個くらいあって」という歌い出しで始まるこの曲は、その大きな虚無性を示唆している。旅に出る理由はつまり何でもよいのだ。他人に首根っこをつかまれてどこかに行くのでもよいし、疲れたから湯治を兼ねて行くのもよい。逃避としてもよいし、誰かを殴りに行く旅でもよい。そして「ハイウェイ」ではこうも歌われる。「僕には旅に出る理由なんて何ひとつない」。これがこの曲が名曲たる所以である。理由などあっても、なくても同義なのだ。

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 この週末は入学したばかりの一年生たちと研修旅行で、平泉と盛岡をめぐってきた。研修旅行は今のところ毎年のように行われており、新入生と教員・副手とでどこかの土地を訪れている。ただ、どこかにふらっと行くわけではなく、一年生の必修授業である「日本語表現基礎」の一環として取材の旅でもある。ぶらり旅をしたいのであれば、自分で行っていただきたい。どこかに行く理由も自由も皆さんにあるのだ。さておき学生たちは課題が事前に出されており、その課題のために盛岡に行くのである。もちろん新入生同士の親睦を兼ねてもいる。気乗りしないで参加したものもいるだろう。早速できた友人とともに行くことを楽しみにしていたものもいるだろう。盛岡という土地に興味津々であったものもいたかもしれない。行く理由はもちろん授業の課題であるのだが、その前提はどうでもいい。

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 実は旅の醍醐味は数年後でも5年後でも10年後でもいいのだが、再度、行ったときにあるのではないかと思うようになった。最初は内発的な理由で旅をしていなくとも、再度、訪れたときに、その土地の歴史や社会を立体的に見出すことができるのかもしれない。物事は多面的である。一度だけでは空虚に見える場所や事象であっても、思い出という記憶というポイントが脳内に刺さった状態で行くと違うものが見えるかもしれない。しかし、これもどうでもいいこと。旅に出る理由なんて何ひとつないのだ。

BGM:くるり「ハイウェイ」

ジョゼと虎と魚たち(Oirginal Sound Track)

学生ブログ&もうすぐ研修旅行

文芸学科1年生による学生ブログが立ち上がりました。

BUNGEI STUDENT Blog

http://blog.tuad.ac.jp/class_bungei/

 

毎日更新を目指して、グループで投稿していきます。

皆様、たまにはそちらにもお立ち寄りください。

そして土曜日から!

研修旅行です!

1年生全員を引き連れて、岩手県盛岡市と平泉町に行きます。

授業では盛り上がりまくっている1年生ですが、研修旅行はどうなることやら。

我々教員にとっても未知数で、楽しみです。

帰ってきたら様子をアップしますね!

上級生もお楽しみに!

「そんな日を思って、日々を行こう」

 自宅から移動し東京駅に降り立つと、毎回、駅構内の本屋へと向かう。やはり新幹線内で読むことが想定されているのであろう。持ち運びに便利な文庫本が充実している。ここで買うときもあれば何も買わないときもあるが、だいたいは購入したとしても非常に悩んだ末である。なぜなら、いつも文庫本2冊を鞄の中に入れておくようにしており3冊目は必要かどうかを自問自答しなければならない。読書スピードとの兼ね合いもあれば、単純に荷物の重さを考慮しているときもある。そもそも複数冊を持ち運ぶ必要があるのかという問題があるが、それは移動中に一冊を読み終わってしまうと手持無沙汰になってしまうからである。本屋を辞したあと、弁当を買いに行く。山形に行くようになり2年以上経つが、最初のうちは毎回違う弁当を買っていた。しかし、いつしか同じ弁当を買うことになり、1年以上が経過している。カップばらちらし寿司である。本屋から近い。宣伝をする義理はないので、気になった人はググるとよい。そのあとコンビニに移動し、コーヒーとパンを買う。これは食後用。そして新幹線内でのコーヒー購入を控えるためである。あれはおいしくないような気がする。それからコンビニから近い本屋へと向かう。先ほどとは別の本屋である。ここでも先ほどと同じ行動をとる。先ほどの店で購入したものがあっても、そこに本屋があるので入店してしまうだけである。そして山形新幹線に乗り、山形に向かうのである。

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(新幹線内での状況。アニメを見ながら、コーヒーを飲んでいるところである)

 というのが私の東京駅でのルーティーンである。日常生活の中では脳みそのリソースを余計なものに回したくはないので、できうる限り選択肢を登場させないようにしている。何を着るか、何を食べるか、など、この世には細かく必要以上に選択肢を突き付けられ、選ぶというコストを払うことが多い。脳みそは常に稼働させて何かを考えさせている。研究のことであったり、授業のことであったりと考えなければならないことは多い。そのためのリソースは常に確保しておきたいというのは人間としては当然ではないだろうか。しかし、情報が非日常に占められてしまったときには、こうはいかない。ルーティーンが確保できるというのは一つの幸せである。3.11の東日本大震災の際は、震災後にネットやテレビや新聞などから入ってくる非日常的な情報が自分の身体に対して供給過多になり、途中からは情報をシャットアウトして動物が出てくるだけの番組を見ていたり、論文を書いたりしていた。阪神淡路大震災の際はまだ中学生であったのと、得る情報がわずかに見るテレビか兵庫出身の同級生(出身学園は寮生活している学生が多かったので全国から来ていた)に限られていたのでそれほどでもなかったと記憶している。しかし、昨日、起こった熊本地震では、3時間ばかりしてあまりにも非日常的な情報内容にくらくらしてしまい、テレビを消してラジオを聞いていた。伊集院光の番組を聞くためにradikoプレミアム会員になっているので、どこにいようとも関東地域の番組を聞くことができるのだが、よくわからないアイドルが通常通り(なのだろう。普段聞かないけど)の放送をしているとほっとできる。

 というのは長い長い枕詞のようなものであり、本論は以下になる。熊本地震で亡くなった方、罹災された方には心よりお見舞い申し上げます。いち早く、日常的な生活様式に戻れるように祈っています。日常的な要素が今後、多く得られるよう私も微力ながらお手伝いします(募金ぐらいしかできませんが)。

 

BGM:ASIAN KUNG-FU GENERATION「迷子犬と雨のビート」

マジックディスク

寒いのか暑いのか

この時期、東京も山形も寒いのか暑いのかわかりません。

私は明日、山形へ向かうのですが、どの程度の服装で行ったらいいのか不明です。

学生がFacebookにアップした画像によると、山形の気温はなんと3℃!

寒いよそれ。冬だよ。

東京はもう桜が散り始めているというのに。

そういえば先週はお花見に行ったんです。

もう10年以上前から続いている、チームトゲヌキというライター・編集者の任意団体がありまして、その恒例行事なのでした。

せっかくなので写真を少々。

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きれいですね。

さてさて、文芸学科の新2年生が、フリーペーパーをつくったそうです。

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有志でつくったそうで、私は若干、印刷のことなどアドバイスしました。

「始まる」んですね。

そうです、新学期も始まります。

まだ中身は見ていないので、どんなフリーペーパーなのかはわかりませんが、いずれにしても何か印刷物をつくるというのは、いいことです。

編集のトレーニングにもなりますし。

やっぱり何か「つくりたい」という気持ちがあって初めて、クリエイティブは生まれてきます。

こんなに立派なものじゃなかったですが、私も大学時代にサークル内雑誌を月刊でつくっていました。

当時は・・・ワープロでw

いやあ、便利な時代になったものです。

その便利さをとことん活用して、学生にはいろいろなものをつくってもらいたいです。

文芸学科も同人誌制作を奨励していることですし!

「あなたはゆっくり立ち上がる」

 今頃、「今年の阪神はいけるでぇ!」と叫ぶ声が日本中(どちらかというと近畿地方中心)にあふれているのだろうか。確かに先発ピッチャーがメッセンジャー、藤浪、能見、岩田、藤川、岩崎…とコマがそろい、抑えもマテオが入ったことで何とか成立するのかもしれない。野手も、高山や横田などフレッシュな顔ぶれがスタメンを飾るようになっている。何より監督がアニキである。「超変革」というかっこいいのか判断がつきかねるスローガンを掲げるぐらいには従来と違うようだ。それでも実際に変化が起きているようにメディアを通じて受け取ることができる。

 フレッシュさというのは阪神だけではなくセリーグの監督が多く入れ替わり、そして若手になったことによるイメージ刷新による相乗効果が大きいであろう。特に現役時代を知っていると、選手ではなく監督業に従事しているという不自然さとともに、そのギャップを感じ取っている自分自身の年寄り臭さに閉口してしまう。何とも複雑である。どちらにせよ、私自身はオリックス・バファローズファンなのでご心配なく。いつも通り。あ、でも高山、4安打はすごいと思う。

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 監督がかわるだけで、こうも変わるというのは往々にしてありうることで、大学に関しては新しく入学した新入生がそれにあたる。この週末は入学式、保護者懇談会、教職員総会、教職員懇親会、1年生ガイダンス、2年生ガイダンス、3年生ガイダンス、4年生ガイダンスを連続してこなしていた。休みというものがなく、切れ目のない連続的な波状攻撃をくらっている気分である。同じ話を4回する身にもなってくれ、と言うわけにはいかない。

 新しいフレッシュな1年生には「がんばって友達を作ろうとするな」と言おうと思っていた。ほかの大学の状況を今は知ることが出来ないから判然としないが、スクールカーストとそれに伴うキャラ設定を大学にまで引き込んでしまっている新入生が少なからずいるような気がしてならない。もちろん、そこから脱却しようとして、それはそれで失敗する者もいるのであろう。でも、蛭子能収の『ひとりぼっちを笑うな』でもいいし、森博嗣の『孤独の価値』でもいいが、そこらへんを読んで欲しい。結局、そんなに周囲のことを気にしていては生きていけないぜ。

ひとりぼっちを笑うな (角川oneテーマ21)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

 などという言葉を新入生に送るわけではなく、『あさが来た』の田村宣のメガネの話から入ってしまった。想定外である。事前に喋ることを考えようなどと思ってはいけない。失敗した。しかし、のぶちゃんのモデルは、のちに日本女子大の学長になる井上秀である。女性が学問を修めるということ自体が大変であった時代にアメリカ、ヨーロッパと留学をし、母校に帰り教鞭をとるという、私には想定できないであろう困難を乗り越えてきた人物である。そののぶちゃんが作中でこのように喋っている。

「大学校は、ほんまに勉強したい人が入るとこです。必ず学んだこと身につけて、何かの役に立つようなるて、そないな覚悟持ったもんだけが入るとこなんやさかい、そんな中途半端な気持ちで入ったら、うち許さへん」

 さすがだ。メガネが素晴らしいだけはある。もうメガネが喋っているのではないか。学科の雰囲気は教員だけで作り上げることはできない。新入生が切磋琢磨して自然と出来上がっていくものである。のぶちゃんのようになれとは言わないが、皆さんに大いに期待している。

連続テレビ小説 あさが来た 完全版 ブルーレイBOX1 [Blu-ray]

BGM:LINDBERG「every little thing every precious thing」

every little thing every precious thing