広報誌<g*g>第3号の表紙は、台風一過の山寺。
時を重ねた苔むす岩肌と対峙する歴史遺産学科の学生たち。
台風一過の9月8日、山寺立石寺には、緑の苔むす石塔や岩肌にライトをあててそこに刻まれた文字を必死に読み解く若者たちの姿がありました。彼らは、芸工大の歴史遺産学科の学生たち。その見慣れぬ光景に、参拝客からさまざまな声が掛けられました。「何をしているの?」「新聞で見たよ、芸工大の学生さんたちでしょう」「がんばってね」など、そうした周囲の反応が程よい緊張感となって、学生たちはより真剣に、でもイキイキと楽しげに調査に取り組んでいました。
この調査は、東北芸術工科大学文化財保存修復研究センターが文部科学省認定のORC(*)として実施する「立石寺の石造文化財の調査」の一環。3年調査の2年目となる今年は、歴史遺産学科の荒木先生と2〜4年の学生約25名が9月3日から9日までの一週間、本坊の協力を得て現地調査に入りました。今回の調査対象は、根本中道から奥の院にかけて残存する石塔群約九百基。参道脇の岩肌や石塔に懐中電灯を当てて、梵字(ぼんじ)や戒名、年号などの解読をすることで、建立された時代や石材の特徴などを解明する糸口とします。<g*g>第3号の表紙を飾った写真は調査5日目の学生たち。前日は台風の直撃を受けて調査が中止になってしまったこともあり、この日は一段と熱が入っていたようです。
松尾芭蕉の「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句でも知られる立石寺は、霊場・霊地として、また風光明媚な観光地としても名だたる名所。その著名さからすると実に意外なのですが、これまでにこのような本格的な実態調査が行われたことはなかったのだそうです。「石塔などの数が多すぎて研究する人がいなかったのでは」というのが担当の荒木先生の見解。
今回の調査目的は、立石寺の岩場に刻まれた磨崖板碑(まがいいたび)の銘文を調査し、どのような地域の人々が訪れ、いつ頃から現在のような霊地・霊場として成立したのか、その歴史的背景を含めて探ることにあります。さらに、参道沿いに点在する供養塔や墓石の銘文・石材、その大きさなどを調査し、実測図を作成。立石寺が江戸時代から現在に至るまで、どのような信仰や背景のもと、こうした石塔群が建立されたのかを明らかにします。
昨年までの調査では、古いものでは江戸時代初期の1630年頃の年号が刻まれており、天台宗の名刹でありながら浄土真宗や浄土宗、曹洞宗と見られる戒名も読み取れたといいます。さらに、室町時代以前の寺は身分の高い人のためのもので庶民には開放されていなかったのですが、江戸時代以降の立石寺は広く庶民を受け入れるようになったと推測されています。
さて、今年の現地調査からはどんな歴史的事実が判明するのでしょうか。これらの現地調査の結果を受けて09年度中に報告書がまとめられることになっています。荒木先生をはじめ歴史遺産学科の学生たちの地道な努力により物言わぬ歴史の証人たちが雄弁に語りはじめています。今後、どんな新たな事実が解き明かされるのか、興味を持って見守ってみてはいかがでしょうか。
(*)ORC:オープンリサーチセンター整備事業