「実はまだ始まったとこだった」

 もう5月になろうとしている。4月の山形の気温は、私が育った西日本での基準だとまだ2月前後のもので「ああ、寒いなあ。冬だなあ」と思う日々が続いていた。もちろん、それなりに暖かくなっているのだが、東京と比較しても3月の気温と変わらず、驚いたことに4月なのに桜が咲いている。気温の数値としては間違っていないのだが、もはや春とは何なのだろうか。そうこうしているうちに前回のブログ更新から高校生向けのスプリングセミナー、入学式、ガイダンス、新入生との研修旅行と様々なイベントが過ぎ去っていた。そして何より学科としては文芸棟ができたことが大きい。このように様々なものがぎゅっと圧縮されたので、内的時間は2週間ぐらいの経過なのだが、外的には1か月以上の時間が経過している。おかしい。もう連休だ。

 今年の研修旅行は松島、石ノ森章太郎ふるさと記念館をめぐり、二日目に仙台にて授業課題である取材を行うというコースであった。思うことは様々あるが、一番残念であったのは記念館で復刊されていた『墨汁一滴』が売り切れていたことである。以前、販売されているという情報を手に入れたので、いつか行く機会ができたら買おうと脳内データに刻んでいた。それから数年後、ついに行くことになり、ようやく脳内データを消去できることになると意気込んでいたら、ただ意気込んだだけで終わってしまった。残念。本当に残念。やはり景色を眺めることや行ったことのない空間に足を運ぶことに新規性と強い動機を見出せないので、このような直接的かつ即物的な目標がないと個人としては意味がない。付け加えておくと教員としての意義づけは別の話である。

 新入生が研修旅行に行くように、在学生も進級し(てない人もいるが)、ゼミ活動も刷新していく。毎年勘違いしている人がおり、そしてやんわりと伝えるようにしているが、基本的に私が喋ることは別段、何かの回答やゴールを示すものではなく、スタート地点を呈しているだけである。つまり、まずはここまで這い上がってこい、本論はそこからだ、ということなのだが、おおむねそのように受け取られることは少ない。まあ、とりあえずそれが「正解」だと思った人は、自らの肥大した何か(もしくは足りない何か)を反省したほうがよいかもしれない。もちろん別に反省をしなくても私自身には何ら問題はないし、恐らく日々は変わることなく進んでいく。この連休は暖かくなった東京の自宅で過ごしている。暖かければ、だいたいのことは許せる。

 

BGM:藤原さくら「春の歌」

AbemaTV Special2チャンネルにて4/23(日)夜9時~『徹の部屋#13』に > 山川健一教授が出演がします。

みなさまこんにちは

AbemaTV Special2チャンネルにて4/23(日)夜9時~『徹の部屋#13』に
 文芸学科学科長 山川 健一教授が出演します。
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以下のURLから視聴予約をし、是非ご覧ください。
 http://bit.ly/2nWSuXI

 <番組概要>
 出版業界の革命児・見城徹がホストを務める、2時間生放送のトーク番組! 毎回、
 見城徹が「今、一番会いたい」ゲストを招き、内臓と内臓をこすり合わせる様な
 熱狂トークを披露する。 若手タレントから超大物ゲストまで、見城徹の幅広い
 人脈だからこそ呼べる、珠玉のゲストたちが登場します。 テレビでは中々話す
 ことが出来ないゲストたちの本音にも迫りながら、 AbemaTVだから出来る、そし
 て生放送だから出来るギリギリなトーク内容も展開! 加減の利かない魂100%の
 コメントで、ズバッスバッと切り込んでいきます。 さらには視聴者たちからも、
 リアルタイムで質問を大募集! 視聴者との間で、ド直球で偽りのないやり取り
 を展開します。 そんなトークを彩るのは、見城徹ならではの上質で大人な空間。
  業界怖いもの無しの見城徹が、とにかく話しまくるスリリングな対談ショー!

 <出演者>
 見城徹
 大石絵理
 小林希
 山川健一

 ■以下のURLから視聴が可能です。
 「AbemaTV」 https://abema.tv/
 Google Play https://play.google.com/store/apps/details?id=tv.abema
 App Store
 https://itunes.apple.com/us/app/abematv/id1074866833?l=ja&ls=1&mt=8

 ■一般的な視聴方法
 ・スマートフォンの場合
 ①       上記のURLからAbemaTVをダウンロード
 ②       右側に表示される番組表と検索タブをタップ
 ③       日時、チャンネルから番組を探しタップ、または右上の虫眼鏡マークから検索
 ④       「視聴予約をする」をタップ(今回のみ・毎回どちらかを選択)→当日通知が
 届く
 ⑤       当日は、アプリを起動し、「Special2」チャンネルに合わせる

 ・PCの場合
 ①       AbemaTVを開く
 ②       上部に表示されている番組表タブをクリック
 ③       日時、チャンネルから番組を探す、または左上の虫眼鏡マークから検索
 ④       「視聴予約をする」をタップ(今回のみ・毎回どちらかを選択)→当日通知が
 届く
 ⑤       当日は、「Special2」チャンネルに合わせる

「とびきりの長いお説教は短めにして」

 しまった。やられた。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』48話「約束」を見たときに素直にそう思ってしまった。ずっと1期から視聴し、ヤクザ映画の物語構成を活用させていることに気付いていながらも、この48話のラストの可能性を無意識に脳内で削除していたのである。ガンダムというフォーマット、というかエンターテイメントでの物語構成を考えた場合は禁じ手ともいうべき物語の選択と言うしかない。そしてこれを躊躇なく選択肢に浮上させ、選ぶということは、残り2回の物語に自信があるのだろう。楽しみで仕方ない。どのような物語になるのであろうか。48話の放送日は3月19日、次の日は卒業式である。つまり体をプリインストールされた式次第に合わせて自動的に動かしながら、脳は延々とオルフェンズについて考えるしかなかった。

 4年生の皆さんは卒業後も自らを成長させるべく、手を抜かずに生きて欲しい。固い言い方をしてしまうと卒業式に出席したからといって勉学から卒業したわけではなく、今後も続いていく。社会人になるとこれまでと違い、様々な年代の人や様々な社会的背景を持つ人に出会うことになる。正直なところ何年経っても同じ話をしている人や同じギャグしか言わない人、同じ音楽を聴いている人もいる。若いうちは「うわ、おっさん、またゴルフの話をしてるよ」とか思って終わるかもしれないが言っておこう、気を抜くと君たちもすぐにそうなってしまう。会社の上司にそういう人がいたら10年後、20年後の自分かもしれないと思っておこう。そして勉学は本を読めば解決する問題でもない。読書によるインプットなど海水の塩分濃度よりも低い割合で情報が自分の中に蓄積されるだけだ。インプットだけではなくアウトプットも同時並行で行わないと、ほとんどが自分のなかを通り過ぎていく。誰かに話す、誰かに向かって書く。それだけで大きく違ってくる。引き続き皆さんは物語を受け止め、考え、自分の物語を紡いでいく、その連鎖を続けて欲しい。だからオルフェンズを見ても、ただ見るだけではなく、めちゃくちゃ考えてくれ。

 というようなことを卒業式において学生の皆さんに話をしたが、要はオルフェンズが面白かったということを述べたいだけである。そして数日経過した今は『けものフレンズ』を見てくれ、も付け加えておこう。『けものフレンズ』に関しては、キャラクター消費が先行している気がして毎回、きちんと見ながらも心の距離を置いておこうと言い聞かせていた。セーブしないとはまって抜け出せなくなる未来が容易に見える。そう、サーバルちゃんがどれだけかわいくても、と思っていたところに11話がやってきた。かばんちゃん……。かばんちゃん……!

BGM:みゆはん「ぼくのフレンド」

「桜が咲いて散ったその後で、何が真実なのかは」

 今年のオリックスバファローズはいけるだろうか。メディアを通じて情報を手に入れるだけで特にキャンプ地に取材に行ったわけではないが、少し心配なのは福良監督が選手たちに対して怒りの鉄槌を食らわせるキャラクターになっていることである。それが良いのか悪いのかは、簡単に判別できない。一つ心配なのは怒りの感情を表出しなければならないほどチーム内に自律的な活動を見込むことができないのだろうかという点である。練習試合でミスした選手には昼飯抜きの特打を課し、体重管理ができていない選手には二軍行きを命じる。それが最終的に何かを生み出したとしても、それでいいのだろうか。このように考えてしまうこと自体が極めて大リーグの個人主義的な練習方法に依拠しており、日本のプロ野球とは違うのだと言われてしまえば、特に評論家でもない自分はそうですかとそっと目を閉じるだけである。

 とはいえ、もしかしたらチーム内の空気はそのような感じではなく、福良監督を胴上げするんだ、と皆さん、意気込んでいるかもしれない。どっちであろうとも応援することには変わらないし、現にWBCで平野佳寿がセットアッパーとして投げるのを見るだけで、「この時期にオリックスの選手をテレビで見られるとは」と感謝している。WBCは従来であれば球数制限の影響で先発、第二先発とスターターの二枚看板で試合を構成していたのが、手探り状態(なのかはわからないけど)の指揮の中で、先発と第二先発の間に平野が一イニングだけ投げ、相手をシャットアウトすることで試合の流れを見事に自陣に引き戻している。さすが。

 自律的な活動に期待することは非常に難しい。文芸学科に所属していると、よく言われるのが「どうやって教えるのですか?」ということである。そしてこの言葉の裏には「物語なんか論理的に教えることなんか無理でしょう?」という意図が隠れている。100年以上前から物語論の研究蓄積があり、さらにはハリウッドでの映画の脚本理論が体系化され、日本にも輸入されている状況でありながら、なぜか物語を紡ぐことは論理的に行うわけではなく心の行くまま天真爛漫に出来上がっていると思われる。野球を教えるのに誰も「飛んでくるボールにバットを当てるだけですよ」とか言わないだろう(そのような人がいるといえばいるが……)。サッカーを教えるのに「ボールを蹴るだけです」とか言わないし、ゲームを作るのに「敵を出せばいいんですよ」とはならない。つまり物語の研究蓄積はまだまだ普遍化されていないことになる。

 ただしもちろん理論を学べば誰でもできるわけではない。スポーツ科学を学べば、誰もがイチローになれるわけではないのと同じように、誰もが西尾維新になれるわけではないし、村上春樹になれるわけでもない。大学に来て学んだところでゼミや講義で教えられるのは週に一回である。あとの時間はすべて自らの管理下に置かれる。野球で言えば自主トレの時間が延々と続いているのである。では自主トレをさぼって何もしていない学生に対して私は怒っているのか。福良監督のように「よーし、晩飯抜きで今から君の目の前にいる教員の心理描写をしてみようか」と青筋を立てて特別課題を出したところで何かが起こるのだろうか。怒りはしない。なぜなら基本的に文章など書かなくても死ぬことはないから。エッセイでも随筆でも評論でも小説でも、それらを書かなくても人間は日々生きていくことができる。それでも気付いたら勝手に書いている人が、勝手に頭を回転させている人が、結局、書き続ける人になる。そのような感じで何かを書いていている人を文芸学科では歓迎している。心が揺れ動く高校生はまずは3月25日(土)に開催される「春休みストーリー創作講座」に参加しよう。なお事前申込制で期限は3月22日(水)までになっている。ちなみに私も参加するようにと連絡がきたのだが、大学のサイトには名前がない(3月18日現在)。概ね事務はそのような感じなので、参加される高校生の皆さんも目くじらを立ててはいけない(というのは嘘で昨年は事務手続きがごたごたしてすみませんでした……)。

開催日時 2017年3月25日(土)10:00~15:10

参加費  無料(学食ランチ・チケットをプレゼント)

応募条件 本や漫画を読んだり映画やアニメを観たりするのが好き、物語を空想することが好きな高校生

会場 東北芸術工科大学(〒990-9530 山形市上桜田3-4-5)

持ち物 筆記用具、メモをとるノート

詳細はこちら

BGM:UNISON SQUARE GARDEN「桜のあと(all quartets lead to the?)」

山形県警察の採用ツール、完成

昨年10月から野上ゼミ3年生が制作にあたっていた、山形県警察の採用ツールが完成しました。

ツールは全部で3種類。

パンフレットとそれをいれるクリアファイル、そしてポスターです。

企画構想学科の夏目則子先生のゼミと共同で制作しました。

文芸学科としてはおそらく初の外部からの受託事業になるのではないかと思います。

昨年10月、まず昨年度のパンフレットやポスターの問題点を洗い出し、同時に日本全国の警察のパンフレットを収集し、それらを分析。そして企画立案を行いました。

採用された「カモシカ案」のほかにも、「自撮り案」や「アメコミ案」、「芋煮案」などさまざまなアイデアをプレゼンテーション。表紙などのキャッチコピーも多数提案しました。県警の皆様からは「あれもいい、これもいい」とご賛同をいただきつつ、最終的にインパクト勝負で「カモシカ案」に決まりました。

今回の採用ツールの制作は、①採用応募の対象である大学生ならではの視点で、②広く若い人に訴求できるようなものをつくってほしいとのご要望でした。

それをクリエイティブとしても完成度の高い形で結実させることができました。学生たちは本当によく頑張り、素晴らしかったと思います。

昨日は本館206教室にて、お披露目の記者会見も行いました。

テレビ局、新聞社と総勢7社の取材がありました。

ツールの訴求力だけでなく話題性という点でも、県警の採用の応募数増につながるのではないかと思います。

パンフレットは就職合同説明会などですでに配布を始めていて、飛ぶようになくなるそうです。

そうですよね。ほしいですよね、警察のカモシカパンフレット。

外観だけでなく中身も、情報が整理され、非常に見やすく読みやすい構成となっています。編集ゼミとして、徹底的に誌面構成をブラッシュアップした結果です。指導教員としては、中身の完成度も褒めてあげたいです。

これから順次、山形県内の警察署や就職イベントなどにて配布されるそうです。

見かけたらぜひ手にとってみてください。

「人も世も移り変わり、空だけ青いまま」

 東京で過ごしている。2月半ばまでは集中講義、卒展、採点、卒制講評会とこなして、毎日があっという間であったが、それ以降はいつものように生活を東京に移して活動している。もろもろの打ち合わせが入ったり、文芸ラジオの編集に関連するものが入ったりと別に暇になったわけではないのだが、それでも東京で過ごしている日々は暖かく、心地よい。山形にいると息を吐いたり吸ったりするだけで風邪をひいてしまうのだが、東京にいるとそのようなことはなく穏やかな暮らしができる。雑踏を歩き、毎日のように本屋をのぞき、考え事をする。情報の飛び交う中で沈思黙考をする楽しさがそこにはある。別に植草甚一になりたいわけではないが、風邪をひいている頭ではそれができない。

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 3月に入るとあわただしくなっていく。東京では既に春一番どころか春三番ぐらいまで吹き荒れ、三寒四温で変化する。身につけるコートも少し薄くなり、手袋もマフラーもとうの昔につけなくなった。頭の中では4月からはじまる授業のことを考え始め、原稿のための読書と趣味の読書だけではなく、毎日のなかに授業準備のための読書が加わる。同時並行で読む本が増えていくのだ。あれこれ考える作業が途切れることなく続いていくことは非常に楽しい。

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 2月の頭は採点作業に終始していたが、そこで1年生のレポートに一つの傾向が出ていることが教員間で話題となった。半分以上のレポートが上から目線で語っているのだ。一人二人であれば、個々人の能力不足で片づけることは可能だが、こうも続くと何かあったのだろうかと勘繰りたくなる。いくつかの要因を挙げるとすると「1:単純に論評するだけの能力が不足している」が真っ先にあがるだろうか。ここにおける能力はいくつかの意味があるだろうが、論評対象を客観的に把握すること、そして自分自身をも客観的に把握することができていないから捻じれた現象が起こっている。一番面白かったのは論評対象と別のものを比較し、これとこれは違いますという結論を書いているのを読んだときである。犬と猫がいるが、いろいろ比較した結果、犬と猫は別のものである。と述べているようなものである。ダメすぎて面白かったのだが、この手のレポートが多数存在したのには閉口した。次に想定されるのは「2:神様になっている」。要は「お客様は神様です理論」である。読者である自分が面白くないのだがら面白くない。読みにくいのだから読みにくい。しか書かないパターンである。そんな神様は必要ない。あと思いつく理由としては「3:自分に自信がない」であろうか。自信のなさの裏返しである。これは当てはまるのかどうかわからない。

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 などと書いているが、4月からこの1年生は2年生になり、新しい1年生は入学する。3月はその前段階の蠢きを感じ取る期間。そして卒業、新しい道へと歩み出すときである。まあ、そんなフレッシュな気持ちなど自分は一切、持たなかった人間であるし、そもそも卒業式に参加しなかった。どこに行こうが、何をしようが、大きく変化しているようでは先が思いやられる。静かに穏やかにこの3月を過ごそう。さて一連の画像は卒展と期間中に行われた卒制講評会(ゲストは阿部晴政(河出書房新社/元『文藝』編集長)さんと栗原康(アナキスト)さん)、そして池田雄一先生の送別会である。一つ一つ紹介すべきかもしれないが、まとめて貼り付けておく。2017年2月の出来事である。

BGM:パスピエ「永すぎた春」

「あらかじめ分かっているさ、意味なんてどこにもないさ」

 勘違いしてはいけない。我々の時代が舞い戻ってきたのではない。最近、何度もそう言い聞かせている。テレビのCMで「ラブリー」が流れ、吉田羊が「さよならなんて云えないよ」を歌い、挙句の果てにめっちゃ楽しみにしていた『龍の歯医者』のテーマソングが「ぼくらが旅に出る理由」だったとしてもだ。そこにあるのは我々が聞いていたオザケンだろうか。だって吉田羊が何かしながらふんふん歌っているのを聞いて、「これはMJですね」とか言わないだろう。『龍の歯医者』のオープニングを見て、「ポール・サイモンですなあ」とか言わないだろう。あれはフミカスとかの握手会とか行って、ぬたぬたした手を差し出すようなオッサンが言うセリフなんだ。そういう90年代だったはずだ。

 しかしオザケンは復活してしまった。この2010年代に配信で曲を売るのではなく、なんだか大きいジャケットに入れられたCDを買わないと聞けないという理不尽さ。変わっていない。パソコンにCDを入れて、曲をiTunesに登録するという行為を数年ぶりに行うことになってしまった。少しドキドキしたよ。でも時間軸が違えば本当はコンポに入れて聞いていたはずだ。あの頃の僕らはそうしていた。そして19年ぶりのシングルはちゃんと19年間の時間の流れを感じさせる歌詞でありながらも、それでもやっぱりオザケンだった。あっという間にヘビロテになってしまった。

 物語はこうして受け継がれ、文化として変化していく。最近、オザケンが昔作ったメロディが耳に入るたびに換骨奪胎とはこういうことなのだと思っている。何より小沢健二や小山田圭吾、Spiral Life、カジヒデキ……あの頃、渋谷系とか呼ばれていたミュージシャンがやってきたことだ。オザケンのセカンドアルバム『LIFE』が私の中で異様に輝き続けているのは、それまでのバンドブームまでは、対抗文化のロックとして強烈なメロディと何か体制への反骨心を歌詞に込めていたのに対し、それらを見事に払しょくしてしまったからだ。コミックバンドのようだったユニコーンですら山形県を壮大にdisる「服部」を歌っている。オザケンは外側を見事なポップスに彩りながらも、中身はもはや様々な楽曲を有機的に結合させてぐちゃぐちゃに固めてきた。「どうだお前ら」と言わんばかりに出来上がっている楽曲は外面だけは偏差値の高いポップソングに仕上がり、お行儀よく座っているように見える。でも中身はとんでもなかった。

 物語を作ることは非常に難しい。日常的に大学で物語をいかにして読み解くのかの話をしている自分としては当然のことであるが、この文化的な流れはぜひ感じ取ってほしい。皆さんにオザケンになれと言っているのではない。あれは無理だ。やめたほうがいい。数年に一度、文章を書いたり何か別の活動をしているオザケンのニュースがアンテナに引っかかるたびに、「この人は普段どうやってご飯を食べているのだろうか」と思ったのと同時に「そんなことには悩まない家柄だ……」と落ち込むことを繰り返していたら19年も経過してしまった。日々の糧に悩まないなら別に問題はないので、あとは皆さんには超越的な能力があればいいだけ。ボブ・ロスの言うところの「ね、簡単でしょ?」だ。そうでないなら、換骨奪胎しているほうを聞いたほうがいい。信じられないかもしれないが、オザケンがあまりにも刹那的にヒットしてしまったために、オザケンを聞いたりカラオケで歌ったりするだけでダサいという時期もあったりした。今この時期に「ダメよダメダメ」とか言っても、まだ一周していない感じがあるかと思うが、あのような感覚だ。時間経過の見極めと感覚さえうまくいけば、新しい物語を紡いでいくことはできる。そしてそこにはオザケンだけどオザケンではない物語がある。まあ、でも私は「流動体について」を聞くけど。

BGM:Cornelius「太陽は僕の敵」

「それでもいまだに街は落ち着かないような気がしている」

 壁のことをぼんやりと考えている。別に「やはり土壁が一番ですよね」と言うような壁マニアになったわけではなく、比喩表現としての壁である。ぼんやりとした思考なので、どうでもいいといえば、どうでもいいのだが、一つはトランプ現象に影響を受けた物語について評論家がラジオで「やはり壁ですよ」と喋っていたのを、ほうほうと聞いていたことが端緒である。もう一つは通常授業、一般入試前期、採点、集中講義……と様々な校務をこなしながら、息抜きに読んでいた作品が『約束のネバーランド』(白井カイウ・出水ぽすか)と『アビス』(長田龍伯)だったりする。どちらも閉鎖空間に押し込められた少年少女の物語であるが、特に意図せずして読んでしまった。とはいえこの二作品で描かれる閉鎖空間を作品の中心的な主題として取り上げていいのかという疑問は出てくるし、先日発売されたという『アビス』の最終巻をまだ読んではいないので、深く追究することはできない。さらにいえば、その後に読んだ作品は『ぱらのま』(kashmir)である。旅はいいよね。

 閉鎖空間から抜け出す希求は時代や社会も関係なく人々に共有されうる可能性は大きい。もちろん表象としての壁は時代により描かれる意図・テーマ性は変化していく。当たり前だが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹)と『灰羽連盟』(安倍吉俊)の壁は違うし、『進撃の巨人』(諫山創)も違う。それでも所属する集団に息苦しさを覚え、隣の芝生は青く見えるときは常に人にまとわりつく感情かもしれない。曖昧に書いているのは、帰属性を求め、自らが依存していく必然性は本当にあるのだろうかという感慨だってあるのだ。だから『約束のネバーランド』の次に『ぱらのま』を読んでいるのは表裏一体と言える。

 今現在、東北芸術工科大学では卒業制作展(通称、卒展)が開催されている。各学科(と大学院)が卒業制作(と修了制作)を展示するという芸大ならではなイベントである。最初、この大学に赴任したとき不思議なことをやっているものだなあ、と思っていたが、実は今でも文芸学科と展示とはうーんと思っている。学芸員資格を持っているというのに。何はともあれ卒業をしていく学生の皆さんの作品を実際に手に取り、読むことができるのだ。お時間ある人はぜひとも足を運んでいただきたい。この土日までやっており、すべての作品を購入することができる。売り切れる前にぜひ。全作品を買い占めてもいい。もしかしたら将来、大作家になる人の学生時代の作品を所持することになるかもというプレミア感満載である。コーヒーも飲めるよ。

 卒業していく皆さんは、4月から様々な道を歩んでいく。大学という空間に閉塞感を覚えている人も多いだろう。山形という空間に閉塞感を覚えている人だっているかもしれない。そこから抜け出していくことに大きな希望を持っているかもしれないが、それはそれで会社や新しい土地という新しい空間に平行移動して終わるかもしれない。何にせよ、どこに行こうといくらでも広がりは存在するし、どこに行っても空間は有限である。まあ、何となく流されながらも、芯を持って生きていこうという感じである。何か言いたいのかというと、やはり『ぱらのま』は面白い。ブログ更新のためという名目でまた読み返してしまった。

BGM:フジファブリック「若者のすべて」

本が出ました

2016年後半からずっと編集を行っていた単行本

『野生の衝動 東アジアの美意識』(黒川雅之 著)

が1月28日に発売されました。

この本は著者の黒川雅之さんから「出版したい」と相談され、いろいろ考えたところ、黒川さんご自身で出版するのが良いのではないかと思い、そういう提案をさせていただいて出版に至りました。

出版するシステム自体をプロデュースさせていただいたのですが、それは「文芸ラジオ」での経験と人脈があったからできたことです。本書が記念すべき1冊めであり、現時点で世界で一番小さい出版社ですが、これから黒川さんといろいろ出していこうと企んでいます。

プロモーションも自分たちで、ということで、異例ですが「編集より」という文章をAmazonの商品説明に掲載させていただきました。

以下に引用しますので、読んでみてください。

 

『野生の衝動 東アジアの美意識』

<編集より>
黒川雅之さんはすでに偉人である。政府や自治体やゼネコンなど巨大な組織と癒着せずとも自由に多彩な建築を創造し、大手メーカーと組まずとも自ら普遍的なプロダクトをデザインし、造り、売る。10人以下と決めた自身の会社は「小さいこと」を有利に働かせながら50周年を迎え、10年ほど前に70歳にして進出した中国では日本人として他の追随を許さない圧倒的な活躍をしてきた。そして、会えばいつもとろけるような笑顔である。
かつて黒川さんの著書『デザインと死』を手がけてから、ずっと年下の私に、黒川さんは友人のように接し続けてくれている。その黒川さんから本書の出版の相談を受けたとき、私は、黒川さんらしい出版をしてほしいと願った。いまや出版業界は「売れる本」との錦の御旗の下、「わかりやすく」「簡単で」「キャッチーで」「すぐに使える」本ばかりを生み出している。しかし黒川さんの原稿は、これだけですでにひとつの「文化」だった。そのようなものを既存の出版社で出せるのか。否。私の答えは、黒川さん自身が出版することだった。
だから本書は、黒川さんが主宰するデザイントープから発行された。黒川さんの会社K&Kで編集とデザインを行い、私も編集に参画し、日本出版販売の柴田さんや発売元の協力を得て、シナノで印刷し、皆様の手元に届く。出版するために、小さな出版社をつくったのである。それこそ黒川さんらしい出版だろう。私はそう確信している。
本書には創作・デザインにおける24の思想と、人類の自然思想の概説が記されている。本書のなかで黒川さんは「他者の本から得た思想の上に自分の思想を構築するのではなく、自分の思想を刺激するために他者の本を読む」という意のことを言っている。本書もそのようにして読まれるべきだと私は思う。
ひとりのクリエイターとして、私もそのように原稿を読んだ。1文字ごとに、なんと刺激的であったことか。自分のなかに眠る創作欲を呼び起こされる体験であった。まさに「野生の衝動」を感じた。
本書を手にとる皆様にも同じ体験をしていただきたい。老若男女問わずすべてのクリエイターに読んでほしい一冊が仕上がった。本書の編集に参画できたことを誇りに思う。

−東北芸術工科大学 芸術学部 文芸学科 専任講師 野上勇人

 

「今日だけは神様の事、みんな信じてる」

 2017年がやってきた。仕事が終わってなくとも、疲れ切っていても何にせよ暦はめぐっていく。平成何年かまたわからなくなるじゃないか。元号と西暦が並行世界の時間軸で進んでいくようで、みんなは混乱していないのだろうか。書類に向かうたびに困っているのは私だけか。年末年始はいつものように東京の自宅で静養につとめたので、体はすっかり通常運行となっている。山形の冬は寒く、理屈ではわかっている気温であっても体がついていくのが非常に難しいのだ。静養といいつつも大晦日は毎年、コミックマーケットに参加しているので紅白歌合戦から元日にかけては俗にいうところのコミケ疲れで朦朧としていた。ブースで売り子として座っている段階でそれなりに朦朧としているので受け答えも遅くなり、「あ、今、脳の反応が少し遅れたな」とかぼんやりと考えながらコミケでしか会わない人たちに挨拶をしていた。皆さん、ご無沙汰しています。お元気ですか。論文読みましたよ。あのアニメ見ました?

 それはそれとして、冬休みは暇だったのかというと、そうでもなく一つは卒業制作を読むことを行っていた。毎年のことながら学生の皆さんの作品を読んでいくと成長のあとが見られて、嬉しくなると同時に、もっと指導できたのではないかという自問自答が湧き上がってくる。まだまだ精進せねばならない。もう一つはシラバスをそろそろ書かないといけないので、次年度の下準備を行っていた。うちの大学はこれまで授業を受け持ってきた大学に比べるとシラバス執筆の締切が遅かったので2月3月にこの作業を行っていたのだが、今年はほかの大学と同程度の日程の締切が提示された。まあ、締切に関しては、そうですよね、と思うだけで特に不満はない。したがって学生の原稿を読み進めながら、来年度の授業で使おうかなと思っている作品を読み進めていたのである。

 もちろん仕事もしていた。思ったほど進んでいない原稿を前に明日から授業が再開するという現実をかみしめているわけである。ちゃんと書きます。はい。そして新年早々のブログ更新は宣伝で終わるのだ。まさかの大晦日発売となった大橋崇行・山中智省編『ライトノベル・フロントライン3』(青弓社、2016年)に「ゲームとライトノベルの関係性――ヒロインの選択をめぐって」という小文を寄稿したので、お時間ある人はご購入いただきたい。もしくは図書館に購入リクエストを入れていただきたい。ちなみにこの3号には本学の吉田正高先生の論考、そして夏の集中講義に来られている森田季節さんも「第2回ライトノベル・フロントライン大賞最終選考会」に登場している。うちの夏の集中講義メンバー勢ぞろいである。ということで今年もよろしくお願いします。

BGM:ユニコーン「お年玉」