「桜が咲いて散ったその後で、何が真実なのかは」

 今年のオリックスバファローズはいけるだろうか。メディアを通じて情報を手に入れるだけで特にキャンプ地に取材に行ったわけではないが、少し心配なのは福良監督が選手たちに対して怒りの鉄槌を食らわせるキャラクターになっていることである。それが良いのか悪いのかは、簡単に判別できない。一つ心配なのは怒りの感情を表出しなければならないほどチーム内に自律的な活動を見込むことができないのだろうかという点である。練習試合でミスした選手には昼飯抜きの特打を課し、体重管理ができていない選手には二軍行きを命じる。それが最終的に何かを生み出したとしても、それでいいのだろうか。このように考えてしまうこと自体が極めて大リーグの個人主義的な練習方法に依拠しており、日本のプロ野球とは違うのだと言われてしまえば、特に評論家でもない自分はそうですかとそっと目を閉じるだけである。

 とはいえ、もしかしたらチーム内の空気はそのような感じではなく、福良監督を胴上げするんだ、と皆さん、意気込んでいるかもしれない。どっちであろうとも応援することには変わらないし、現にWBCで平野佳寿がセットアッパーとして投げるのを見るだけで、「この時期にオリックスの選手をテレビで見られるとは」と感謝している。WBCは従来であれば球数制限の影響で先発、第二先発とスターターの二枚看板で試合を構成していたのが、手探り状態(なのかはわからないけど)の指揮の中で、先発と第二先発の間に平野が一イニングだけ投げ、相手をシャットアウトすることで試合の流れを見事に自陣に引き戻している。さすが。

 自律的な活動に期待することは非常に難しい。文芸学科に所属していると、よく言われるのが「どうやって教えるのですか?」ということである。そしてこの言葉の裏には「物語なんか論理的に教えることなんか無理でしょう?」という意図が隠れている。100年以上前から物語論の研究蓄積があり、さらにはハリウッドでの映画の脚本理論が体系化され、日本にも輸入されている状況でありながら、なぜか物語を紡ぐことは論理的に行うわけではなく心の行くまま天真爛漫に出来上がっていると思われる。野球を教えるのに誰も「飛んでくるボールにバットを当てるだけですよ」とか言わないだろう(そのような人がいるといえばいるが……)。サッカーを教えるのに「ボールを蹴るだけです」とか言わないし、ゲームを作るのに「敵を出せばいいんですよ」とはならない。つまり物語の研究蓄積はまだまだ普遍化されていないことになる。

 ただしもちろん理論を学べば誰でもできるわけではない。スポーツ科学を学べば、誰もがイチローになれるわけではないのと同じように、誰もが西尾維新になれるわけではないし、村上春樹になれるわけでもない。大学に来て学んだところでゼミや講義で教えられるのは週に一回である。あとの時間はすべて自らの管理下に置かれる。野球で言えば自主トレの時間が延々と続いているのである。では自主トレをさぼって何もしていない学生に対して私は怒っているのか。福良監督のように「よーし、晩飯抜きで今から君の目の前にいる教員の心理描写をしてみようか」と青筋を立てて特別課題を出したところで何かが起こるのだろうか。怒りはしない。なぜなら基本的に文章など書かなくても死ぬことはないから。エッセイでも随筆でも評論でも小説でも、それらを書かなくても人間は日々生きていくことができる。それでも気付いたら勝手に書いている人が、勝手に頭を回転させている人が、結局、書き続ける人になる。そのような感じで何かを書いていている人を文芸学科では歓迎している。心が揺れ動く高校生はまずは3月25日(土)に開催される「春休みストーリー創作講座」に参加しよう。なお事前申込制で期限は3月22日(水)までになっている。ちなみに私も参加するようにと連絡がきたのだが、大学のサイトには名前がない(3月18日現在)。概ね事務はそのような感じなので、参加される高校生の皆さんも目くじらを立ててはいけない(というのは嘘で昨年は事務手続きがごたごたしてすみませんでした……)。

開催日時 2017年3月25日(土)10:00~15:10

参加費  無料(学食ランチ・チケットをプレゼント)

応募条件 本や漫画を読んだり映画やアニメを観たりするのが好き、物語を空想することが好きな高校生

会場 東北芸術工科大学(〒990-9530 山形市上桜田3-4-5)

持ち物 筆記用具、メモをとるノート

詳細はこちら

BGM:UNISON SQUARE GARDEN「桜のあと(all quartets lead to the?)」

山形県警察の採用ツール、完成

昨年10月から野上ゼミ3年生が制作にあたっていた、山形県警察の採用ツールが完成しました。

ツールは全部で3種類。

パンフレットとそれをいれるクリアファイル、そしてポスターです。

企画構想学科の夏目則子先生のゼミと共同で制作しました。

文芸学科としてはおそらく初の外部からの受託事業になるのではないかと思います。

昨年10月、まず昨年度のパンフレットやポスターの問題点を洗い出し、同時に日本全国の警察のパンフレットを収集し、それらを分析。そして企画立案を行いました。

採用された「カモシカ案」のほかにも、「自撮り案」や「アメコミ案」、「芋煮案」などさまざまなアイデアをプレゼンテーション。表紙などのキャッチコピーも多数提案しました。県警の皆様からは「あれもいい、これもいい」とご賛同をいただきつつ、最終的にインパクト勝負で「カモシカ案」に決まりました。

今回の採用ツールの制作は、①採用応募の対象である大学生ならではの視点で、②広く若い人に訴求できるようなものをつくってほしいとのご要望でした。

それをクリエイティブとしても完成度の高い形で結実させることができました。学生たちは本当によく頑張り、素晴らしかったと思います。

昨日は本館206教室にて、お披露目の記者会見も行いました。

テレビ局、新聞社と総勢7社の取材がありました。

ツールの訴求力だけでなく話題性という点でも、県警の採用の応募数増につながるのではないかと思います。

パンフレットは就職合同説明会などですでに配布を始めていて、飛ぶようになくなるそうです。

そうですよね。ほしいですよね、警察のカモシカパンフレット。

外観だけでなく中身も、情報が整理され、非常に見やすく読みやすい構成となっています。編集ゼミとして、徹底的に誌面構成をブラッシュアップした結果です。指導教員としては、中身の完成度も褒めてあげたいです。

これから順次、山形県内の警察署や就職イベントなどにて配布されるそうです。

見かけたらぜひ手にとってみてください。

「人も世も移り変わり、空だけ青いまま」

 東京で過ごしている。2月半ばまでは集中講義、卒展、採点、卒制講評会とこなして、毎日があっという間であったが、それ以降はいつものように生活を東京に移して活動している。もろもろの打ち合わせが入ったり、文芸ラジオの編集に関連するものが入ったりと別に暇になったわけではないのだが、それでも東京で過ごしている日々は暖かく、心地よい。山形にいると息を吐いたり吸ったりするだけで風邪をひいてしまうのだが、東京にいるとそのようなことはなく穏やかな暮らしができる。雑踏を歩き、毎日のように本屋をのぞき、考え事をする。情報の飛び交う中で沈思黙考をする楽しさがそこにはある。別に植草甚一になりたいわけではないが、風邪をひいている頭ではそれができない。

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 3月に入るとあわただしくなっていく。東京では既に春一番どころか春三番ぐらいまで吹き荒れ、三寒四温で変化する。身につけるコートも少し薄くなり、手袋もマフラーもとうの昔につけなくなった。頭の中では4月からはじまる授業のことを考え始め、原稿のための読書と趣味の読書だけではなく、毎日のなかに授業準備のための読書が加わる。同時並行で読む本が増えていくのだ。あれこれ考える作業が途切れることなく続いていくことは非常に楽しい。

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 2月の頭は採点作業に終始していたが、そこで1年生のレポートに一つの傾向が出ていることが教員間で話題となった。半分以上のレポートが上から目線で語っているのだ。一人二人であれば、個々人の能力不足で片づけることは可能だが、こうも続くと何かあったのだろうかと勘繰りたくなる。いくつかの要因を挙げるとすると「1:単純に論評するだけの能力が不足している」が真っ先にあがるだろうか。ここにおける能力はいくつかの意味があるだろうが、論評対象を客観的に把握すること、そして自分自身をも客観的に把握することができていないから捻じれた現象が起こっている。一番面白かったのは論評対象と別のものを比較し、これとこれは違いますという結論を書いているのを読んだときである。犬と猫がいるが、いろいろ比較した結果、犬と猫は別のものである。と述べているようなものである。ダメすぎて面白かったのだが、この手のレポートが多数存在したのには閉口した。次に想定されるのは「2:神様になっている」。要は「お客様は神様です理論」である。読者である自分が面白くないのだがら面白くない。読みにくいのだから読みにくい。しか書かないパターンである。そんな神様は必要ない。あと思いつく理由としては「3:自分に自信がない」であろうか。自信のなさの裏返しである。これは当てはまるのかどうかわからない。

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 などと書いているが、4月からこの1年生は2年生になり、新しい1年生は入学する。3月はその前段階の蠢きを感じ取る期間。そして卒業、新しい道へと歩み出すときである。まあ、そんなフレッシュな気持ちなど自分は一切、持たなかった人間であるし、そもそも卒業式に参加しなかった。どこに行こうが、何をしようが、大きく変化しているようでは先が思いやられる。静かに穏やかにこの3月を過ごそう。さて一連の画像は卒展と期間中に行われた卒制講評会(ゲストは阿部晴政(河出書房新社/元『文藝』編集長)さんと栗原康(アナキスト)さん)、そして池田雄一先生の送別会である。一つ一つ紹介すべきかもしれないが、まとめて貼り付けておく。2017年2月の出来事である。

BGM:パスピエ「永すぎた春」

「あらかじめ分かっているさ、意味なんてどこにもないさ」

 勘違いしてはいけない。我々の時代が舞い戻ってきたのではない。最近、何度もそう言い聞かせている。テレビのCMで「ラブリー」が流れ、吉田羊が「さよならなんて云えないよ」を歌い、挙句の果てにめっちゃ楽しみにしていた『龍の歯医者』のテーマソングが「ぼくらが旅に出る理由」だったとしてもだ。そこにあるのは我々が聞いていたオザケンだろうか。だって吉田羊が何かしながらふんふん歌っているのを聞いて、「これはMJですね」とか言わないだろう。『龍の歯医者』のオープニングを見て、「ポール・サイモンですなあ」とか言わないだろう。あれはフミカスとかの握手会とか行って、ぬたぬたした手を差し出すようなオッサンが言うセリフなんだ。そういう90年代だったはずだ。

 しかしオザケンは復活してしまった。この2010年代に配信で曲を売るのではなく、なんだか大きいジャケットに入れられたCDを買わないと聞けないという理不尽さ。変わっていない。パソコンにCDを入れて、曲をiTunesに登録するという行為を数年ぶりに行うことになってしまった。少しドキドキしたよ。でも時間軸が違えば本当はコンポに入れて聞いていたはずだ。あの頃の僕らはそうしていた。そして19年ぶりのシングルはちゃんと19年間の時間の流れを感じさせる歌詞でありながらも、それでもやっぱりオザケンだった。あっという間にヘビロテになってしまった。

 物語はこうして受け継がれ、文化として変化していく。最近、オザケンが昔作ったメロディが耳に入るたびに換骨奪胎とはこういうことなのだと思っている。何より小沢健二や小山田圭吾、Spiral Life、カジヒデキ……あの頃、渋谷系とか呼ばれていたミュージシャンがやってきたことだ。オザケンのセカンドアルバム『LIFE』が私の中で異様に輝き続けているのは、それまでのバンドブームまでは、対抗文化のロックとして強烈なメロディと何か体制への反骨心を歌詞に込めていたのに対し、それらを見事に払しょくしてしまったからだ。コミックバンドのようだったユニコーンですら山形県を壮大にdisる「服部」を歌っている。オザケンは外側を見事なポップスに彩りながらも、中身はもはや様々な楽曲を有機的に結合させてぐちゃぐちゃに固めてきた。「どうだお前ら」と言わんばかりに出来上がっている楽曲は外面だけは偏差値の高いポップソングに仕上がり、お行儀よく座っているように見える。でも中身はとんでもなかった。

 物語を作ることは非常に難しい。日常的に大学で物語をいかにして読み解くのかの話をしている自分としては当然のことであるが、この文化的な流れはぜひ感じ取ってほしい。皆さんにオザケンになれと言っているのではない。あれは無理だ。やめたほうがいい。数年に一度、文章を書いたり何か別の活動をしているオザケンのニュースがアンテナに引っかかるたびに、「この人は普段どうやってご飯を食べているのだろうか」と思ったのと同時に「そんなことには悩まない家柄だ……」と落ち込むことを繰り返していたら19年も経過してしまった。日々の糧に悩まないなら別に問題はないので、あとは皆さんには超越的な能力があればいいだけ。ボブ・ロスの言うところの「ね、簡単でしょ?」だ。そうでないなら、換骨奪胎しているほうを聞いたほうがいい。信じられないかもしれないが、オザケンがあまりにも刹那的にヒットしてしまったために、オザケンを聞いたりカラオケで歌ったりするだけでダサいという時期もあったりした。今この時期に「ダメよダメダメ」とか言っても、まだ一周していない感じがあるかと思うが、あのような感覚だ。時間経過の見極めと感覚さえうまくいけば、新しい物語を紡いでいくことはできる。そしてそこにはオザケンだけどオザケンではない物語がある。まあ、でも私は「流動体について」を聞くけど。

BGM:Cornelius「太陽は僕の敵」

「それでもいまだに街は落ち着かないような気がしている」

 壁のことをぼんやりと考えている。別に「やはり土壁が一番ですよね」と言うような壁マニアになったわけではなく、比喩表現としての壁である。ぼんやりとした思考なので、どうでもいいといえば、どうでもいいのだが、一つはトランプ現象に影響を受けた物語について評論家がラジオで「やはり壁ですよ」と喋っていたのを、ほうほうと聞いていたことが端緒である。もう一つは通常授業、一般入試前期、採点、集中講義……と様々な校務をこなしながら、息抜きに読んでいた作品が『約束のネバーランド』(白井カイウ・出水ぽすか)と『アビス』(長田龍伯)だったりする。どちらも閉鎖空間に押し込められた少年少女の物語であるが、特に意図せずして読んでしまった。とはいえこの二作品で描かれる閉鎖空間を作品の中心的な主題として取り上げていいのかという疑問は出てくるし、先日発売されたという『アビス』の最終巻をまだ読んではいないので、深く追究することはできない。さらにいえば、その後に読んだ作品は『ぱらのま』(kashmir)である。旅はいいよね。

 閉鎖空間から抜け出す希求は時代や社会も関係なく人々に共有されうる可能性は大きい。もちろん表象としての壁は時代により描かれる意図・テーマ性は変化していく。当たり前だが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹)と『灰羽連盟』(安倍吉俊)の壁は違うし、『進撃の巨人』(諫山創)も違う。それでも所属する集団に息苦しさを覚え、隣の芝生は青く見えるときは常に人にまとわりつく感情かもしれない。曖昧に書いているのは、帰属性を求め、自らが依存していく必然性は本当にあるのだろうかという感慨だってあるのだ。だから『約束のネバーランド』の次に『ぱらのま』を読んでいるのは表裏一体と言える。

 今現在、東北芸術工科大学では卒業制作展(通称、卒展)が開催されている。各学科(と大学院)が卒業制作(と修了制作)を展示するという芸大ならではなイベントである。最初、この大学に赴任したとき不思議なことをやっているものだなあ、と思っていたが、実は今でも文芸学科と展示とはうーんと思っている。学芸員資格を持っているというのに。何はともあれ卒業をしていく学生の皆さんの作品を実際に手に取り、読むことができるのだ。お時間ある人はぜひとも足を運んでいただきたい。この土日までやっており、すべての作品を購入することができる。売り切れる前にぜひ。全作品を買い占めてもいい。もしかしたら将来、大作家になる人の学生時代の作品を所持することになるかもというプレミア感満載である。コーヒーも飲めるよ。

 卒業していく皆さんは、4月から様々な道を歩んでいく。大学という空間に閉塞感を覚えている人も多いだろう。山形という空間に閉塞感を覚えている人だっているかもしれない。そこから抜け出していくことに大きな希望を持っているかもしれないが、それはそれで会社や新しい土地という新しい空間に平行移動して終わるかもしれない。何にせよ、どこに行こうといくらでも広がりは存在するし、どこに行っても空間は有限である。まあ、何となく流されながらも、芯を持って生きていこうという感じである。何か言いたいのかというと、やはり『ぱらのま』は面白い。ブログ更新のためという名目でまた読み返してしまった。

BGM:フジファブリック「若者のすべて」

本が出ました

2016年後半からずっと編集を行っていた単行本

『野生の衝動 東アジアの美意識』(黒川雅之 著)

が1月28日に発売されました。

この本は著者の黒川雅之さんから「出版したい」と相談され、いろいろ考えたところ、黒川さんご自身で出版するのが良いのではないかと思い、そういう提案をさせていただいて出版に至りました。

出版するシステム自体をプロデュースさせていただいたのですが、それは「文芸ラジオ」での経験と人脈があったからできたことです。本書が記念すべき1冊めであり、現時点で世界で一番小さい出版社ですが、これから黒川さんといろいろ出していこうと企んでいます。

プロモーションも自分たちで、ということで、異例ですが「編集より」という文章をAmazonの商品説明に掲載させていただきました。

以下に引用しますので、読んでみてください。

 

『野生の衝動 東アジアの美意識』

<編集より>
黒川雅之さんはすでに偉人である。政府や自治体やゼネコンなど巨大な組織と癒着せずとも自由に多彩な建築を創造し、大手メーカーと組まずとも自ら普遍的なプロダクトをデザインし、造り、売る。10人以下と決めた自身の会社は「小さいこと」を有利に働かせながら50周年を迎え、10年ほど前に70歳にして進出した中国では日本人として他の追随を許さない圧倒的な活躍をしてきた。そして、会えばいつもとろけるような笑顔である。
かつて黒川さんの著書『デザインと死』を手がけてから、ずっと年下の私に、黒川さんは友人のように接し続けてくれている。その黒川さんから本書の出版の相談を受けたとき、私は、黒川さんらしい出版をしてほしいと願った。いまや出版業界は「売れる本」との錦の御旗の下、「わかりやすく」「簡単で」「キャッチーで」「すぐに使える」本ばかりを生み出している。しかし黒川さんの原稿は、これだけですでにひとつの「文化」だった。そのようなものを既存の出版社で出せるのか。否。私の答えは、黒川さん自身が出版することだった。
だから本書は、黒川さんが主宰するデザイントープから発行された。黒川さんの会社K&Kで編集とデザインを行い、私も編集に参画し、日本出版販売の柴田さんや発売元の協力を得て、シナノで印刷し、皆様の手元に届く。出版するために、小さな出版社をつくったのである。それこそ黒川さんらしい出版だろう。私はそう確信している。
本書には創作・デザインにおける24の思想と、人類の自然思想の概説が記されている。本書のなかで黒川さんは「他者の本から得た思想の上に自分の思想を構築するのではなく、自分の思想を刺激するために他者の本を読む」という意のことを言っている。本書もそのようにして読まれるべきだと私は思う。
ひとりのクリエイターとして、私もそのように原稿を読んだ。1文字ごとに、なんと刺激的であったことか。自分のなかに眠る創作欲を呼び起こされる体験であった。まさに「野生の衝動」を感じた。
本書を手にとる皆様にも同じ体験をしていただきたい。老若男女問わずすべてのクリエイターに読んでほしい一冊が仕上がった。本書の編集に参画できたことを誇りに思う。

−東北芸術工科大学 芸術学部 文芸学科 専任講師 野上勇人

 

「今日だけは神様の事、みんな信じてる」

 2017年がやってきた。仕事が終わってなくとも、疲れ切っていても何にせよ暦はめぐっていく。平成何年かまたわからなくなるじゃないか。元号と西暦が並行世界の時間軸で進んでいくようで、みんなは混乱していないのだろうか。書類に向かうたびに困っているのは私だけか。年末年始はいつものように東京の自宅で静養につとめたので、体はすっかり通常運行となっている。山形の冬は寒く、理屈ではわかっている気温であっても体がついていくのが非常に難しいのだ。静養といいつつも大晦日は毎年、コミックマーケットに参加しているので紅白歌合戦から元日にかけては俗にいうところのコミケ疲れで朦朧としていた。ブースで売り子として座っている段階でそれなりに朦朧としているので受け答えも遅くなり、「あ、今、脳の反応が少し遅れたな」とかぼんやりと考えながらコミケでしか会わない人たちに挨拶をしていた。皆さん、ご無沙汰しています。お元気ですか。論文読みましたよ。あのアニメ見ました?

 それはそれとして、冬休みは暇だったのかというと、そうでもなく一つは卒業制作を読むことを行っていた。毎年のことながら学生の皆さんの作品を読んでいくと成長のあとが見られて、嬉しくなると同時に、もっと指導できたのではないかという自問自答が湧き上がってくる。まだまだ精進せねばならない。もう一つはシラバスをそろそろ書かないといけないので、次年度の下準備を行っていた。うちの大学はこれまで授業を受け持ってきた大学に比べるとシラバス執筆の締切が遅かったので2月3月にこの作業を行っていたのだが、今年はほかの大学と同程度の日程の締切が提示された。まあ、締切に関しては、そうですよね、と思うだけで特に不満はない。したがって学生の原稿を読み進めながら、来年度の授業で使おうかなと思っている作品を読み進めていたのである。

 もちろん仕事もしていた。思ったほど進んでいない原稿を前に明日から授業が再開するという現実をかみしめているわけである。ちゃんと書きます。はい。そして新年早々のブログ更新は宣伝で終わるのだ。まさかの大晦日発売となった大橋崇行・山中智省編『ライトノベル・フロントライン3』(青弓社、2016年)に「ゲームとライトノベルの関係性――ヒロインの選択をめぐって」という小文を寄稿したので、お時間ある人はご購入いただきたい。もしくは図書館に購入リクエストを入れていただきたい。ちなみにこの3号には本学の吉田正高先生の論考、そして夏の集中講義に来られている森田季節さんも「第2回ライトノベル・フロントライン大賞最終選考会」に登場している。うちの夏の集中講義メンバー勢ぞろいである。ということで今年もよろしくお願いします。

BGM:ユニコーン「お年玉」

「僕はここにいるよ、昨日までの悲しみ捨て」

 黒沢健一が亡くなった。中学生のころから聞いている人の声が、新曲が聴けなくなるという喪失感は思った以上にダメージが大きくて自分でも驚いている。当たり前のようにまだまだこれからも新曲が発表されて、私はそれを楽しんで生きていけると信じ切っていた。脳腫瘍のニュースを目にしていたというのに、治って元気にステージに立つものだと思っていた。それどころかL⇔Rが再始動するのではないかぐらいのことを考えていたのだ。愛媛県という片田舎で育った私にとってはL⇔Rが作り出すポップでアメリカンなメロディラインは遠い異国への憧憬のような感情を掻き立ててくれる素晴らしい作品群で、「KNOCKIN’ ON YOUR DOOR」でミリオンセラーをたたき出したときには拍手を送ったぐらいである。高校1年生のときかな。その後も立て続けにリリースされる新曲の完成度も高く、ヒットチャートにランクインしていく状況は単なるファンなのに鼻高い気分になっていた。まさしく高二病である。

 しかしアルバム『Doubt』でリリースがぴたっと止まってしまい、アホなファンである私はラストシングルとなってしまった「STAND」の歌詞にある「いつも通りにここで待ってみよう」を信じ、普通に待っていたのである。後から考えると「大金を稼ぐ。体重は増える。そしていつもいつも何か失う」の重要性を考えるべきであった。後年、インタビューを読むと当時の制作に対する悩みを述べるとともに、活動停止後は何をしているのかという質問に対し笑いながら「公園のベンチで酒を飲んでます」と言っていた。その時も苦しみの一端を垣間見ていたはずなのに大学生になった私はソロライブを見に行きながら、いつか活動再開するだろうと楽観視していたのである。何せソロライブなのにバックバンドにL⇔Rのベースである木下裕晴が参加していたから。

 12月に入り、これから就活を始める学生と面談をするようになると高確率で言われるのが「どこでもいいです」、「なんでもいいです」、「生きることさえできれば、こだわりはないです」ということだ。私だっていつしか仕事をするようになり、忙しさに楽曲を聞く時間が奪われていくようになっている。いや奪われているのは時間ではなく、心の余裕かもしれない。限られた時間の中で何ができるのかという効率化のなかで体力的な衰えをどうカヴァーしていけばいいだろうとオッサンのようなことを考えるようになってしまった。中学生のときは中西圭三と久保田利伸の声の区別はすぐについたのに、今はRADWIMPSとBUMP OF CHICKENの区別がつかなくなってしまった。あれだぜ、大学生のときにバンプのCDを普通に買ってるぐらいだったのにだ。人間、流されて生きていくのは楽かもしれないが、そんなに放棄することもないだろう。そんなことしているとラッドとバンプの区別もつかなくなってしまうぞ。たまには立ち止まって考え、情報収集し、また考え、戦略を練るのも悪くない。学生のみんなも冬休みに入るが、ゆっくりするとともに数年後に何をしていたいか、どうしたいかをたまには考えるのも悪くないんじゃないか。あの時、もっと考えていればよかったという後悔は陳腐なんだ。いつかL⇔Rへのインタビューをしようと思っていた私が言うのだから間違いない。

BGM:L⇔R「HELLO, IT’S ME」

著作権講義を行いました

去る11月17日に、弁護士の吉澤尚先生を特別講師にお招きして、著作権に関しての講義を実施しました。

1年次向けの「編集概論」の授業の一環です。

なんとなくわかったような気になっている「著作権」ですが、いざ「これはどうなんだろう?」というグレーゾーンに直面すると、簡単にはOKとNGの判断が下せません。

「軽い気持ちで」使ってしまった他人の著作物が、あとあと損害賠償などの大きなトラブルに発展することもないとは言えません。そうならないような注意点をきちんと教えていただきました。

また、大学生は在学中に論文やレポート、創作小説などをたくさん書きますが、そこで他人の文章を「引用」するにはどうすればいいかについても、きちんと教えていただきました。

 

講義ではそうした「NG」に関することだけでなく、吉澤先生から、いまITなどの現場でどのように著作権がビジネスに活かされているか、著作権をどのように使うと新しいビジネスにつながるかといった、明るい話もたくさんありました。

小説を書く、本や雑誌をつくるといった活動において、著作権は切っても切れない必須の知識です。1年生の皆さんは授業内容をよく復習して、今後につなげてください。

 

ところで、実は吉澤先生は野上の中学・高校の同窓生です。

久しぶりに会えて、ヤキトリ四丁目で旧交を温めることができたのも非常に良かったです。

それから弁護士である吉澤先生と会った山川先生、石川先生が、揃って「もし何かあった時にはよろしくお願いします」と同じ挨拶をされていらっしゃったことをここにご報告しておきます。

何か身に覚えがあるのでしょうかね???

 

「頼みもしないのに朝はやって来る」

 先日、大学の図書館より「教員それぞれが感銘を受けた作品の紹介文をつけて展示する」ので、何か書くようにという連絡がきた。実は私は誰かに作品を薦めることや紹介することが苦手である。その理由として感銘を受けることや心に残るということを精緻に考えれば考えるほど、有機的につながっているものであって一つの作品のみで切り取ることなど無理なのではないだろうかという疑問がぬぐい取れないからである。小学生のときに何度も読んだ北杜夫の自伝的小説『楡家の人びと』や友野詳のライトノベル作品『コクーン・ワールド』というように、ただ読んだだけなら硬軟関係なくいくらでも紹介することはできる。しかし、それが果たして私の人間形成にどこまで影響を与えたのかというのは非常に難しい問題である。もしかしたら『夜と霧の隅で』の脳みその描写かもしれないし、『怪盗ジバコ』シリーズの喜劇風味に影響を受けたのかもしれない。『ロードス島戦記』シリーズも何度も読んだし、あのとき買っていた『ゴクドーくん漫遊記』の印税は作者に豪遊費として使われていたことを後年知ったときは何とも言えない気分になったものである。小学生が買った本の印税である。

 諸々逡巡してしまうもう一つの理由は誰かに紹介されることなく、自分で探して読んだ方が面白いという経験からくる疑問である。大学生のときなど暇すぎて年間数百冊の本を読んでいたが、それでも足りなかったと思っている。速読を身につけて、年間数千冊を読むべきであった。とはいえ大学院生ぐらいになったときは、複数の読書手法を同時並行で行えるようになったので、比較的多くのものを読めるようになってはいた。それはさておき、図書館にある本を右から左に読んでいけばいい。『スレイヤーズ』で獣神官ゼロスが指一本を右から左に振るだけで数百もいるドラゴンを倒していたように、とりあえず手に取ったものを読んでいくと楽しいのではないだろうか。

 そして紹介文を書くテンションが一気に下がってしまった最大の理由は、漫画はNGという点である。もちろん図書館として漫画は置かないというのは仕方のないことであろう。とはいえ、個人的には小説より漫画を読んできた量が多いので、影響の割合的には漫画のほうが大きい。しかも、この10月からは漫画ゼミをスタートしたので、すでに大学内で学生たちと漫画を読んでいるのだ。通常のゼミが終わったあとに希望者と一緒に毎回ゼミ活動を行っている。やっていることは漫画制作を希望している学生はネーム指導・講評をし、それ以外は漫画作品を講読している。本当は月に一回ぐらい、ゆるゆるでやっていくつもりだったが、なぜか毎週やっている。毎週、漫画について喋ってしまっていて時間が足りない。漫画は物語やら世界観やらという中身の問題だけではなく、カメラワークやコマ割りという描き方の問題も含めて複合的に考えていく必要のある媒体である。喋ることは非常に多い(という理由もあるが、実は単に漫画について喋っているのが楽しい)。これまで読んだのは冨樫義博の『幽遊白書』、『HUNTER×HUNTER』、米代恭の『あげくの果てのカノン』になる。ゼミでは何だかいろいろと喋ったが、ここに書くのは面倒なので、そのうち直接聞いて欲しい。前回は漫画家の芳村梨絵さんと編集者の東原寛明さんをお招きして特別講演および公開講評をしていただいた。次回は九井諒子の『ダンジョン飯』を講読する予定なので各自読んでくるように。

 ちなみに紹介文はどうしようかと考えているうちに締切が過ぎてしまったことをここに付記しておく。

BGM:keno「おはよう」