「僕はここにいるよ、昨日までの悲しみ捨て」

 黒沢健一が亡くなった。中学生のころから聞いている人の声が、新曲が聴けなくなるという喪失感は思った以上にダメージが大きくて自分でも驚いている。当たり前のようにまだまだこれからも新曲が発表されて、私はそれを楽しんで生きていけると信じ切っていた。脳腫瘍のニュースを目にしていたというのに、治って元気にステージに立つものだと思っていた。それどころかL⇔Rが再始動するのではないかぐらいのことを考えていたのだ。愛媛県という片田舎で育った私にとってはL⇔Rが作り出すポップでアメリカンなメロディラインは遠い異国への憧憬のような感情を掻き立ててくれる素晴らしい作品群で、「KNOCKIN’ ON YOUR DOOR」でミリオンセラーをたたき出したときには拍手を送ったぐらいである。高校1年生のときかな。その後も立て続けにリリースされる新曲の完成度も高く、ヒットチャートにランクインしていく状況は単なるファンなのに鼻高い気分になっていた。まさしく高二病である。

 しかしアルバム『Doubt』でリリースがぴたっと止まってしまい、アホなファンである私はラストシングルとなってしまった「STAND」の歌詞にある「いつも通りにここで待ってみよう」を信じ、普通に待っていたのである。後から考えると「大金を稼ぐ。体重は増える。そしていつもいつも何か失う」の重要性を考えるべきであった。後年、インタビューを読むと当時の制作に対する悩みを述べるとともに、活動停止後は何をしているのかという質問に対し笑いながら「公園のベンチで酒を飲んでます」と言っていた。その時も苦しみの一端を垣間見ていたはずなのに大学生になった私はソロライブを見に行きながら、いつか活動再開するだろうと楽観視していたのである。何せソロライブなのにバックバンドにL⇔Rのベースである木下裕晴が参加していたから。

 12月に入り、これから就活を始める学生と面談をするようになると高確率で言われるのが「どこでもいいです」、「なんでもいいです」、「生きることさえできれば、こだわりはないです」ということだ。私だっていつしか仕事をするようになり、忙しさに楽曲を聞く時間が奪われていくようになっている。いや奪われているのは時間ではなく、心の余裕かもしれない。限られた時間の中で何ができるのかという効率化のなかで体力的な衰えをどうカヴァーしていけばいいだろうとオッサンのようなことを考えるようになってしまった。中学生のときは中西圭三と久保田利伸の声の区別はすぐについたのに、今はRADWIMPSとBUMP OF CHICKENの区別がつかなくなってしまった。あれだぜ、大学生のときにバンプのCDを普通に買ってるぐらいだったのにだ。人間、流されて生きていくのは楽かもしれないが、そんなに放棄することもないだろう。そんなことしているとラッドとバンプの区別もつかなくなってしまうぞ。たまには立ち止まって考え、情報収集し、また考え、戦略を練るのも悪くない。学生のみんなも冬休みに入るが、ゆっくりするとともに数年後に何をしていたいか、どうしたいかをたまには考えるのも悪くないんじゃないか。あの時、もっと考えていればよかったという後悔は陳腐なんだ。いつかL⇔Rへのインタビューをしようと思っていた私が言うのだから間違いない。

BGM:L⇔R「HELLO, IT’S ME」

著作権講義を行いました

去る11月17日に、弁護士の吉澤尚先生を特別講師にお招きして、著作権に関しての講義を実施しました。

1年次向けの「編集概論」の授業の一環です。

なんとなくわかったような気になっている「著作権」ですが、いざ「これはどうなんだろう?」というグレーゾーンに直面すると、簡単にはOKとNGの判断が下せません。

「軽い気持ちで」使ってしまった他人の著作物が、あとあと損害賠償などの大きなトラブルに発展することもないとは言えません。そうならないような注意点をきちんと教えていただきました。

また、大学生は在学中に論文やレポート、創作小説などをたくさん書きますが、そこで他人の文章を「引用」するにはどうすればいいかについても、きちんと教えていただきました。

 

講義ではそうした「NG」に関することだけでなく、吉澤先生から、いまITなどの現場でどのように著作権がビジネスに活かされているか、著作権をどのように使うと新しいビジネスにつながるかといった、明るい話もたくさんありました。

小説を書く、本や雑誌をつくるといった活動において、著作権は切っても切れない必須の知識です。1年生の皆さんは授業内容をよく復習して、今後につなげてください。

 

ところで、実は吉澤先生は野上の中学・高校の同窓生です。

久しぶりに会えて、ヤキトリ四丁目で旧交を温めることができたのも非常に良かったです。

それから弁護士である吉澤先生と会った山川先生、石川先生が、揃って「もし何かあった時にはよろしくお願いします」と同じ挨拶をされていらっしゃったことをここにご報告しておきます。

何か身に覚えがあるのでしょうかね???

 

「頼みもしないのに朝はやって来る」

 先日、大学の図書館より「教員それぞれが感銘を受けた作品の紹介文をつけて展示する」ので、何か書くようにという連絡がきた。実は私は誰かに作品を薦めることや紹介することが苦手である。その理由として感銘を受けることや心に残るということを精緻に考えれば考えるほど、有機的につながっているものであって一つの作品のみで切り取ることなど無理なのではないだろうかという疑問がぬぐい取れないからである。小学生のときに何度も読んだ北杜夫の自伝的小説『楡家の人びと』や友野詳のライトノベル作品『コクーン・ワールド』というように、ただ読んだだけなら硬軟関係なくいくらでも紹介することはできる。しかし、それが果たして私の人間形成にどこまで影響を与えたのかというのは非常に難しい問題である。もしかしたら『夜と霧の隅で』の脳みその描写かもしれないし、『怪盗ジバコ』シリーズの喜劇風味に影響を受けたのかもしれない。『ロードス島戦記』シリーズも何度も読んだし、あのとき買っていた『ゴクドーくん漫遊記』の印税は作者に豪遊費として使われていたことを後年知ったときは何とも言えない気分になったものである。小学生が買った本の印税である。

 諸々逡巡してしまうもう一つの理由は誰かに紹介されることなく、自分で探して読んだ方が面白いという経験からくる疑問である。大学生のときなど暇すぎて年間数百冊の本を読んでいたが、それでも足りなかったと思っている。速読を身につけて、年間数千冊を読むべきであった。とはいえ大学院生ぐらいになったときは、複数の読書手法を同時並行で行えるようになったので、比較的多くのものを読めるようになってはいた。それはさておき、図書館にある本を右から左に読んでいけばいい。『スレイヤーズ』で獣神官ゼロスが指一本を右から左に振るだけで数百もいるドラゴンを倒していたように、とりあえず手に取ったものを読んでいくと楽しいのではないだろうか。

 そして紹介文を書くテンションが一気に下がってしまった最大の理由は、漫画はNGという点である。もちろん図書館として漫画は置かないというのは仕方のないことであろう。とはいえ、個人的には小説より漫画を読んできた量が多いので、影響の割合的には漫画のほうが大きい。しかも、この10月からは漫画ゼミをスタートしたので、すでに大学内で学生たちと漫画を読んでいるのだ。通常のゼミが終わったあとに希望者と一緒に毎回ゼミ活動を行っている。やっていることは漫画制作を希望している学生はネーム指導・講評をし、それ以外は漫画作品を講読している。本当は月に一回ぐらい、ゆるゆるでやっていくつもりだったが、なぜか毎週やっている。毎週、漫画について喋ってしまっていて時間が足りない。漫画は物語やら世界観やらという中身の問題だけではなく、カメラワークやコマ割りという描き方の問題も含めて複合的に考えていく必要のある媒体である。喋ることは非常に多い(という理由もあるが、実は単に漫画について喋っているのが楽しい)。これまで読んだのは冨樫義博の『幽遊白書』、『HUNTER×HUNTER』、米代恭の『あげくの果てのカノン』になる。ゼミでは何だかいろいろと喋ったが、ここに書くのは面倒なので、そのうち直接聞いて欲しい。前回は漫画家の芳村梨絵さんと編集者の東原寛明さんをお招きして特別講演および公開講評をしていただいた。次回は九井諒子の『ダンジョン飯』を講読する予定なので各自読んでくるように。

 ちなみに紹介文はどうしようかと考えているうちに締切が過ぎてしまったことをここに付記しておく。

BGM:keno「おはよう」

漫画ゼミ開講 

みなさまこんにちは。

 

先日、漫画家の芳村梨絵さん、そして編集者の東原寛明さんをお招きして、ストーリーの作り方や漫画家と編集者のあり方などを講義していただきました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
芳村梨絵さんと東原寛明さん

文芸学科には漫画家志望の学生も多く、教授陣らはプロットや物語構造などの指導もしております。漫画ゼミでは実際に活躍している漫画家さんをお呼びして、プロとしてのあり方や、技術面といったことを学びます。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
生原稿を持ってきていただきました!

授業では、過去作品のプロットを元に、漫画のストーリーを編集者とどのように作り上げていくのかを実演してくださいました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
実際に書かれたプロット

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

また授業後に、学生が持ってきたプロットの講評もしていただきました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
学生のプロット

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
指導を受ける様子

彼の講評は授業内で終わらず、その後も研究室で長時間にわたり指導をしてくださいました。

懇切丁寧な指導ありがとうございます。

 

漫画ゼミまた開講します!次回!

 

野上ゼミ 公開プレゼン

みなさまこんにちは。

寒い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか? 風邪をひきやすい時期でもありますので、どうかご自愛ください。

 

さて、文芸学科では3年生から各教員のゼミで、編集・創作と、それぞれの専門分野を学んでいきます。

この度、編集コースの野上ゼミでは、企画構想学科の夏目先生のゼミと共同で、山形県警察さんの採用パンフレットを製作することとなり、本日公開プレゼンを行いました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
たくさんの取材陣が….
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
県警の過去の採用パンフレット

公開プレゼンの様子

県警の方に、各ゼミそれぞれプレゼンを行いました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
どういった紙面作りをしていくのかを提案しています
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
採用パンフレットのキャッチコピーの提案
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
表紙のイメージの提案

プレゼン終了後、警察の方を交えたディスカッションを行いました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
ディスカッションの様子
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
プレゼンでの意見を出し合いました

今回話し合ったことを元に、今後ゼミ内で採用パンフレットの構成をしていきます。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
取材を受ける佐久間くん(3年生)

公開プレゼンの様子は、本日の夕方山形の放送局で放送されるそうです。

みなさま採用パンフレットの続報をお楽しみに〜

 

副手

文芸ラジオイベント(9月30日)を終えて

 入学前スクーリングを終えた。私が大学生であったころ(大学院生であったころを含めてもいいが)と比較してもAO入試が活発になっている。AO入試は大学により実施時期が違うであろうが、うちの大学では秋に行われている。すると合格者は入学するまで半年もの時間を持て余すことになってしまう。別に持て余すこともなく目標に向かって日々を淡々と過ごしていく人はいいが、多くはそうではない。のかもしれない。したがってスクーリングというイベントが行われ、合格者が集められて、心構えだけではなく課題が出されることになる。このAO入試からスクーリングまでは1か月ほどしかない。合間に後期の授業がはじまり、忙しい日々にあっという間に飲み込まれて、気付いたら10月半ばになっているのだ。何を言いたいのかというとブログを放置していたということを述べているのである。

 9月30日に文芸ラジオ2号発売記念イベントが開催された。金曜日とはいえ平日夜にも関わらず多くの人に来ていただき、まことにありがたい。何がありがたいかというとうちの大学の公式twitterアカウントは全く告知に協力してくれなかったというのにサンライズの公式twitterアカウントは何度もつぶやいてくれたのは非常にありがたかった。鉄血のオルフェンズは毎週見ている。クラシカロイドは毎週見るべきかどうか悩んでいるが、ゼーガペインADPは見たい。サンライズ万歳。イベント自体は非常に興味深く、高島雄哉さんが創作に取り掛かる際、テーマを「問い」にするというのは面白い観点であった。自分自身も論文を書くとき、「テーマはとにかくシンプルに」を言い聞かせているし、学生にもそう言っている。しかし学生から「テーマと言われてもなあ」というリアクションをされることがないわけではないし、自分も若いころからきっちりとした輪郭を持っていたわけでもない。「問い」への変換はなかなか秀逸な考えかもしれない。

 三宅陽一郎さんによるAIと物語の関係に関する話も面白く拝聴した。フロアからの質問もあったが、「AIが物語をすべて生み出していく時代が来るのではないか」という疑念を抱く人は多いような気がする。しかし、結局のところツールでしかないので、いかに活用していくのかの問題だと個人的には考えている。変化に対応できる柔軟性に依拠しているだけではないだろうか。さておき終了後の会食のほうが盛り上がって、久しぶりに『かしまし~ガール・ミーツ・ガール~』の話をしてしまった。さあ、そろそろ気付いたであろう。『かしまし』といえば、「あのね」である。イベントの内容は『文芸ラジオ』3号に収録される予定である。あのね、

文芸ラジオイベント(9月30日)に向けて その3

 大学はついに後期授業が開始となった。大学により開始時期は違うので一概には言えないが、大体のところはもう始まっていると思う。夏休み中は大きくは動いていなかった文芸ラジオ編集会議も3号に向けて再スタートすることになる。夏休み明けというのは学生も教員もお互いまだ本調子ではない雰囲気が漂っており、おそるおそる歩み寄っている気がする。気がするだけかもしれない。気がするだけだろう。私の疲労はどうでもいい。日付がかわってイベントが明日に近づいてきた。恐らく私は上京する新幹線の中で泣きながらパワポデータを作っているか、アニメを見ているかになるであろう。基本的に山形新幹線内では唯一、アニメを見ているときだけが酔わないのである。読書も執筆も何もかも車酔いを招いてきたのだが、アニメだけは酔わないのだ。アニメは素晴らしい。データ作りは酔うにきまっている。

 文芸ラジオのイベントは、『文芸ラジオ』2号を読んでいる必要はないものにしようと考えている。企画意図を一つずつ説明していくと、まず玉井が文芸ラジオの状況とほとんどがアマチュアの書き手である学生たちの現状から創作や創作を考える上での悩みを共有し、会場の皆さんと一緒に考えようという内容である(これから作るけど)。そして高島雄哉さんをお招きしたが、小説家として実際に制作に携わっている立場からの経験値を出してほしいという、冷静に考えると手の内を明かすことになるので非常に厳しい無茶ぶりをお願いしてしまった。また私個人の観点として、これまで論文を書くときには受け手の視点を重視してきたのだが、文芸学科に赴任して一番変化したのは作品を読むと「ここはこういう意図があって、こういう効果を目指して」と創作理論から読むようになったことである。その点において高島さんのお話は本当に興味深いものになるに違いない。評論や批評、研究を志す人もぜひ耳を傾けてほしい。そしてなんと「当日公開開始の連載小説『エンタングル:ガール 舞浜南高校映画研究部』の企画から初稿までを解説」だそうでゼーガペインファンにはたまらない内容となりそう。

 トリは三宅陽一郎さんである。『文芸ラジオ』2号に評論を執筆していただいたので読まれた方もいるであろう。三宅さんには創作の周辺の動向というか、創作をめぐる新しい展開に関して話をして欲しいと考えてお願いをした。最近気になっているのはプロットを人工知能が作り、小説を中村航さん、中田永一さんが書かれた事例(『僕は小説が書けない』)のように、人工知能との付き合い方を考える時代は近づいてきているのではないかということである。

 以上は私がつらつらと考えているだけである。各発表者はそれぞれ思うところがあって話をするので、違っていても気にしないでいただきたい。要は創作に関して皆で考えようという会である。創作を志す人も創作を考える人も創作を眺める人も皆、気軽に参加して欲しい。9月30日(金)18時半からJR信濃町駅近くの芸術学舎204教室で待っております。イベント情報の詳細はこちらをご覧ください。なお当日になったら登録などすることなく、いきなり会場に来ていただいても構いません。よろしくお願いします。

文芸ラジオイベント(9月30日)に向けて その2

(以下は過重労働により互いを美少女に思い込んでしまうというNEW GAME!的世界の同位相にいる感じでお願いします)

 昨今、様々な媒体から「大学生のレポートでコピペが散見される」という話を目にする機会が増えたと思う。実際にニュースになったものからSNSで教員が愚痴を書いているものまで様々な位相で存在するから、なかなか根深い問題かもしれない。しかし個人的に、一段階さらに面倒だと思っているのは、「文芸学科に来る学生さんなら、コピペなんかしないでしょう?」と言われることが非常に多いという点である。特に同じ大学教員からそう聞かれることが非常に多い。場合によっては笑ってごまかすこともあるが、現実は皮肉である。文芸学科で文章に携わることを志している学生だからといって人間である。すべての人間に性善説は通用しない。

 『文芸ラジオ』2号は今年5月に発売となったが、複数の新聞や雑誌から取材を受けるなどおかげさまで好評であるといえよう。ただし直接、私に伝える言葉でマイナスな側面をてんこ盛りにしてくる人はなかなかいないので、結果として「いやーいいですねー。大変ですねー」ぐらいの言葉になっている。もちろん「大変ですねー」の部分はカットして、「いいですねー」を脳内に保存している。極めて恣意的なカットアンドペーストである。私も気持ちよく、他人の言葉をペーストしているのである。しかもコピーはしていない。コピーはそのままではないか。ちなみにこれはコピペを肯定しているわけではないのであしからず。皮肉にもなっていない皮肉というやつである。さあ、みんなで反省だ。

 いろいろなリアクションをもらうなかで、2号に「人工知能が拓く物語の可能性」を執筆していただいた三宅陽一郎さんから「何かイベントをやらないのですか?」という質問をもらった。これはもう即答で「一緒にやりましょう」である。すみません。即答ではなく、編集会議にかけて、やっていいですか? いいですよ。というやり取りを経た上でゴーサインである。ただ私と三宅さんが話をしても、それは2号に掲載された論考の延長線上になり広がりが感じられないので、どなたか紹介していただけますか? と無茶ぶりを重ねてしまった。そして紹介されたのがSF作家の高島雄哉さんである。

 高島さんは『ゼーガペインADP』のSF考証を担当されているだけでなく、今度から矢立文庫ではじまる『ゼーガペイン』の小説版も担当されるという。すでにwebでいくつか連載を目にすることができるので、ぜひイベントに参加される人は読んでほしい。

世界を設定する SFアニメ現場レポート

想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして

 もちろん心を舞浜サーバに置いてきた人も参加して欲しい。エンタングルだ。正直、『文芸ラジオ』2号は読んでなくてもいいが、『ゼーガペイン』は見よう。絶対見よう。そんなイベント情報はこちら。東京の信濃町駅から徒歩10分弱ぐらいのところにある芸術学舎で待ってます。

(その3に続く予定。NEW GAME!的世界観は本文と関係ないので保持しません)

文芸ラジオイベント(9月30日)に向けて その1

 諸君、私はラジオが好きだ。諸君、私はラジオが好きだ。諸君、私はラジオが大好きだ。朝のラジオが好きだ。昼のラジオが好きだ。夜のラジオが好きだ。ロックで、ポップスで、お笑いで、トークで、情報番組で。この地上で放送されているラジオ番組はだいたい好きだ。この四月から伊集院光が始めた朝の番組を、全く活性化していない脳みそで聞くのが好きだ。授業のない曜日にたまむすびを、研究室でコーヒーを飲みながら聞いているのが好きだ。原稿を書きながら深夜番組を聞いたり、道を歩きながら録音したラジオ番組を聞いたりするのが好きだ。もちろん文芸ラジオが一番好きだ。

 文芸ラジオというタイトルをつけたように、雑多な情報がページをめくるたびに目に飛び込んでくるようにしたいという意識はある。それでも手掛けている人間がいる以上はある程度の偏りは仕方ないとは思っている。フラットでありながら尖がっていることはできないのだろうか。難しい。ハード。これは日常的に行っている会議では発言しないが、背景に押しやっている悩みの一つではある。情報が飛び込んでくることと、そこから読み進めていくだけの内容があることを同時に行っていくことは難しい。自分が雑誌を買う際には、たった一つの評論や論文が入っているだけで、たった一つの短編小説があるだけで満足できてしまう。やはり難しい。

 夏季休暇は原稿書きを主に行い、あとは仕事と積読の処理に明け暮れている。そして沙村広明の『波よ聞いてくれ』をようやく手に取った。Kindleだから物理的に手に取ったのではなくダウンロードして読んだというのが正解ではある。何でもいいのだが読むのに1年間かかったのだ。そしていつものことであるが、もっと早く読んでいればと後悔するのである。作品はラジオを主題にした物語だが、もはやカレー屋の話のほうが多い。いや、カレー屋というより主人公の姐ちゃんの話というべきか。キャラクターで物語を作り、引っ張っていくということを、テンポよくやっている。この会話だけで生み出すテンポの良さは見事すぎて感嘆しかない。そしてテンポの良さで見えにくくなりがちではあるが、話がどれだけ脱線しようとも主人公のキャラクターがぶれることはない。

 この主人公のように噛まないで喋るということは、かなり難しいのだが、それでも日ごろは教壇に立って話をする立場なので比較的訓練はされているかもしれない。と思ったあなた残念でーしーた。夏季休暇明けの教員は引きこもりからの脱却中で、それほどスムーズには話はできない。9月30日(金)に東京の信濃町にある芸術学舎にて開催される文芸ラジオ2号発売記念イベントで、ぜひその雄姿を見ていただきたい。入場無料である。そして中身の話までいかなかったので、続きは後日更新する予定である。

「けだるい空は飛んでゆけるんだ」

 対象との距離感は当然ながら人によって違ってくるものではある。その違いをどのようにしてクリアにしていくか、もしくはしなくてもよいと考えるのかは大きな問題かもしれない。ということを松井雪子の『ぐうたら山暮らし』(イースト・プレス、2013年)を読みながら思っていた。この後書き部分では、編集から単行本タイトルとして「ぐうたら山暮らし」を提案された作者が「自分では山の厳しい自然とたたかっている」内容と認識していたと述懐している。この差異は非常に面白く、印象に残った。

 作品は作者の体験記で、冬は雪に埋もれる土地で山小屋というかロッヂ(というのか?)で生活をした日々の出来事がつづられている。町内の温泉に毎日のように通い、自家栽培で野菜を作り、薪ストーブ用の燃料を作り、近所との持ちつ持たれつの関係を維持していく。読者である私自身にとっては、描かれるすべての事象が遠い距離感の感じるものとして消化されている。要は経験のない出来事であり、剣と魔法の世界を体験しているのと認識的には大差ない。しかし、最近、山形に来て初めて雪というものを経験してしまったので、その距離感が変化してしまい困惑しているのも、また事実である。

 読者の延長線上には存在している編集側も同様に思ったのであろう。日々の生活や自然環境の厳しさは遠くに追いやられて、その根幹に位置するところを「ぐうたら」という四文字で掬い取ろうとしたのである。ただエッセイ漫画ではあるが、やはりノンフィクション形態ではない以上、フィクションとしての作品構成は行われているであろう。嫌な面や厳しい面は自然環境だけではなく社会環境も含めて多くの点で存在しているはずだ。しかし、そこだけを描くことなく、フィクションとしていかに描いていくのかを考えた際に、ピックアップ(もしくは排除)していった要素や採用した物語の起伏をつき合わせて、できたのが作品である。

 文芸学科は長期休暇にも課題を出している。自分自身が大学生のとき課題は自分自身で見つけて取り組んでいくものだったので、教員から課せられるとなると時代は変化したものだと思う。思うだけで、課題提示をやめるわけではない。そのなかで一年生向けの必修授業で、担当教員それぞれが推薦した新書や一般向け研究書をレビューし、同様に推薦した映画作品をレビューするというものがある。そこで私が今年選んだ映画作品は「その街のこども 劇場版」、「リトル・フォレスト 夏/秋 冬/春」、「転々」である。去年が「幕末太陽傳」、「隠し砦の三悪人」「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」だったので、この変わり様は何だという感じである。

 去年は好きな時代映画(であり諸々のアニメなどのエンタメ作品の元ネタ)という選定基準だったが、今年は物語の抑揚を読み取って欲しいという意図がある。「その街のこども」や「転々」はロードムービー風ではあるが、会話だけで物語を動かしていくことをしている。これは簡単そうに見えて、非常に難しい。別に「けいおん!」や「たまこラブストーリー」でもよかったのだが、それは別の読み取り方をされそうであったので脳内会議の結果、却下した。「リトル・フォレスト」の原作は五十嵐大介の漫画作品になる。何度も読み返しているので五十嵐作品の中で一番好きかもしれない。世界を描くのに遠い別世界を構築する必要はない、ということをシンプルにこの作品は教えてくれるからだ。この『リトル・フォレスト』も私にとっては距離感の大きい世界を描いている。しかし、その距離感を同じように受け取ろうとする必要はない。

 夏季休暇も残り1週間を切っている。まだ課題に手を付けていない学生はただやらされているだけ、という感覚を捨てて、自分自身の活動に活かしていくにはどうしたらよいのかを考えていこう。森羅万象、すべてが血肉になる。

BGM:FLOWER FLOWER「夏」