トークを振り返る「自然と向き合う」

8人によるリレートーク最終回は、環境学者である田口洋美先生(歴史遺産学科教授)と現代美術家の辻けい先生(テキスタイルコース教授)のおふたり。

大勢の方が来てくれました。

2部構成とし、第1部は中止になった展覧会「山、うさぎ」展に関する話。
第2部は「自然と向き合う」というテーマで、について語る会としました。

まずは田口先生から。

田口先生はマタギの研究家として知られています。
「山、うさぎ」の展覧会では、長年の研究の成果として、
マタギの装束や狩猟道具、動物の剥製、集落図面、調査表などを展示する予定でした。

これは今年2月に行われた「うさぎ狩り」の様子です。
かんじきをはいて、雪山を登ります。

これは「うっちょう」と呼ばれる「わな」です。
テンなどの比較的小さな動物に仕掛ける「わな」です。

田口先生は動物を仕掛ける「わな」に関しては、世界一の研究者といってよいでしょう。
日本以外にもロシアなどに類似の「わな」があるそうです。
今回は展覧会のハイライトとして、「わな」の手書き図面と実物を展示する予定でした。
実物の「わな」に関しては、田口先生に制作を依頼していました。

続いてアーティストの辻けい先生。
辻先生は、日本のみならず海外でもご活躍していらっしゃいます。

国内外の川へ染色した赤い糸を流すフィールドワークを続けていらっしゃいますが、今回は月山へ向けて赤い糸を流す準備を進めていました。
しかし震災でその計画は中止となってしまいました。

しかしあるプロジェクトだけは密かに継続していたのです。

それがこの木箱の中に入っています。
トークの前日にあるところから届きました。

さて中身を開けると・・・・

辻けい作の「うさぎ」。

これは辻先生が10年前にアルピニスト野口健さんのために制作したものです。
山中に捨てられるゴミの中で最も多いのが酸素ボンベ。
これを溶かして清掃活動のシンボルとして「うさぎ」を制作しました。
この木箱から出てきた「うさぎ」は実はエベレストのベースキャンプから帰還したばかりなのです。
清掃活動のシンボル兼エベレスト登頂の無事を祈願する守護神として10年ぶりに野口さんに随行していました。

これはその時の写真です。

これは3月下旬に日本を出発する直前の野口さん。

「オスとメス、どちらのうさぎを持っていかれますか?」
と尋ねたたら
「野郎ばかりなので、メスにします!」
とすかさずメスを手にしました。

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第2部はの話。

田口先生は東海村の出身で、震災当日も実家の東海村にいらしたそうです。

田口先生のトークの中で一番印象に残ったのは次の言葉。

「山は半分殺して丁度いい」
これはマタギのセリフ。

人間も欲を半分殺せば、自然界といいバランスが取れるはず。。。。
なのに人間は愚かで、貪欲すぎるのです。

学生からの質問。
「(究極のことを言えば)私はこの世から人間がいなくなれば、すべてが解決するのではないかと思います」

田口「われわれ人間は生き抜くために思考している。
滅びるために考えているわけではない。
<私のいない世界を私が考える>、<人類が絶滅した後の世界を考える>のは意味がないでしょう。」

和田「私たち人間に悪いところがあれば、そこを直そうと前向きに考えなきゃ。
何も考えずに死んでしまえばそれで済む、というのはどうかなぁ・・・・」

田口「もし僕が神様だったら人間を真っ先に殺すかもしれない。もし僕がクマだったら人間はいらないかもしれない。でも僕は人間だから、人間を滅ぼそうなんて思わない。そうでしょ?」

学生からの質問。
「さきほど『山を半分殺して丁度いい』というマタギの言葉がありましたが、人間が山を殺しすぎているから地震などの天災が起こるのではないでしょうか。それが地球からのメッセージだと思うのですが・・」

田口「人間がそのことを自覚していたら、こんなことにはなっていない。『わかっちゃいるけどやめられない』っていうスーダラ節があるけれど、人間はそういう病気にかかっているんです。
僕らができることは、ちょっとでいいから日常を変えること。それがいずれは未来を変えることにつながるんです」

学生からの質問。
「震災後、生きていくことに対する認識が変わりました。
僕より若くて、やりたいことがあって、でもそれを出来ずに亡くなった人がたくさんいます。
でも僕は生きている。
自分がやりたいことをやらないで生きている自分。
自分がやりたくないことを我慢してやっている自分は、どうなのかなと思うようになりました。」

田口「自分の可能性をどう考えるかは自由です。
<あきらめない自由>、<あきらめる自由>とがあって、
なでしこジャパンが優勝したのは、<あきらめない自由>を選択したから。
努力して<自分を変える自由>もある。
どの自由を選択するかも自由です。
自分の生き方を主張するときは、いい子でいられるはずはない。自分も親とさんざんケンカをしました。
最後まであきらめない人は、最終的に周りも認めて、そういう風に周りも動くようになるんです」

辻「若い人は直球でいけばいいんですよ!
あれこれ考えずに、本能でいけばいいんだって! 
考えすぎたり、計算するのはよくないです」

さすが辻先生。
私もそう思います。
おふたりの言葉に深く同意しました。

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今回のトークは議論が白熱し、時間をかなりオーバーしてしまいました。
最終的に2時間超の対談となりました。

「福島原発事故の責任は誰にあるのか」そればかりを追求する日本の報道。
日本には福島以外にも多くの原子力発電所があります。
それらを容認して、今まで日常生活を送ってきたのも事実です。

ここでは詳しく書きませんでしたが、
田口先生のトークは原発の村<東海村>に覚悟を決めて住んでいる者の声でした。
原発とともに生きてきた田口先生らは、<実験世代>と呼ばれているそうです。

トークの全容は後日改めてまとめる予定です。

企画した私自身、について語り合う場を持つのは、時期尚早なのではないかと悩みました。
心に傷を負い、「あの時の苦しみを思いだしたくない」という人もいると思います。
震災で起った出来事を各自が自分の中で消化するには、まだまだ時間がかかることでしょう。

でも参加した学生たちの声を聞く限り、
思いきってこの企画をこの時期にやってよかった、
と今では思っています。

震災後、5カ月が過ぎました。
あの日のことを忘れないためにも、
愚かな人間である私たちは、
これからも語り続け、問い続けなければならないでしょう。

企画・ナビゲーター:和田菜穂子(美術館大学センター准教授)

トークを振り返る「東北の未来を考える」

3回目のトークは三瀬夏之介さん(日本画コース准教授)と馬場正尊さん(建築環境デザイン学科准教授)による対談。

実はこのふたり、お互いに顔は知っていたけれども、きちんと話をするのは初めてだそうです。

まずは三瀬さんから。

地震の前からチュートリアル「東北画は可能か?」のメンバーは、リアスアーク美術館で行う展示のため、大きな方舟を描いた絵の共同制作を行っていました。

ところが震災が起こり、まさに東北の地は旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」状態となったのです。

展覧会が行われるはずだった気仙沼にあるリアスアーク美術館は、震災の被害を受け、再開の目処はまだ立っていません。

こちらがその「方舟計画」。

リアスアークでの展示は中止になりましたが、その代り仙台にあるenomaで展覧会が行われました。

展覧会会期:2011.7.19-7.31

馬場さんはまず建築家としてのお仕事、R不動産について説明してくださいました。

東京R不動産
http://www.realtokyoestate.co.jp/

山形R不動産
http://www.realyamagataestate.jp/

一方、建築環境デザインの学生たちも、<理想の東北>についてアイディアを出し合い、ひとつの絵をまとめたそうです。

それは「まんが日本昔ばなし」に出てくるような、昔ながらの田園風景が広がる絵でした。
建築の学生が考える<未来の東北像>というと、
高層ビルが立ち並ぶ近未来的な都市が出てくるんじゃないかとイメージしていましたが、そうではなかったんです。

みんなの求めている風景は、結局のところ緑豊かで素朴な田舎の風景なんだな、と改めて思いました。

三瀬さん
「アーティストにとってのリアリティがこんなにきついものとは・・・」

<リアリティ>について語るふたり。

おふたりから会場へ質問。
「この中で、芸術学部とデザイン工学部の比率ってどれくらいなんだろう?」

なんと8割が芸術学部生でした。

会場からの質問。
「私は正直、テレビで被災の映像を見ても冷静というか、心を動かされることはなくて、『なるようになるんだから』って思ってしまいます。先生方が<リアリティ>について話されているのを聞いて、自分にとっての<リアリティ>が何なのかよくわからなくなりました」

馬場「僕も君の言ってることがわかるよ。僕も地震のとき日本に居なかったから、喪失感みたいなものがあって。。たとえば普段でもみんなが盛り上がっているときに冷静なもう一人の自分がいて、不感症なんじゃないかなって思うことがある。だからそういうスタンスがあっても間違ってないと思うよ」

「アート系の学生はスパッとくる質問が多いね。デザイン系にはあまりないから、とても新鮮」と馬場さん。

会場からの質問。
「私は関東の出身ですが、先生方も山形(東北)の出身じゃないので、東京など他の地域との温度差を感じましたか?」

馬場「物理的な距離感を感じたのは、やはり僕はその時海外にいたし、東京とも実際に距離がある。
でも距離感があるのはしょうがないことだし、僕らはその距離感で感じることを大切にしたい」

三瀬「僕は阪神淡路大震災を経験しているので、そのときにも温度差を感じました。同じ被災地でも全然違っていて、個人個人でも違うし、やはりケースバイケースじゃないのかな」

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「東北の未来を考える」には、みんなの前向きな気持ちが必要です。

東北の未来をしょって立つ若者たちよ!
自分たちの将来だけでなく、さらに次の世代へ向けたよりよい環境づくりを、一緒に考えていきましょう。

「東北って素敵なところだよね」と、みんなが憧れる理想郷になりますように・・・

トークを終えてそんなことを考えました。

企画・ナビゲーター:和田菜穂子(美術館大学センター准教授)

トークを振り返る「ヒトとモノの記憶」

第2回のゲストは、藤原徹さん(修復家)と原高史さん(現代美術家)のおふたりでした。

学科が違うと、先生方のお仕事を知らない学生もたくさんいます。
まずはプロフィール紹介から。
スライド写真を交えながら、先生方のお仕事を紹介していきました。

最初は藤原先生。
個人で制作したもの、そして修復家としての活動を紹介してくださいました。

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会場を見渡すと、立ち見になるほど、たくさんの方が聞きに来てくれました。
なんと藤原ファンは30分前から最前列の場所取りをするほど。

トークが始まると、会場のみんなは真剣におふたりのトークに耳を傾けています。

画像(625x414)・拡大画像(800x531)

原さんはグラフィクデザイン学科の先生ですが、油絵科の出身です。
震災後、メンタル的に参ってしまい、制作が困難になってしまったそうです。
でも海外への出品が迫っていたため、一生懸命向き合い、努力したそうです。
「ドラゴンボールでも、つらいときは《元気玉》取り出してがんばるでしょ?僕もそんな状況で《元気玉》かき集めました!」

シリアスな話なのに、笑いを交えながらつらかった心境を語ってくれた原さん。

先生だって普通の人間なんです。つらいときだってあります。

いつもは元気いっぱいで、学生の前では決してつらいそぶりは見せないけれど、本当はかなり参っていたようでした。

あとから提出してもらった感想レポートを読むと、正直に人間らしさを見せてくれた原さんに共感した芸術系の学生が多かったです。

 

藤原先生は独自の《美学》を語ってくださいました。

「渋谷のスクランブル交差点では、最初の一歩は少し混乱します。でも自然に流れが出来てくるものです。みんな自分でちゃんと流れを見つけて、その流れに従うでしょう。震災後の今は、そういう状況なんじゃないんですか?」。

「ヒトは嘘をつくけれど、モノは基本的には嘘はつかないんです」。

たしかにおっしゃる通りです。
ヒトの語る言葉に耳を傾けてプロジェクトに取り組む原さんに対して、
モノが語る何かを掬い上げるのが修復家としての藤原さんのお仕事です。

それが身体に染み渡っているからこその発言。
重みがあります。

トークイベントも終盤に差し掛かり、
いい感じで日が暮れてきました。

会場からのコメントです。

「わたしも先生方の話を聞きながら、自分はその時どうしていたか考えていました。」

「私は塩釜市の出身で、一日一日を精いっぱい生きてきました。被災したおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしながら、自分と家族のために何ができるかを考えていました」

と涙ながらに心境を語ってくれた学生。

トーク後、
「話すことで気持ちに整理ができたし、少しだけすっきりしました」と言ってくれて、私もほっとしました。

トークイベントが終わり、ブラインドを開けると、パープル色の夕焼けが・・・・

池の水面に反映した幻想的な世界が広がっていました。

まるで被災者の鎮魂を祈るかのような夕焼け。
一生忘れない景色です。

企画・ナビゲーター:和田菜穂子(美術館大学センター)

*トークの全記録は、後程UPします!

トークを振り返る「自分たちができることって?」

第1回のトークを振り返ってみました。

「自分たちができることって?」をテーマに
青山ひろゆきさん(画家)と前田哲さん(映画監督)をお迎えし、
その時、その後、体験した、もしくは考えた、率直なお話をお伺いしました。

青山先生は地震の瞬間、東京外苑前で卒展の搬出作業中でした。その数日後、電車とレンタカーを乗り継ぎ、学生と山形まで戻ったそうです。

前田先生はその時、映画館にいましたが、居残って最後まで観たそうです。しかしその後、学生の安否確認に必死でした。山形と距離がある分、余計に不安な気持ちが募ったそうです。

前田先生はその後しばらくしてから、学生と被災地へ行き、現場を記録撮影しました。本当は子供たちに話を聞きたかったけれども、学生から「それは無理です」とたしなまれ、あきらめたそうです。

青山先生はしばらくしてから山形総合スポーツセンターで造形のワークショップを行いました。福島からの被災者だけでなく、山形市民も参加するものでしたが、それぞれが想いを託し、こいのぼりのうろこを制作しました。

「鯉」という字は「里」に「魚」。故郷福島への想いが込められています。

実は青山先生、最初はワークショップに躊躇したそうです。しかし「今、自分ができること」を考え、被災地に行かなくても「これならできるかも?」と思い直し、このワークショップの依頼を引き受けました。

洋画コースの鈴木くんは青山先生と一緒に「こいのぼりワークショップ」に参加したひとりです。
美大に入って「美術で何かできないか」をずっと考え続けています。

実は鈴木くん、1年生のときは前田先生の教養ゼミ生でした。今回前田先生から被災地での「似顔絵ワークショップ」を提案され、「先生、今はまだ子供へカメラを向ける時期ではありません」と進言した張本人です。

前田先生は「エンターテイメント」としての映画を撮るのがお仕事です。「今、自分ができること」は他にあるし、時期ではないと思い直し、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」へ向けて学生と一緒に取り組んでいます。

学生からの質問。「地震が起こって、自分にも何かできると思ったのでしょうか?それとも自分は無力だと思ったのでしょうか?」

青山「最初は何をやっていいのかわからなかったし、ワークショップをやるにも手さぐり状態で、不安な気持ちを抱えたままでした。でも結果として、やってよかったと思います」

前田「まず最初に自分がやったことは、映像学科の1年生、2年生の安否確認でした。3,4年生は他の先生に任せました。それから、精神的なケアも自分ができる範囲で引き受けようと思いました」

学生からの質問。「再確認したことは何ですか?僕は津波の恐ろしさや、電気のない暮らしの中で星がきれいなことを再確認しました」

青山「福島の写真家から送られてきた写真をみて、自然の美しさと自然の再生力に感動しました」

前田「僕はひとり暮らしなので、家族など守るものがない人は弱いな、と痛感しました。
それから、小さな光は明るいと見えないんです。普段見えないものが今は見えるかもしれない。そう思って目を凝らしてほしいし、芸術で勇気を与えてもらいたいと思いました」

学生からの質問。
「TUAD mixing!でトークイベントを企画した和田先生は、なぜ3.11をテーマに選んだのですか?おふたりは対談をもちかけられたときに、このテーマについてどう思いましたか?」

和田「異なる分野の先生の仕事を紹介する展覧会を続けてきました。本当は第4回のトークで対談する田口先生と辻先生の展覧会を準備していたんです。でも展覧会予算が削減され、その代りトークイベントに切り替えました。
3.11をテーマにしたのは、私自身の中でそれが大きな意味を持つものとなったからです。いろんな先生とこの話をする中で、それぞれが胸中に抱えている3.11を自由に語り合う場を作りたいと考え、企画しました。
今回のテーマは『自分たちができることって?』です。自分ひとりではできないけれど、志を共にする人が集まれば、何かできるかもしれない。?(クエスチョン)にしたのは、それをみんなで一緒に考えたいと思ったからです。」

前田「対談の話があったとき、自分は具体的なことは何もしていないので、話す資格があるのかなと心配になりました。でもありのままを話せばいいと言われ、自分がやろうと思ってできなかったことも含めて率直に話そうと思ったんです」

青山「悶々としている人も多いだろうし、自分もそうだったので話そうと思いました。今やらなくても時期というものがあります。いつか次につながるので、今無理にボランティアに参加しなくてもいいと思いますよ」

学生からの質問。「極限状態になると人間はどうなりますか?」

前田「まず一番大切な人に一番最初に連絡するでしょう。人間の本性はそういうときにわかります。自分はこれから毎日を丁寧に生きようと思いました。それから人を本気で好きになろうと思いました。みんな、恋してますか?若いんだから、いっぱい人を好きになったほうがいいですよ」

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最後に。

見た目も職業も違うお二人ですが、私なりにふたりの共通点を発見しました。
それは「人を幸せにすることを仕事にしていること」です。

エンジェルを描く青山先生と、映画で人を笑わせたり、楽しませる前田先生。

これからも頑張って「人を幸せにする仕事」を続けてください。

本日はどうもありがとうございました。

企画・ナビゲーター:和田菜穂子(美術館大学センター 准教授)

**トークの全記録はきちんと文章化する予定です!しばらくお待ちください。

第4回:「自然と向き合う」

第4回:「自然と向き合う」
7月20日(水)17:30−19:00
東北芸術工科大学 本館1階ラウンジにて
田口洋美(環境学者/歴史遺産学科教授)×辻けい(アーティスト/美術科テキスタイルコース教授)

第4回目となる最終回では、田口洋美歴史遺産学科教授(環境学者)と辻けい美術科的スタールコース教授(アーティスト)が対談を行います。山形県小国町に現存するマタギ文化から現代社会の山と里の暮らしとそのあり方を研究し、学生とともにフィールドワークを続けている田口教授と、大自然をフィールドとしてテキスタイルを手法とした現代美術作品発表を続ける辻教授。本来ならば今年のTUADmixing!2011は、この2人の展覧会「山、うさぎ」を予定していました。立場は全く異なりますが、偉大なる大自然と向き合う仕事をしているという共通点があります。環境問題など様々な切り口で《3.11》以前と以降について語っていただきます。

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■田口洋美の3.11

その時、僕は茨城県東海村にいた。そこは故郷である。おやじもおふくろもその村で生き、その村で死んでいった。じいちゃんは東京の神楽坂で芸者をあげてやんちゃをした挙げ句、旧家であった故郷の家を没落させた。そのやんちゃなじいちゃんの父親も浅草で芸者をあげて馬鹿をやり、要は二代続けての放蕩が祟って、家業は廃業となった。自宅の土地は放蕩の末の借金のかたに削りに削られ、わずかとなったが、それでも何とか建っている。じいちゃん、曾孫じいちゃん、そのさらに先々代も故郷の村で生まれ、死んでいった。
人生、いろいろだけれども、生まれてきて、やりたいことをやってみて、そして死にたいところで死ねればいい。ヒトを欺してベンツに乗るよりも、ヒトを信じて愛せる仲間の中で慎ましやかに幸福を感じていたほうがいい。そのなかでやりたいことをやってみるのもいい。さもしい心を引きづりながら、ヒトを信じられずに生きるより、ずっと素敵だ。小綺麗に着飾った、小汚い奴らにはなりたくはない。

授業で学生諸君にも話したが、自分も近いうちに故郷に帰り、そこで死ねたら本望だと心底思っている。父が去り、母が去った時、故郷を受け継いだ。両親のいない故郷の家は寂しいが、そこに在れればいい、と思う。
東京には30年以上住んでいたけれど、時が経つにつれ情がなくなってきている。「モノを知る野心=知の営み」が「ヒトを馬鹿にする野心=無知のいいわけ」にすり変わり、知っていることをひけらかすばかりだし、あまり魅力を感じない。都市にとってヒトは消耗品である。都市は個人を記憶しない。その点、田舎はそのヒトを記憶する。お節介と言うぐらいに憶えている。例えば近隣のヒトたちは生まれたころからの自分を知っている。忘れて欲しいが、忘れられたくはない。実に身勝手、我が儘である。だから僕は田舎に帰る。地震で壊れた家を直さなければいけないし、集落の草刈りもしなければいけない。「東海村は自分の村だ」とこれからも胸をはって堂々と生きていく。

日本初の原発の村。東海原子力発電所第2発電所の炉心まで2.5キロ。えらい近所。僕の故郷にも津波が来て、親戚の家は半壊した。テレビにも新聞記事にも扱われなかったけれど、茨城県もけっこう痛めつけられた。原発も非常用のディーゼル発電機3機の内、1機が津波で破壊され、危機一髪で事故から逃れ、何とか冷温停止状態に漕ぎ着けて無事だった。原発や原子力研究所に何人も同級生が勤めている。彼らは不眠不休で仕事をしていた。でも、次に大きな余震がくれば分からない。

山が好き!マタギも狩猟採集民も好き!クマやサルも好き!
だけども、長い長い旅路の果てにたどり着きたいのは、やはり故郷の村。そう思う。

■辻けいの3.11
ガラス越しに、海をずっと眺めていた。波の様子を眺めていた。
身体だけは咄嗟に反応して、作業机の下にもぐった。
津波は来るのだろうか?
来るものなら、その瞬間をしっかり目に焼き付けておこう。
ものすごい津波がやってきて、それに飲み込まれるのなら、それは本望だ。
全く心は動揺しなかった。
森で熊と出会い、大きな口を開けて迫ってくることを想像する。
私はこの身を海に捧げようと覚悟を決めたのだった。
その時が来ることを想定した。
しばらくの間、鎌倉稲村ヶ崎の波を、静かな心で見続けていた。
しかし、そうは言っても、数日の余震では身体も心も微妙に震えていた。
東京芸術学舎での卒展の搬出は、どうなっただろうか。《3.11》当日の学生達とのメールでのやり取りは、暗号のようであった。

しばらくして揺れが収まり、外に出た。階下の剣道場の師範や近所のお年寄りがヘルメットを被り、集まっていた。「ここには津波は来ないよ」と口ぐちに言っていた。
その晩、停電の中ご飯を食べ、約束していた知人の家へ車で出かけた。海岸線の道路は沈黙していた。鎌倉は真っ暗なのに、隣の藤沢は電気がついていて、妙に明るかった。大学で予定していた展覧会『山、うさぎ』の準備のために、ラックカイガラ虫の染料で赤く染めた糸を抱えていった。経糸を揃える道具を借りるためだ。

翌日、関西へ向かった。『三卯祭』に出かけるためだ。これは12年に1度ある卯の年、卯の月、卯の日に行われる行事である。ちょうど2011年3月13日が、その日に当たっていた。『山、うさぎ』展に参加予定だったこともあり、この行事は私にとって重要な意味を持っていたのだ。『三卯祭』の行われる奈良県の三輪山は、山自体がご神体である。私は山に登りながら(お山しながら)、途中途中にある磐座(いわくら)にご祈祷した。
「大地よ、どうか鎮魂してください」と。偶然の重なりに身が震える想いがした。私がここへ来たのは、来るべくして来たのだと。お山に、天地の神に、日本全土に、そして〈世界〉の闇に、見えない恐怖に平穏を祈った。奥津磐座に祝詞を捧げた。人間のつくった 最高傑作が〈神〉だ とすると、こういう 大災害や恐怖に遭遇した時、想像と創造の、そしてまた、鎮魂の装置が、どうしても必要なのかもしれない、そんなことを考えさせられていた。

私がライフワークとして続けている”フィールドワーク”は、「祈りの形に似ている」と言われることがある。自分ではそのような言葉で語ったことはないが、アカい糸をその場処、その場処での捧げ物だと思っている。

三輪山から自宅へ戻ると、その後数日間は家に籠りっぱなしだった。大学の新学期が1か月延びたこともあり、無感情のまま機織りを動かすことはあっても、心は虚脱感のままだった。

4月20日、大学の敷地内にある畑に〈紅花の種〉を蒔いた。心の整理がつかぬまま大学が始まったが、今は日常に忙殺される毎日である。

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プロフィール
■田口洋美
環境学者。茨城県生まれ。東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻社会文化環境コース博士課程。博士(環境学)。民族学(民俗学)・狩猟採集文化の比較研究、環境学・野生動物の保護管理、自然環境と人間社会を包含する歴史的、社会文化的環境の相互関係に関する研究など。主な著書に、「越後三面山人記:マタギの自然観に習う」、「マタギ:森と狩人の記録」、「越後三面山人記:マタギの自然観に習う」など。「ブナ林と狩人の会 : マタギサミット」の主宰・幹事。日本国内及び周辺地域・中部・東北地方の伝統的狩猟者マタギあるいは猟師による広域的交流会議を行う。記念大会等では海外の伝統的狩猟者や先住民族を招聘し国内の狩猟者との交流を行っている。現在、歴史遺産学科教授。

■辻けい
美術家。東京都生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科修了。1980年代後半より網走の流氷原、オーストラリアの砂漠、フランスの湿地帯など、国内外の自然豊かな大地において、サイトスペシフィックなフィールド・ワークを実施。自らが染織した真紅糸を自己に見立て、生態系との関わりを探求している。1993年から手漉き和紙の手法を取り入れた作品を制作。主な個展として、1989年PICA/パース・インスティチュート・オブ・コンテンポラリーアーツ(オーストラリア)、2001年岩手県立美術館・開館記念展「辻けいの仕事」 (盛岡)、2006年国際芸術センター青森(青森)、 2009年カスヤの森現代美術館(神奈川)など。主なグループ展として、1987年「第23回今日の作家展」(横浜市民ギャラリー)、2001年「ヘルシンキ・テーレ湾プロジェクトに参画した8人の作家たち」展(現代彫刻センター/東京)、2006年「空間に生きる-日本のパブリックアート」展(札幌芸術の森美術館・世田谷美術館・金津創作の森美術館)など。現在、美術科テキスタイルコース教授。

企画:和田菜穂子(美術館大学センター准教授)

第3回:「東北の未来を考える」

第3回:「東北の未来を考える」
7月13日(水)17:30−19:00
東北芸術工科大学 本館1階ラウンジにて

三瀬夏之介(画家/日本画コース准教授)×馬場正尊(建築家/建築・環境デザイン学科准教授)

第3回目は「東北の未来を考える」をテーマに、三瀬夏之介と馬場正尊による対談を行います。チュートリアル『東北画は可能か』で、学生とともに〈東北〉を描きながら、その可能性について考え続けてきた三瀬と、山形R不動産で、学生とともに〈山形〉の空き物件をリサーチし、そこに住む人のニーズにこたえていくリノベーションのあり方を追求しつづけている馬場が、それぞれの視点から〈東北〉〈山形〉の未来について会場のみなさんと語り合います。

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■三瀬夏之介の3.11
その時、僕は大阪行きの新幹線の中だった。ゆっさゆっさという横揺れとともに列車はゆっくりと停止した。山形とは連絡がとれなくなり、震源地は東北であるという大雑把な情報しかなかったあの揺れが、世界史にも刻み込まれるような出来事の始まりになるとは夢にも思わなかった。

アーティストにとって大事なことはリアリティーであり、つくるための必然性であるはずだった。そのために歴史を学び、時代を読み、各地を訪れ、様々な人々と交流する。震災以降、日常の中に死がちらつくことによって、自身が生きているということをどこに行かずとも常に実感するようになった。あんなに求めていたはずのリアリティーってやつがこんなにきついものだと思いもしなかった。

これでやっといい絵が描けるようになるんだろうか?
僕はひとまずアーティストっていう鎧を脱ぎ捨てようと思っている。さらにその上で社会的機能をまったく考えない絵が描きたいと思う。それは醜く歪みきった自画像のようなものになるかもしれないし、なんとか自分を奮い立たせるべく夢想した理想郷のような世界かもしれない。

アートでできることであればアートですればいいし、アートでできないことであればひとりの人間としてすればいい。もうどこにも安全な観客席はないし、常に表現すべき理由が突きつけられているということなのだと思う。

■馬場正尊の3.11
「早く逃げろ!」「津波が来るぞ!」
朝、ロンドンのホテルでメールを開けると、一刻を争うような言葉で溢れていた。僕の研究室のMLである。僕はその時、家族旅行でロンドンに来ていた。一体、日本で何が起こっているだ、とにかく普通じゃない、非常事態が起こっている、ということだけがMLを通じて伝わってきた。怖かったは、ある瞬間からぱたっとメッセージが止まってしまったことだ。彼らに電話しても誰ひとり繋がらない。ミサワクラスは大丈夫だろうか。山形のこと、東北のこと、日本のことが心配になった。そのうちCNNなどで映像が流れ始め、ようやく日本での大参事の実態がつかめた。しかし今いるロンドンと日本とでは物理的な距離がある。何もできない喪失感だけが残った。

実感したのは成田空港に着いてから。房総の家は幸いなことに津波被害はなかったけれど、すぐ近くのコンビニは浸水していた。浜松町のマンションは本棚や食器棚がめちゃくちゃだった。さらに仕事や生活を再開しはじめると、じわじわとリアリティを感じることになる。海辺の仕事がキャンセルになり、リノベーション用の建材が入手困難になった。僕の5歳の子供が人気の保育園に入園できたのは、希望者のほとんどが東京を去ってしまったから。このように仕事や生活の端々から、今回のことが現実味をもって感じるようになった。
そのうち不動産業や建築界の仕事仲間から連絡が入り、アーキエイド、ニコニコフレーム、仮住まいの輪など、震災復興に絡んだ複数のプロジェクトが動きはじめる。東北の未来のための僕の仕事は長丁場になりそうだ。

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プロフィール
■三瀬 夏之介
画家。奈良県生まれ。1999年京都市立芸術大学大学院修了。主な個展に、大原美術館ARKO2007(倉敷、2007年)、イムラアートギャラリー(京都、2008年)、佐藤美術館(東京、2009年)など。主なグループ展「トリエンナーレ豊橋 星野真吾賞」(愛知)、「第2回東山魁夷記念日経日本画大賞展」(東京、2004年)、「MOTアニュアル2006 No Border 日本画から日本画へ」(東京、2006年)など。主な受賞として2006年五島記念文化財団美術新人賞、2009年VOCA賞、京都市芸術新人賞。2009年より現職。現在、チュートリアルにて「東北画は可能か?」など、学生とともに東北の地で活動中。

■馬場正尊
建築家。佐賀県生まれ。早稲田大学大学院博士課程建築学専攻単位取得満期退学。博報堂、雑誌「A」編集長を経て、2002年OpenAを設立し、建築設計、都市計画、執筆などを行う。主な作品として、運河沿いの倉庫をオフィスに改造した「勝どきTHE NATURAL SHOE STOREオフィス&ストック」(2007年)、オフィスを集合住宅に改造した「門前仲町のオフィスコンバージョン」(2005年)など。著書に「POST-OFFICE/ワークスペース改造計画」、「東京R不動産」、「新しい郊外の家」など。山形でも地元の不動産会社と運営提携を結び、本格的に山形R不動産を始動している。

企画:和田菜穂子(美術館大学センター准教授) 

第2回:「ヒトとモノの記憶」

第2回:「ヒトとモノの記憶」
7月6日(水)17:30―19:00
東北芸術工科大学 本館1階ラウンジにて

藤原 徹(修復家/美術史・文化財保存修復学科教授)×原 高史(現代美術家/グラフィックデザイン学科准教授)

モノやヒトが語る《記憶》に耳を傾けよう
第2回目は《記憶》をテーマとするそれぞれのお仕事の話をメインに語っていただきます。藤原 徹氏は、モノ自体の声を聞き、モノの《記憶》を復元する立体修復をおこなっています。原 高史氏は、ヒトの話を聞き、ヒトの《記憶》を作品化する『Sings of Memory』というプロジェクトを国内外で続けています。彼らの《3.11》以前と以降についてご自身の経験談をお伺いし、ご来場のみなさんと東北で生きる私たちだから語り合えることを共有できればと考えます。

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■藤原 徹の3.11
宮城県美術館の正面にある野外彫刻ヘンリー・ムーア作『スピンドルピース』の修復作業中に震災が起こった。学生5人と一緒だった。4トン近くもある彫刻だが、思わず揺れと同時に抱きかかえている自分がいた。彫刻とまるでランバダを踊っていたようだ、と後になって苦笑した。揺れが収まり、学生と修復作業を続けた。それほど被害が大きいとは思っていなかったからだ。すると美術館の人がやってきて「早く作業を止めて帰りなさい」と促され、修復作業を中断した。後でせんだいメディアテークの被害の話を聞き、前川國男設計の宮城県美術館は地震に強い建物なんだなと改めて見直した。
美術館を出ると、防空頭巾をかぶった幼稚園児やヘルメットをかぶった人を見かけた。そのときは大袈裟だなと思ったが、車の中で生徒の持っているワンセグのテレビを見て、被害の大きさにみな黙り込んだ。我々は通行止めになっていた高速道路は通れず、真っ暗な山道で山形に戻った。作業途中だったので気になってしょうがなかったが、震災後はガソリン不足のため、山中にある山形の自宅で過ごさざるをえなかった。3日分の食料しかなかったが、1日1食ずつ食べながら、1週間を過ごした。なぜなら下界へ降りて、自分の浅ましい姿を見たくなかったからだ。非常時における人間の心理や集団行動は見るに堪えない。こたつの中で頭だけ出してひたすら<妄想、瞑想、夢想>に耽った。浮かんでくる答えは<無力感、無情感、無念感>だけだった。

■原 高史の3.11
僕は東京のアトリエにいた。電話でプロジェクトについて打ち合わせ中だった。電話口では「危ないですから、外に出ないでください」と言うが、その揺れを体験していないから出てきた言葉であろう。僕のアトリエは大きなキャンバスに囲まれており、それらが倒れてきて本当に大変だったのだ。しばらくして外へ出たら、商店街の人たちが集まっていた。靴の底で感じる地面がヌルっと妙な感覚だったのを覚えている。隣の川をふと覗き込むと、鯉があわてている様子だった。それに対して鳥たちは悠々と空を飛んでいるように見えた。
自宅へ戻ろうと車に乗ったが、甲州街道は大混雑しており、途中であきらめアトリエへ戻った。都内にいる妻には連絡がとれた。海外の友人からどんどんメールが入り、心配して香港へ来るようチケットを手配してくれた友人もいた。しかし妻の体調を考慮し、大阪へ一時的に避難することにした。新幹線から富士山を眺めながら、映画『日本沈没』を思い起こしていた。車内は関西方面へ向かう親子連れで満杯だったが、みな真剣な面持ちで、決して楽しい家族旅行の雰囲気ではなかった。
その後、僕は作品を制作することが困難になってしまった。しかし先日、日本を一旦離れ、海外から冷静に日本の状況を見てみると、気持ちに少しずつ変化が生じてきた。自分ができることは〈アートを通して〉きっと何かあるはずだ。もしかしたらその時期は、すぐそこまで来ているかもしれない。

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プロフィール
■藤原 徹
立体修復家。広島県生まれ。東京造形大学卒業後、彫刻原型製作工房を開設。その後フランスへ渡り、ツール美術学校保存修復科卒業。グルノーブル近代美術館、オルレアン美術館、ルーブル美術館にて研修を受け、1996年フランス文化省立体作品保存修復士認定試験合格。佐藤忠良記念財団原型保存修復員、宮城県美術館、東京国立博物館、国立西洋美術館等の客員研究員を経て、2004年より現職。主な保存修復処置として、イサム・ノグチの石膏原型の洗浄と修復(香川文化会館)、オーギュスト・ロダン作「戯れる子供」「洗礼者ヨハネ」(国立西洋美術館)、サルバドール・ダリ作「象徴的機能を持つシュルレアリズム的オブジェ」(諸橋美術館)、佐藤忠良氏石膏原型約114体 (宮城県美術館)、鶴岡カトリック教会聖母子像(鶴岡市教育委員会)など。災害救助作業として、水害による高知県立美術館の作品救済、東日本震災による石巻文化センター所蔵品の救急処置など。現在、美術史・文化財保存修復学科教授。

■原 高史
現代美術家。東京都生まれ。多摩美術大学絵画科油画専攻大学院修了。1990年代後半よりインスタレーション、プロジェクト、絵画作品をギャラリー、美術館などで発表。2000年から文化庁在外研修およびポーラ美術振興財団在外研修にてドイツ・ベルリンに滞在。 主な活動として、地域の人々とのコミュニケーションを通して得られた<ことば>を絵と共にパネルに描き、歴史的建物や、地域一帯の窓を埋め尽くすプロジェクト『Signs of Memory』を展開。これまでに、シンガポールビエンナーレ(2006年)、ハバナビエンナーレ(2008年)をはじめ、ドイツ、日本、ブラジル、中国、台北、香港など7 カ国20カ所以上で発表。企業や行政、教育機関などとのアートコラボレーション、ワークショップ、サイン計画、デザイン等を行っている。現在、グラフィックデザイン学科准教授。

企画:和田菜穂子(美術館大学センター准教授)

第1回:「自分たちができることって?」

第1回:「自分たちができることって?」
6月28日(火)17:30−19:00

青山ひろゆき(画家/美術科洋画コース講師)× 前田哲(映画監督/映像学科准教授)

■青山ひろゆきの3.11
その日は東京芸術学舎で卒展の搬出作業をしていた。「外へ逃げろ!」と大きな声を出して、学生たちを避難させるのに必死だった。その晩は40名ほどの学生と中村桂子先生と、梱包材のエアキャップを布団がわりに雑魚寝した。翌日は東京のホテルに1泊し、3日目の早朝、宇都宮線と友人の車を使い、なんとか山形へ戻ることができた。
ところでうちの妻は山形市の社会福祉協議会で働いている。震災直後後から2泊3日で福島県相馬市や宮城県などへ保健師として派遣され、忙しそうにしている。うちは子供も小さいので、僕までボランティアに出かけたら家庭が大変になると考え、自分は動かないことに決めていた。大学内で福興会議などが活動しているのを横目に、洋画の学生も「自分たちも何かしたい」と相談にやってきたが、モヤモヤした気持ちのまま、その後の日々をやり過ごしていた。しばらくしてグラフィックの学生がペンキをもらいにやって来た。「先生もワークショップ、やったらいいのに」という一言で、そうかと思った。わざわざ被災地に行かなくても、できることがあるんじゃないか。ちょうどそのタイミングで福島大学の先生から巨大な鯉のぼりの制作を依頼された。僕は山形で避難所になっている総合スポーツセンターを訪ね、そこにいる人たちと鯉のぼりのうろこづくりのワークショップを行うことにした。避難所の被災者だけでなく、ボランティアの人、さらには片桐先生のチュートリアル「だがしや学校」の協力で七日町のほっとなる広場にいる人にも、うろこ作りに参加してもらった。ワークショップを始める前は、避難所にいる人に対して、少しだけ偏見をもっていた。ワークショップをしても悲痛な面持ちで暗いんじゃないか、ちゃんと楽しんでもらえるだろうか、と心配でならなかった。しかし始めてみると、心配は杞憂に過ぎなかった。モノづくりというのは、その時々の記録でもあり、証でもある。僕は今までたくさんのワークショップを行ってきたが、山形の避難所でのものが、一番記憶に残るものとなった。最終的に200枚近いうろこが制作され、全長4メートルの鯉のぼりが完成した。しかし残念なことに完成した鯉のぼりは放射能の影響で、福島の空を舞うことはなかった。「福島に帰りたい」という被災者の想いを馳せた鯉のぼりは、山形の空を力強くはためいていた。

■前田哲の3.11
渋谷で映画を観ていたら、映写がストップした。「退場される方には再鑑賞用のチケットをお渡しします」と、館内放送があった。最後まで観たかったので、そのまま映画館に残った。途中4回ほど映写がストップしたが、なんとか最後まで観ることができた。映画館を出て、打ち合わせ場所へ向かった。しかしそのビルには入ることができなかった。連絡がとれず、途方に暮れてビルの前で立ち尽くしていたら、打ち合わせの相手がやって来た。場所を変え、近くのカフェに入り、音が消してあるテレビ画面をふと見ると、大量の車が流されていく場面が目に入ってきた。「なにかの映画のシーンかな」と一瞬思うが、そうではなかった。「9.11」のあのジェット機がビルに突っ込む映像を見た時と、同じ感覚に襲われた。

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プロフィール
■青山ひろゆき
画家。福島県生まれ。東北芸術工科大学大学院修了。主な個展として、「New Art Scene in Iwaki青山ひろゆき展」いわき市立美術館(福島)、「青山ひろゆき展−お気に入りの場所‐」清須市立はるひ美術館(愛知)、YOKOI FINE ART(東京)、YUNG ART TAIPEI(台湾)、西武池袋本店(東京)。グループ展として、「ゆらめく日常アートの交差点〜新進アーティストの視点〜」郡山市立美術館(福島)、「生まれるイメージ」山形美術館(山形)、「phantasia」Bunkamura Gallery(東京) 、ROPPONGI HILLS A/D GALLERY(東京)、 ART BEIJING(中国)、ART TAIPEI2009(台湾)、アートフェア東京(東京)、その他CHRISTTE’S HONG KONG(香港)など。

■前田哲
映画監督。大阪府生まれ。助監督として、伊丹十三、滝田洋二郎、阪本順治、松岡錠司、周防正行らの監督作品に携わった後、1998年に相米慎二監督のもと、CMから生まれたオムニバス映画『ポッキー坂恋物語・かわいいひと』エピソード3で劇場映画デビュー。主な映画作品として『sWinG maN』(2000年)、宮?あおい主演『パコダテ人』(2002年)、『棒たおし!』(2003年)、『ガキンチョ☆ROCK』(2003年)、伊坂幸太郎原作『陽気なギャングが地球を回す』(2006年)、松山ケンイチ主演『ドルフィンブルー』(2007年)、妻夫木聡主演『ブタがいた教室』(2008年)、市原隼人主演『猿ロック』(2009年)がある。最新作は、刑務所内の男たちが1年に一度だけ出される豪華なおせち料理を賭けて、人生で一番おいしいメシの思い出話でバトルする、マンガ原作の映画『極道めし』が、2011年9月に公開予定。

企画:和田菜穂子(美術館大学センター准教授)

TUAD mixing! 2011|「それぞれの3.11」8人のリレートーク

TUAD mixing! 2011

デザイン:奥山千賀(FLOT)

フライヤーをダウンロード
mixing-a.pdf(200KB)
mixing-b.pdf(400KB)

TUAD mixing! 2011
それぞれの3.11|8人のリレートーク

未曾有の大被害を被った東日本大震災。私たちの暮らす東北は、復興へ向けて新たな一歩を踏み出している。本年度のTUAD mixing! は、様々な分野で活躍中の本学教員による対談とした。それぞれの視点から、自分のライフワークと「3.11」について語る、8人のリレートーク(4回シリーズ)である。今だから、東北だから、みんなで語り合い、みんなで考えようではないか。

会場=東北芸術工科大学 本館1階ラウンジ
入場無料/事前申込不要
主催=東北芸術工科大学
企画・お問い合わせ=美術館大学センター 
tel: 023-627-2091
email: museum@aga.tuad.ac.jp

Schedule

「自分たちができることって?」

第1回:6月28日[火]17:30→19:00
「自分たちができることって?」
青山ひろゆき(画家/美術科洋画コース講師)× 前田哲(映画監督/映像学科准教授)

第2回「ヒトとモノの記憶」

第2回:7月6日[水]17:30→19:00
「ヒトとモノの記憶」
出演=藤原徹(修復家/美術史・文化財保存修復学科教授)×原高史(アーティスト/グラフィックデザイン学科准教授)

第3回「東北の未来を考える」

第3回:7月13日[水]17:30→19:00
「東北の未来を考える」
出演=三瀬夏之介(画家/美術科日本画コース准教授)×馬場正尊(建築家/建築環境デザイン学科准教授)

第4回:7月20日[水]17:30→19:00
「自然と向き合う」 田口洋美(環境学者/歴史遺産学科教授)×辻けい(アーティスト/美術科テキスタイルコース教授)

第4回:7月20日[水]17:30→19:00
「自然と向き合う」
田口洋美(環境学者/歴史遺産学科教授)×辻けい(アーティスト/美術科テキスタイルコース教授)

ナビゲーター:和田菜穂子(キュレーター/美術館大学センター准教授

過去のTUAD mixing!

TUAD mixing! 2009

www.tuad.ac.jp/museum/archive/1007_mixing2009/

TUAD mixing! 2010

www.tuad.ac.jp/museum/exhibitevent/index3.html

アニュアルレポートをダウンロード
AR2010-p4463.pdf(1.6MB)

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